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私は偉そうになってないか?

小学生や中学生の時に頻繁に思ったことがある
それは、偉そうにしてはいけない
この感覚は、今でも自分を守っている感覚の1つだ

何でかというと、こんなことがあったのだ
中学生の時、『だれやん、こんなにしたの』と言っていたら
先輩だった
小学生の時は、何か言った相手が親の関係者だったような気がする

ここの説明が難しいのだが、言ったらダメという感覚ではなく
偉そうに見えたらダメと思った

夫と会話をしていても、たまにふとよぎる
『コーヒーぐらい飲む?』
”あれっ私、今、ぐらいって言った?コーヒー飲む?でいいじゃん。頭が高くなってるのかも”
正直ヒヤッとする

この地球生活では、偉そうにすると大変だ
悪魔的にものを考えても、聖人君子のように考えても
どっちも地獄にしか行き着かない

悪魔的にものを考えてみると、まあこんな風
例えば、『あなたは、こうした方がいい』とアドバイスしたとする
相手から聞かれてもいないのに、良かれと思って言うとどうなるか
偉そうにしているつもりはなくても、大体心の中はこうなる
『偉そうに』
『お前は人のことに首を突っ込むほど、余裕しゃくしゃくな完璧なヤツなのか?』
『聞いてないんだけど?』

自分が相手より上に立つ形になってしまい
自分が相手を馬鹿にしているとみなされる
そうだな、地球ではこんな風に捉えられる
『あなたはこんなことも分からないだろうから、こうしたらいいんだよと教えてあげる』
ずいぶんと飛躍した解釈に見えるかもしれないが
これが悪魔的と申すゆえん
ストレートに意味までは通じない
ゆがんで伝わる

よって、自分が上に立つ形になると、あら不思議
何かを失う

この何かは、本当に何かである
欲しいものが急に出てきて、お金を失ったり
信頼を失ったり

何かが取られるのだ
危ない危ない

『○○してあげる』は、危ない危ない

聖人君子的にものを見てみよう
さっきと同じようにはたとえを出せない

なぜならば、この考えで動いている人は
馬鹿になれるし、人に聞けるし、アドバイスだって聞かれてからしかしない
自分が出しゃばったら、相手の領域を侵すんじゃないかと思うからだ
アドバイスだって、おそらくこうするはずだ
『私ならこうする』と
簡単にこうした方がいいなんて絶対に言わない

自分は馬鹿だと思うことは、卑下することとは違う
自分は変わらなきゃいけないという感情の延長線上にある
馬鹿だから、知らないことがあると思える
自分を成長させることが出来る
天狗になることもない
人の上に立ち悪い気を起こさせることも、まれになるだろう

まあ人間だから、ゼロにするのはなかなかに難しいことだ
現に私はたまに、しまった!と思うことがある
その時は覚悟する
人を『馬鹿にした』罰だから

でも難しいからといって諦めたら腐る
悲惨だ
自分に厳しくいる必要あり(>_<)

ここまで書いて思った
偉そうになってないか?じゃなくて
偉くなってないか?だった

私は、偉くなってないか?

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