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「誰か」になることから「誰でもない」へ帰る

自我とは「誰か」になる働きである。この表現はラム・ダスの『覚醒への糧』という本の中で見かけたと記憶しているが、自我や自意識について言い得て妙だなと思っている。

「誰か」になる働き

「誰か」は他の誰かだけじゃない。「自分」も誰かに含まれる。
つまり、「あの人みたいになりたい」と同様に「理想の自分になりたい」も今ここにいる現実の、そのままの私じゃない「誰か」になりたいという働きなのだ。

自我とは働きであると定義すると、それは働きだから止まることがない。というか、できない。
止まったらそれは終わってしまう。働きではなくなってしまう。(自我には防衛機能がしっかり備わっていて、止まらないようにうまく工夫されている。自己観察をしていると、この機能の達者さには本当に驚かされる。)

自我とは「誰か」になる働きである。そして、その働きをやめることは自己矛盾になるので、自我自身が止まる(自分を止める)ことはない。

自己イメージの創造・維持・破壊

「誰か」になる・なろうとするわけだから、今現在のそのまま、なんにも手を付けていない状態の私とは「別の誰か」になろうとするということ。これが自我の側面の一つ、創造的作用だ。
何を創造するかと言えば、それは自己イメージだ。
ちなみに自己イメージはその名の通り「イメージ」だから現実そのものでは決してない。

次に、現在「自分はこういう人だ」を維持しようとする作用。言い換えれば自己イメージを維持しよう、一貫性を保とうとする作用。
この維持作用は「現在の、手つかずの私」がどういう状態かとは別に、そのあるがままの私をある意味無視して働く作用であると言える。そもそも維持しようとするのが自己イメージだから。しつこいようだが、自己イメージは現実=あるがままではない。現実にはなれないのだ、イメージだから。本質的に絵に描いた餅である。

最後に、「このままじゃ駄目だ」というやつ。つまり、現在の状態を壊したり、変化させようとする作用。便宜上、破壊作用と呼ぶ。
破壊作用、これも自己イメージに対して破壊・変更をしようとするものだ。自己イメージは現実ではない。しかし、この結果の行為は当然現実のリアルな自分に影響を及ぼすこともある。

自己イメージは自我の燃料

こうして見ると、自己イメージというのは燃料だ。
自我が「誰か」になる働きだとしたら、その燃料が自己イメージである。
自我という働きは「誰か」になろうとする。「なった」と判断するか「なれなかった」もしくは「なってる途中だ」と判断するか、ともかく期待した結果と比較した判断が自己イメージを創り出したり・維持したり・破壊したりする。

自我の働きが創造・維持・破壊のどの方向で働いていようが、また、その結果がどうであろうが(成功しようが失敗しようが)、自己イメージは少しずつ、そして、際限なく増幅していく。(なので、一般に、子どもよりも大人のほうが自我が強い。「しっかりしている」と見られやすい。)

まとめると、自我は「誰か」になろうとし、その働き自体やその働きの結果を「自分(自己イメージ)」として保存するというわけだ。

自我は現実の周りを回っている

ここまでの内容を冷静に読むと、自我はある中心の周りをぐるぐる回っていることに気が付く。その中心とは「今、現在、現実の、あるがままの私」である。この中心が唯一の現実だ。

自我は現実の周りをぐるぐる回り続ける「非現実の」働きである。
自我に付き合っている=自我と自己同一化している限り現実にたどり着くことはない。
なぜなら、自我はぐるぐる回る動きそのものだからだ。ぐるぐると動き続けることを止めてしまったら自我は死んでしまう。
自我が止まる場所、自我の墓場、それが円の中心、つまり、「現実」なのだ。

自我は心の病

ここまで書いたことは、なんというか、状況描写というか、ただ単に「自我とはそういうものですよ」という話である。「烏龍茶って水に比べると茶色いよね」と言っているのと本質的に変わらない。ただそういうことだ、というだけのことを書いた。

