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『奇跡を求めて』を読んでみました

P.D.ウスペンスキーの『奇跡を求めて』を一通り読んでみました。

一言で感想を言うと、「不思議な本だなぁ」と思いました。

グルジェフ語録としての出来の良さ

『奇跡を求めて』に収録されているウスペンスキーがG.I.グルジェフの講義を再現した部分は、ウスペンスキーの死後にグルジェフ本人が目を通してその正確性を認めたそうです。
この前情報があったからか、グルジェフが話している部分はまるでレコーディングしたものを文字起こししたような雰囲気すら感じながら読みました。

グルジェフの『ベルゼバブが孫に語った物語』をまだ1回しか通読していない僕からすると、ウスペンスキーの『奇跡を求めて』に載っている内容や解説は非常に参考になり、訳者の解説の丁寧さも相まって、グルジェフの言いたかったことへ一歩近づいた感じ、独力では到達できないレベルの理解に導かれたと思います。本当に感謝です。

しかし、『奇跡を求めて』の基本的なスタンスとしてはグルジェフのもとを離反した男が書いたものです。

本人の意図に反してありがたい本

だから、グルジェフがミーティングで語った内容の再現も、半ばそれを批判(ときには非難)するためであったり、「自分にはよくわからなかった(説明に不満を感じる)」ということを述べるためであったりすることがしばしばです。

しかし、ウスペンスキーのグルジェフを批判するという意図に反して、引用されているグルジェフの語りは「よくまとまってて、わかりやすい」と感じることが多く、グルジェフについて知りたい僕のような人間からすると感謝しかありません。

それから、ウスペンスキーが勘違いしたままだったり、彼の自己正当化のために歪められたり誇張されて記載されている部分については、訳者の郷氏がそれを容赦なく指摘しているのですが、その指摘の過程で詳しく背景などが説明されることでより深くその部分のテーマそのものを理解することができました。

具体的には、

  • 進化的退化、回帰的進化

  • センターの数をどう数えるか

  • 水素表の意味

  • 「自分を覚えている」とはどういうことか

などです。グルジェフの著書を読んだことがないと、これだけ見てもなんのことかわからないと思いますけど…。

人間ウスペンスキー

ウスペンスキーの性格は簡単に言えば「負けず嫌いのインテリ気取り」です。

グルジェフから聞いた話の中で理解できずつまずいたとき、グルジェフの言葉の中に間違いを見つけることに執着したり、「自分はグルジェフより良いアイデアを思いついた」ということで自分の思いつきのほうを正しい解釈としたり…ということをよくやるんですね。

例えると、どこかの子どもが四則計算(+ー×÷)を習ったと、でもその一部を理解できなかった。そのわからなかったのを、四則計算の理屈が間違っていると言ったり、先生の教え方に難があると言ったり、四則計算に代わる「俺算」を作り出して「こっちのほうが正しいから俺は今日から割り算の代わりに俺算を使う」と宣言したり、と…そんな感じのことをウスペンスキー(子ども)がグルジェフ(先生)に対してやっています。

ある意味ウスペンスキーはめっちゃ人間臭い人というか、(グルジェフなんかに比べると)器の小さい人間=一般人サイズの器の人というのが丸出しなんです。

ところがそのおかげで『奇跡を求めて』はグルジェフを知るための良い参考書になっています。読んでみてそう思いました。

自分を見つめ直す機会になった

僕自身、いろいろと神秘的なことを本で読んで勉強するのが好きですけど、ほとんどのことは頭でっかちで理解したつもりになっているだけです。

そんな自分の性癖に自覚があって、かつ、著者のウスペンスキーに自身を重ねて『奇跡を求めて』を読むと、グルジェフからの提言や訳者の郷氏の指摘を読むにつけ、まるで自分への言葉に聞こえてくるんです。
自分自身の中の「負けず嫌いのインテリ気取り」を認めて、自分のどうしようもなさと向き合う機会を得れました。

そんなわけで、ただ面白かったとか、ためになったとか、そういうのとは全然違う読了感を持ちました。
とても不思議な本だと思います、『奇跡を求めて』は。

SN

*** 連続投稿50日目 ***

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