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教育は学ぶ人の「想像力」を触発してこそ、と語る訳 学びの鍵は想像力-前編-

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國學院大學メディアの公式サイトから、note担当者がおすすめ記事を転載!
学校で学んだことをみなさんは覚えていますか?学校教育で得たものを生きていく上で活用していくには何が必要なのでしょうか。髙屋教授は「想像力」がカギだと言います。そんな髙屋教授のインタビュー前編です。
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学校で勉強したはずなのに、今ではすっかり忘れてしまった……そんな経験を持つ人は多いはずだ。どうすれば、学習したものが、私たちが生きていくうえでの血肉となっていくのだろう。髙屋景一・文学部外国語文化学科教授は、「想像力」が鍵だという。しかもその想像力は派手な刺激によってではなく、むしろじっくりとした学びのなかで培われる、というのが持論だ。インタビュー前編で、奥深い「想像力」の世界をひもとく。

 私が主に研究しているのは、学校教育という活動における「想像力」です。端的に言うと、授業でもテストでも、もし生徒の「想像力」を触発することのないものであったならば、それは教育と呼ぶのはふさわしくないのではないか、と考えています。学ぶ者の想像力を触発してこその教育、というわけです。
 ただ、想像力といっても、一般的にはいろんな意味を含むものでしょう。イメージを思い浮かべる力、目の前にないものについて考える力、あるいは直感や創造性に結びついた力、いろいろな捉え方があります。思想史的に考えても、これまでさまざまな論じ方がなされてきた概念です。
 ひとまず私が考えている想像力をお伝えすると、それは、目の前にない物事を思い浮かべる力のことです。しかし、ひとつ重要な点を付け加えると、そのような思考を働かせるときには、理性だけではなく感性も働かせることが必要になります。

 「perfink」という、心理学者デイヴィッド・クレッチが提唱した造語を取り上げると、わかりやすいかもしれません。「perfink」とは、「perceive(知覚する)」「feel(感じる)」「think(考える)」を合わせた言葉なのですが、これは人間の頭脳ないし心の働き方をよく表していると思います。私たちは、例えば新しい単語を覚える場合でも、決して辞書的な意味だけを認識しているわけではありません。自分の経験に照らし合わせながら、イメージや感情を伴って理解するわけです。単語帳を使って、英単語1つに訳語1つをあてはめて覚えるような言葉だけの学び方は、自身の経験に照らし合わせるような理解の仕方をしていないから身につかないのです。つまり、知識を詰め込んでいく受験勉強的な学び方では、こうした想像力がうまく働いていないのです。

 かつて私自身、受験勉強を終えて大学に入ったとき、たくさん勉強したはずの英語も歴史も、きちんと身についていないということを痛感しました。第二次ベビーブームの世代で、大変な競争のなか、文法も年号も覚えてきたはずなのに、自分は何もわかっていないのではないか、と。そんなとき偶然にも教育を学ぶことになり、アメリカ留学のなかで教育哲学の授業と出会い、現在のような研究の道へと入っていくことになりました。

 さて、では肝腎の想像力は、どのようにすれば触発することができるのでしょうか。
 その方法として、近年盛んに論じられてきたアクティブ・ラーニングを思い出される方もいることでしょう。
学生の主体的な、深い学びを触発するために、プロジェクト型学習やディスカッション、プレゼンテーションを行う。こうした取り組みのなかで、本当に当初の目的が達成されるのならば素晴らしいことですし、実現できている教育現場もあると思います。
 しかし、日本の多くの教育現場においては、形式化・形骸化してしまっている危険性があるのではないか、と私は見ています。厳しい言い方をすれば、ディスカッションしたり、プレゼンをしたりしただけで、よかったねと終わって、表面的な学びに終始してしまう……そんなことになってはいないでしょうか。
 参考にしたいのが、私が翻訳と紹介を進めているイギリスの哲学者メアリー・ウォーノックの議論です。彼女の本で最初に日本語に訳したのが、その名も『想像力:「最高に高揚した気分にある理性」の思想史』(法政大学出版局、2020年)という一冊でした。

髙屋景一訳『想像力:「最高に高揚した気分にある理性」の思想史』
法政大学出版局、2020年)

 副題に当たる「最高に高揚した気分にある理性」というのは詩人ウィリアム・ワーズワースによる想像力の定義です。実は原著に副題はないのですが、ウォーノックの想像力概念は、まさに、このロマン主義の詩人が言うように、理性と感性が共同するところに働く能力、perfink の能力であることから、あえて付けました。
 この本自体は教育を主題とするものではありません。しかし、最後に少しだけ教育に触れていて、その後出版された『考えるあなたのための倫理入門』等の一連の著作で、教育について展開しています。それらの著作でウォーノックは、想像力の触発と育成こそ教育の目的であるべきだと論じており、その鍵が、物事を深く(彼女の言い方では「適切に」properly )学ぶことです。彼女によれば、どのようなことでも、掘り下げて学ぶと、学ぶべきことは無限にあるとわかります。アイザック・ニュートンが甥に宛てた手紙で、自分は世間で大科学者と思われているかもしれないが、波打ち際で綺麗な小石や貝殻を夢中で集めていて、その向こうに広がる知識の大海の存在に気づいていない子どものように感じていると述べています。この、知識の無限の広がりの感覚を、生徒自身が持つようになることが重要です。そのためには、網羅主義的にまんべんなく学ぶことよりも、深く掘り下げて学ぶことの方が効果的なのです。

 ウォーノックの教育論でもうひとつ面白いのは、「孤独」の効用を述べている点です。自分の知識や思考、あるいは価値観といったものを相対化し、超えていくということ。先ほど触れたアクティブ・ラーニングのような協働的な学習とは異なり、ひとりで本を読んだり、思索を深めたりしていくという学び方が、ここから浮かび上がっていきます。
もちろん、協働的な学習が悪いわけではありません。ただ、そうした方法が持ち上げられるあまり、一人で、深く学ぶというあり方がないがしろにされてしまってはいないだろうか、という懸念を私は抱いています。講義を聴いたり、すぐには読み解けない難しいテキストと格闘することがすべて生徒の主体的な学びにつながらない、ということでもないのです。

 最近ですとさらに、ビジネスの手法を教室での学習に取り入れる、という事例があります。アイスブレイキングやブレインストーミングを模したような学習方法がかなり教室に持ち込まれているように感じます。決して一概に批判するわけではありませんが、そこから本当に学習が深まっているのか、生徒が学びの奥深さに気づいていけるのかという、その後の学びの道筋や方法にも注視すべきです。

髙屋景一訳「考えるあなたのための倫理入門」
春秋社、2022年)

 ウォーノックの訳書で、この8月に上梓したのが、『考えるあなたのための倫理入門』(春秋社、2022年)です。このなかで彼女が論じていることのひとつは、あらゆる道徳の基礎に、他人の身になって共感的に理解する想像力の働きがあるということです。そして、想像力を働かせることができるようになるためには、学びの奥深さを体験する必要があり、そのためには、自分が学び始めたことをきちんとやり遂げる経験が重要だと論じています。想像力の問題と並んで、私が取り組んでいるテーマは、後編でお話したいと思います。英語を中心とした言語教育、そしてライティングといったテーマなのですが、想像力とはまったく関係のないところから始めた議論ではあります。でも、気づけばどこか私の中で、通じ合うことを考えてきているようなのですね。

後編は次週公開予定です。お楽しみに!


髙屋 景一
所属:文学部 外国語文化学科
研究分野:教育哲学、教育思想史、カリキュラム論

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