ここから先は、次の一句に何か思い当たるものがある人でないと読むのが辛いかも知れない。

違順いじゅん相爭う、是を心病とす。

現代語訳: 違っているとか合っているとか(=自分の心に叶うとか背くとか)を争うのは、心の病と言うしかない。

『信心銘』僧璨 http://www.shomonji.or.jp/zazen/shinjinmei.pdf

これは中国禅宗の第三祖僧璨そうさんの作とされる『信心銘しんじんめい』の中の一句である。

これまで述べたように、自我とは現実の周りをぐるぐる回ってしまう性質を持ったものだ。なぜぐるぐる回ってしまうかと言うと、現実ではないものをあれこれ取り上げて
 「これよりもあれのほうが良さそうだ」
 「これはもう嫌だ、あれにしよう」
 「これもほしい、あれもほしい」
という具合に、際限なく自己イメージ(← 非現実)を増長させる働きそのものがその本質だからだ。

僧璨禅師は、ずばりこれは心の病ではないかと指摘なさっているのだ。

これ(自我の性質)を病と見るか、それとも「自己実現、自己の成長の『基盤』として必要なものだ」と見るか、このどちらかで大きく意見が分かれると思う。
(後者の考えの傾向が強い方は、気分を害さないようにこのへんで別のページへ遷移したほうがよろしいと思う。)

現実の私は誰でもない

僕は、僧璨禅師のおっしゃっていることは至極尤もだと思う。

なぜなら自我が自己イメージを燃料にぐるぐる回っているその中心=現実の私は誰でもないからだ。

誰でもない(もっと言えば、なんでもない)ものが現実で、誰か(何か)と認識できるものは即その時点で現実から離れている。

現実の周囲を回って言語化やイメージ化を行うのが自我の働きなんだと、つまり、この働き自体は自我そのものの性質でそもそも自我とは現実を対象として見るもの=現実から離れて距離を置くものなんだと理解できると、その衛星のような性質の自我に自己の中心を置き続けようとすることは病気だと理解できるだろう。

我々の居場所は自我の働きに囚われた自己イメージの中ではない。
そこは外側だ。常に振り回されている場所だ。
我々の居場所は現実の中だ。現実がホームだ。

ホームである現実で我々は誰でもない。
誰でもないし、なんでもない。
しかし、だからこそ、我々はホームである現実に居るとき、あらゆる可能性を持っている。
この可能性は、このときに最大値になるのだ。

別の誰か(ここには「自分」も含まれる)に自己同一化することは、このなんでもないものがあらゆるものになる可能性をなんらかの形で限定することである。
これは仕方がない。自我と自己イメージのキャパシティと性質に、可能性の幅や在り方が左右されるからだ。

外向きから内向きへ

我々は物事を認識したり思考したりするとき、多かれ少なかれ自我をベースにして見ている。

自分とは誰か?

世界の中の自分というとき、自分が基点になって世界を認識している。
世界だけがあっても自分がそこに存在しなければその世界は認識できない。世界と自分、どちらを認識するものにしようと認識されるものにしようと、この認識があるときにはその2つが同時に立ち現れているのである。

自分とあなた、自分と彼・彼女、自分と他人、自分と社会、自分とそれ…すべて同じ理屈である。なんなら「自分と自分」(自分の中の自分)というのもこの理屈の範疇に含まれる。

ベースにしている自分、基点にしている自分、自己同一化している自分…、この「自分」が一体誰なのか?と考えたことはあるだろうか。

 世界を認識している自分とは誰か?

 他者を見ている自分とは誰か?

 望みが叶ったと喜んでいる自分とは誰か?

 思ったように行かないと苦しんでいる自分とは誰か?

と、自問自答してみたことはあるだろうか。

通常は逆のことを考えることが多いはずだ。

 自分が見ているこの世界はどうなっているのか?
 あなたは何者なのか?(これと同じ質で「自分とは何者なのか?」)
 自分を喜ばせるものは何か?
 自分を苦しませるものは何か?

これが通常の(自我の)思考である。
だから、「自分とは誰か?」という問いかけは、通常の思考の方向を反対向きにすることなのだ。

主語的と述語的

構図的に、「自分とは誰か?」という主語の存在を確認する問いは内向きである。
その問いの向こうに現在のあるがままの現実がある。
(いや、現実は常にここにあるのだが、自我は現実ではなくイメージを見ているから、一枚ベールがかかっているような状態になっている。)
そして、通常の思考、つまり
 「私がほしいのは何か?」
 「僕がなりたいのは誰か?」
などの述語的問いは外向きの思考である。

