全体主義に対抗する(4)抵抗する人々
しかし,少数ではありますが,ナチス体制に協力せず,公的な生活に関与することを拒んだ人々もいました。もちろん,ナチス支配下では,公然とした反対運動は死を意味しますから,表立って行動はできません。しかし,彼/彼女らは,ナチスに協力しないという抵抗を示すことで,全体主義に対抗したのです。当然,ナチスに協力する大多数からは,「無責任だ」と批判されることになります。しかし,これらの人々は最後まで抵抗を貫きました。それはどうしてできたのでしょうか?それをアーレントは次のように説明します。
「これらの人々は,公的な生活には全く関与しないことを決めたのですが,それはこのことで世界がより善くなるからというのではなく,そうしなければ,自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたからです。ですから公的な生活に参加することを強制された場合には,これらの人々は死を選びました。」(アーレント『責任と判断』ちくま学芸文庫)
つまり,これらの人々は,「大多数の人々からは無責任と非難されたのですが,あえて自分の頭で判断しようとした唯一の人々だったのです」(『同上書』)。「凡庸な悪」と(悪に対抗する意味での)「善」を分ける基準は,自分自身で考えるかどうか,つまり判断の基準を自分の内部に持っているかどうかであったわけです。
「最善なのは,ただ一つのことだけが確実だと知っている人々です。すなわち,どんなことが起ころうとも,私たちは生きるかぎり,自己のうちの自己とともに生きなければならないことを知っている人々なのです。」(『同上書』)
そして,重要なことは,このような自己をよりどころとして抵抗する人々と,「凡庸な悪」を体現してしまう人々との相違は,社会,文化,教育などのどのような違いによっても定められないとアーレントは主張します。つまり,学歴,職業,出自など全然関係ないわけです。人類には,一定数このような人々が存在します。平時には見分けがつきませんが,「異常事態」が生じれば,自分自身の基準が発動するので,このような人たちは全体の行動から自ら外れるように動きます。
残念がら,このような人々はいつの時代でも少数派です。アガンベンは,ナチスと同時代のイタリアのファシズム体制の下で,ファシズム体制への忠誠を拒否して大学を去った大学教員は,1000人のうち僅か15人であったと述べています(アガンベン『私たちはどこにいるのか』青土社)。
しかし,今は「凡庸な悪」の側についてしまっている人々でも100パーセント納得して従っているわけではありません。そこに何パーセントかでも,自分の頭で考える余地が残っている人なら,判断が変わる可能性は十分にあります。ですから,自分の判断で行動する人(行動せざるを得ない人)は,明けない夜はないと信じて,抵抗するしかありません。
非暴力的な抵抗は,迂遠に見えても,最も効果的な方法です。たった一人の抵抗運動が,燎原の火のごとく広がり,社会が変わることは良くあります。インドのガンジーは有名ですが,水俣病をはじめ各種の薬害訴訟も少数派の抵抗運動が全体を変えた例です。もちろん,途中から多数派に便乗してくる「自分では何も考えない」人々もいて,少数派の運動が乗っ取られてしまう危険性は常にあるので,ここは注意が必要です。
抵抗するうえで重要なことは,世界や社会は一瞬で変わることを知っていることです。私たちは,何でも徐々に変化していくと考えがちですが,革命的な変化はそうではありません。社会主義諸国の崩壊を見ても分かるように,社会は一瞬で変わります。ということは見た目以上に,勢力は拮抗しているわけです。抵抗者への風当たりが強くなればなるほど,異論の封じ込めが激しくなればなるほど,相手も追い詰められていることは確かです。自分を信じて,踏み止まるしかありません。