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番外、こころ甘える

(心のカタチより)

”人は独りでは活きられない”のには、こころ甘える大切さがあります。

ただ。この”こころ甘える”が上手く出来ない人が多いのも事実です。その大半は”心甘える”をしているのです。

人が人に甘えるには、2つの”こころあまえる”がありその大概は”心甘える”となり、どちらかがどちらかに感情で甘えているのです。

少し話しは脱線しますが。
ぽち☆の文には特徴があります。それは。
”心”と”こころ”
”思う・考える”と”感じる”
”言う”と”云う”です。

これら前者は「感情」に関係し、後者は「気持ち」を表現します。それは物事が感情と気持ちに分けられる事からそのように表記しております。例として「裁判と道徳」もそうです。裁判は感情のぶつかり合いを解決するためにあり、道徳は感情とは異なり互いの気持ちで解り合えるのです。

道徳のようにすべてが気持ちで解かり合えればいいのですが、一旦感情を湧かすとそうは行きません。そのために、裁判があり、裁判するために”法律”があるのです。だから、”法律”も感情の産物です。

心のカタチのお話は、その気持ちと感情を判りやすく出来る限りしております。

”こころあまえる”もそうです。
”心甘える”と”こころ甘える”に分けられます。

”心甘える”がどちらかがどちらかに感情で甘えること。よく判るのが”愛”や”好き”と言う感情からの”甘える”です。この愛や好きを受け止めるパートナーも同じ感情で受け止めるからバランスがつり合います。

ただ、感情は疲れもするのです。感情高ぶっているときは、何ともないと心は感情を湧かしバランスを保たせておりますが、一旦、どちらかが覚めだすとそのバランスは簡単に崩れ相手に負担をかけます。

身に覚えのある方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

だからと云って、愛や好きが悪いとは決して云いません。
それは大切なことであり、人との絆のはじまりとなるからです。その感情から”こころ甘える”に変わる方々もいるからです。

感情の心甘えるに対し、”こころ甘える”は気持ちのバランスとなります。気持ちは”幸せ”を感じるチカラがあり、互いにその”幸せ”を感じ合うだけで支え合えるのです。

自分たちのこころには”幸せになりたい”という感情があります。その感情は気持ちから湧いた感情であり、それは誰もが持つ気持ちの現れです。自分たちはそれを感じ合うだけで、こころを繋ぎ甘えるのです。

それを絆とも云い。それには、心の力(かんじょう)は必要なく、重さも大きさもないからどちらかに負担かかることがないのです。

”こころ甘える”とは、どちらかが甘えることではなく、互いに甘え支え合うバランスを云います。それには『自分らしさ』があり、その自分らしさを醸し出すことで”幸せ”を共有する証になります。

だから”こころ甘える”は気持ちであり、互いのこころに負担をかけることはあり得ないのです。

”こころ甘える”にはもう一つの作用があります。それは、相手の心の中から幸せな記憶を引き出す作用です。人は不幸な記憶を引き出せば気持ちを見失いますが、幸せな記憶を引き出せば、その”幸せ”を共有する”甘えが”作用し合うのです。それは”気持ち”でしか出来ないのです。

人は感情を湧かす”もの”。それでも”幸せ”を感じれる気持ちに戻りたいのです。湧いた感情に心を囚われず、その感情を止めることで、こころが幸せを感じる余裕を創りだすのです。その余裕は気持ちに引き戻るチカラになります。

それは人である権利です。それを支え合える人と本当の”甘え愛(合い)”が出来ることが幸せのカタチです。

『こころ甘える』とはそう云う”もの”です。

皆さんの”こころあまえる”はどちらでしょうか。

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