内に向かうほど、言語化やイメージ化が困難になり自我的思考は破綻していくが、その分、今現在の現実に近づいていく。

逆に、思考が外に向かうほど、自我の主に利己的感覚は刺激され、自分(他人とは別の自分、世界の中で独立した自分)が存在するという感覚は増していく。

程度ゲーム

通常の思考とは何かというと、外方向にどのくらい出かけていくのかの「程度ゲーム」をしていると言える。

外側に向かう述語的思考では、あるカテゴリーやある距離感のフィールドは心地よく、別のところでは不快になる。

例えば、安定志向が強い自我を持っている場合、十分知っている場所を歩いている自己イメージが保たれる場合は心地よく、知らない土地を歩く自己イメージは不快感を呼び起こす。
ちなみに、冒険したい・危険を犯したいという傾向が強い自我の場合は逆になる。
いずれにしても、自我の傾向やパターンによって快不快が設定されたマップを手に、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするゲームが展開される。
これが外向きの思考の特徴だ。

僧璨が言った「心の病」とはまさにこのゲームにはまり込んでいる心のことだ。
それはゲームなのだ。はまり込みすぎるのはただの病気だ。依存症だ。

内へ

一方、内に向かう方向がある。

 「~している(~である)自分とは誰か?」と問う方向。

 普段は辿らない、不慣れな方向。

 だんだんよくわからなくなる方向。

 自分がなくなってしまうように感じる方向。

 あっけなく思考がショートし、自己イメージが破綻してしまう方向。

こうして特徴を書き出すと、なんにも良いことがなさそうである。
人気がないのも当然かも知れない。
だいたい、普段誰しもがこの方向性の思考を忘れているし、存在することすら知らない人はザラ、あえて無視している人もいるくらいである。

内に向かうことの利点は何か?
そんなものはない
利点とは、自我が述語的思考で外に向かうとき、自分に付帯させる情報を選り好みする選択的判断の中で意味を持つ言葉だ。
述語ではなく主語に対して疑問を投げかけていく思考の方向、選択とは反対方向=棄てる思考では、選択して所有するというプロセスが発生しない。
だから利点という概念に居場所がない。よって意味がない。

利点は何か、リスクは何か…という思考パターンを超えること。内に向かうとはそういうことだ。

勇気の貯金

だから理詰めで、論理的に、一貫して、矛盾なく考えることができないことに耐え難い恐怖を感じる人が居たとして(これを読んでいるあなたがそうだとして)、それでも何らかの理由で「内に向いたい」という場合は、まず勇気を貯めることが先だ。
そして、その勇気を使うことを訓練的に学ぶ。
勇気の使い方を知らないと恐怖に立ち向かうことは難しい。

繰り返すが、内に向かうことに利点はない。
内に向かうことはホームに帰ることだからだ。獲物を追いかけることとは逆なのだ。
利点や欠点、利得や害悪、効率の良し悪し、損得勘定…これらは獲物を追いかける作業に付属する概念であって、獲物を捉える目的を捨て去ると同時に意味がなくなってしまう。

非現実のゲームの中で戦い疲れた人が、現実の中へ帰る、現実に目覚める、これが内に向かうことの本質だ。

ビジネスマンの喩え

昼間は会社でビジネスマンとして多忙を極めている人が、家に帰り、スマホをオフにしてソファーに座る。ビジネスマンとしての自分(ペルソナ)を脱ぎ捨てて、誰でもない、ただ一人の人間として自由にくつろぐ。

この「くつろぎ」は、どうやって得たものだろう?
日本語を読めばわかるはずだ。この人が仕事から離れペルソナを棄てた(脱いだ)とき、自動的に手に入ったのだ。

仕事を離れるのに努力は要らない。仮になんらか努力してしまっているとすれば、それは仕事から離れるプロセスの上ではむしろ邪魔になる。
家に帰り着いたのに仕事のことをいつまでも考えてスマホの電源を切らず、フロアをウロウロしていたのでは、一向に「くつろぎ」はやってこない。

更に悪いのは、「本当のくつろぎは…」とか「もっとくつろぐには…」なんて考えて余計なことをやりだすことだ。

何かをやること(Doing)から離れる ーーー くつろぎを手に入れるためにやることはたったこれだけなのだ。
くつろぎ方にこだわりを持っている人は、結果としてくつろいでいない。くつろぎから遠のいてしまっている。

この「くつろぎ」が内に向かうことの利点だ…と言えたら話は簡単なのだ。

実際は上の喩えの通りで、「くつろごう」と思って努力することは逆効果である。
「くつろぎ」に期待するほど、内に向かうプロセスでさえもあなたをその「くつろぎ」から遠ざけてしまう。
なぜなら「くつろぎ」が次の獲物になってしまって、あなたはまた狩りに出かけることになるからだ。

外向きと内向きの質的違い

外向きの思考に特徴的な「目的のために(期待を満たすために)努力する」「ご褒美がもらえるから頑張る」というパターンが、内向きの思考には通用しない。
目的や期待やご褒美なんて、そんな概念はないからだ。

もう一度僧璨が『信心銘』で言っていることを読んで欲しい。

違っているとか合っているとか(=自分の心に叶うとか背くとか)を争うのは、心の病と言うしかない。

そう、これは外向きの思考の中に内在するパターンのことを言っている。
内に向い始めると、外向きの思考=心の病の中では通用していたパターンが通用しなくなる。
なぜなら心が健全さを取り戻し始めるから!
今、目の前の現実に目覚め始めるから!

自己の本質へ

現実に立ち戻ったとき、現実から離れていないとき、私は誰でもない。

したがって、私の自己の本質は誰でもない、なんでもないものだ。

「誰か」を意識しているときは非現実の中に身を置いている。
現実から離れてしまっている。

「誰か」という認識対象が立ち現れるためには「自分」という基準となる主体が必要だが、これらはいずれも概念やイメージである。
つまり現実そのものではない。
主体と客体が成立するのは非現実の中でだけだ。
主体と客体は同時に、依存して、出現する。どちらかが「より現実的」ということはない。どちらも同程度に幻想である。

幻想に巻き込まれ続けるのは心の病気としか言いようがない。
言ってしまえば、「自分」という自己イメージの中で生きている我々は全員病気だ。

一瞬で自由になる

肉体の物理的な病気や外傷と違って、この心の病気を癒やすのに時間は本来必要ない。
努力も要らない。全部邪魔だ。
人によってあったほうが良いかも知れないのは「勇気」、ただそれだけ。

ではどうやって癒やすか。

ほんの一瞬でもいい、完全に「自分」という概念から自由になる。
放り投げてしまう。棄ててしまう。それだけ。

「私は家に帰る。仕事はしないぞ。役目は終わりだ。解放だ。」と決意して実行すればいいだけ。

家とは心のホームだ。
そこは思考じゃない。ハートだ。
ハートに帰る。

「そうは言っても、でも…」と思考が話し始めたら家から遠ざかっている。ハートから思考に逆戻りだ。
帰ると決めて帰るだけ。

思考(出先)からハート(家)まで距離があるわけじゃない。
我々はむしろ、家の中で出かけている夢を見ている。
本質的存在は、もう家に居るのだ。
というか、家の中から出たことなんて一度もない。
ハート(家)のない人なんて本来いない。

思考はオプションだ。
取ったり外したりできるもだ。

思考がない状態、ハートの中でくつろいでいる状態があることを知ろう。

一人になってみよう。
スマホやパソコンや周囲の人々など、情報が入ってくる可能性を閉じよう。
頭の中で思考が流れているのが分かるだろうか?
いろいろな考えが集まったモヤモヤが頭の中でうごめいている。

思考は集団だ。

決して一本筋の通ったものではない。
いろんな断片の集まりだ。
思考は社会の縮図のように思う。

多様な思考たちの中で、
 何が正しくて、何が間違いか…
 どんな考えが優勢で、どんな考えは劣勢か…
 どの部分は良くて、どの部分は悪いのか…
 どこに価値があって、どこが無駄か…
こんなことを考えるのにかまけるのは少しの間やめよう。

考えは考えだ。
考えの中身には立ち入らないと決意しよう。

考えが現れて、持続して、消えていく…
次の考えも、現れて、持続して、消えていく…
考えの中身にとらわれなければ、考えとはすべてこうなのだと見抜くことができる。

あなたは今、現在、この瞬間、なんらかの特定の考えをギュッと握りしめているだろうか?
その考えからちょっと手を離すことはできそうかな?

もしできるならやってみてほしい。
特定の考えを握りしめていなくても、あなたの存在全体は十全に存在している。
ある考えを手放すことであなたの存在が消えてしまうことなどありえない。(あなたの現実に生きる本質はすでに家でくつろいでいることを思い出そう!)

もし次のような考えが浮かんだら、と考えるかも知れない。
 「自分が消えてしまいそう」
 「不安だ」
 「怖い」
こういうのは感情だろうか?考えだろうか?
チェックしてみよう。
声やイメージが頭の中で、何か他の概念と関係してそう言っているならそれは考えだ。棄てても平気だ。

もし、その不安の声が、言葉ではなく、下っ腹のほうからこみ上げてくる、押し寄せてくるようなものだとしたら、ここで瞑想はやめたほうがいいかもしれない。(そう、この文章は瞑想だ。)
その不安は本能的なもので、あなたの精神を傷つけてしまうかも知れないからだ。

さて、さて。
思考の流れ、考えが浮かんでは消えるプロセスを眺めることはできただろうか?

思考の流れをただ見ることができれば、あとは考えと考えの間には切れ目があると言うことを知るだけだ。
考えがないとき、あなたは自動的にハートに帰っている。

「ハート」とは何か? それはどこにあるのか? と考えても仕方がないからやめたほうがいいよ!
それでもどうしても「胸に手を当てて瞑想したい。ハートに出会いたい」と言うなら、胸の右側(心臓がないほう!)に意識を集中してみよう。
ラマナ・マハルシという人は「ハートとは心臓のことではない」と言っていたんだそうだ。

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考えと考えの間には考えのない切れ目がある。
まるで昨日と今日の間の眠りの時間のように。

もしくは、人間は意識的に考えの外に出ることができる。
まるで服を脱ぎ捨てるように。

はたまたこうも言える。
もともと考えとはハートの波に「名前と形」を与えたものに過ぎない。「なーんだ。そもそもハートから出ていないじゃないか」と気付くことが今この瞬間に許されている。そして常に許されている。
全体の中で起こっていることに気付いてしまえば、目覚まし時計のアラームで起こされるように、現実への目覚めが起きる。

ハートが現実

とかく我々は思考が現実だと思い込んでいる。
この文章を読んで「ハートが現実だ」という見方もあることを受け入れられたら、家に帰るためのチャンスが生まれる。
思考が現実だ、自己イメージが自分だ…と思っている間は、多分一生かかっても家には帰ることができない。
でも、思考は表面的で、ハートの海の波のようなものだと理解すれば、ハートが常に我々を待っていてくれることを思い出せるんじゃないだろうか。

一瞬で家に帰るには、つまり、今この瞬間ハートとつながるには、今まで持っていた自分や世界のイメージを完全に蒸発させてリセットしてしまう勇気を持つこと、そしてそれを実行するだけだ。
この実行には、本質的に時間は必要ない。場所も要らない。手順もない。準備は要らないのだ。

最も手軽で直接的なのは、「自分は誰でもない」ということを受け入れてしまうことだと個人的には感じる。

誰もいない

誰でもない視点から他人を見ると、やはりその人も誰でもない。
誰でもない人が誰でもない人を見ている。
誰でもない人が誰でもない人に話している。
もしくは、誰でもない人が「今だけ」誰かの役を演じて話し、誰でもない人が「今だけ」他の誰かの役を演じて聞いてくれているようにも見える。

自分が本質的に誰でもないことを受け入れてしまうと、誰もが誰でもないという点では同じだ、平等だ、という思いが自然と湧いてくる。
本質的に悪い人も良い人もいない。
それはそこに「誰か」がいないと成り立たないのだ。
悪い人とか良い人とか、そういうのは役だ。
本人たちが「これは役だ」とわかって演じていないとやっかいなことに巻き込まれる。それだけのことなんだ。

誰もが「誰でもない」(←ちょっと日本語的にわかりにくいけど)というホーム、つまりハートのレベルでは自分と他人の区別はない。

誰もいない。

個々の肉体の中では「私は〇〇だ」という自分を「誰か」だと考える自我=外向きの考えが働いている。いや、過剰に働きまくっていることがほとんどかもしれない。

驚くべきなのは、それにも関わらず、つまり「ほぼ全員が自分は『誰か』だ」と考えているにも関わらず、それとはまったく相容れない性質を持った「誰もいない世界=現実」がかんなりうまーーーーーーく回っているということ!
これには本当にびっくりしてしまう。

みんな「自分」という夢を見ている。それでも世界は回るんだ。すごいなーと思う。

SN

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