気持ちを無視されるから人は傷つく
「#me too」運動が起きたのは7年前のことか。
読売新聞の『人生案内』の投稿を読みながら考えていた。つい先日も、NHK『こころの時代』で小松原織香さんのインタビュー『生き延びるための物語』を見たところだった。
小松原さんが被害を受けたのは20年前。
「#me too」運動が起きたのが7年前。
そう考えると、性暴力への認識はほとんど変わっていない。
そう思わざるを得ない。
新聞の投稿は、老健施設で働く50代の看護師女性からのものだった。施設を出て在宅介護になる利用者に対し、訪問介護を行っているという。
女性は上司に相談し警察に被害届を出した。しかし証拠がなく、どうにもできないと言われてしまった。さらに施設からは、利用者が減れば赤字になると言われ解雇された。
こんな理不尽なことがあるだろうか。
わたしの心はいきり立った。
せめて施設側が、被害女性の気持ちを大切にしてくれたら。
性暴力の被害者は、被害そのものも苦しい。でもそれよりも、「気持ちを無視されたこと」に傷ついている。
投稿者の女性で言えば、献身的に人を看護する「気持ち」を無視され、「欲求のはけ口」として扱われたことが何よりも悲しい。
そして施設側は、傷ついた「気持ち」を無視して「利益」を優先した。
利益を優先することが正当化される風潮があると思う。
施設側としては話は聞いているし、他にも利用者が居る。それを考えれば、施設の存続を優先せざるを得ないだろう。
そういう甘い考えが、性暴力がなくならない原因のひとつだ。
たびたび起こるフェミニズム運動で、意識改革は進んではいるだろう。
でもスピードが遅い。
政治家がよく「スピード感をもって」なんて言っている。
でも女性の権利問題は、そのスピード感の対象にはならない。
問題としては認識されている。
でも優先順位が低い・・・。
価値観は受け継がれるものだ。差別的な価値観を持った人に育てられれば、それが当たり前だという価値観を持つ。その連鎖に終止符を打つためには「自分がすべて間違っていた」くらい、まるごと考えをひっくり返す必要がある。わたしたち世代が、まさにその世代だ。
そう簡単なことではない。
よかったこともあった。間違っていない部分もある。仕方のないことだった。などと少しでも正当化する余地を与えてしまえば、心はあっという間に流される。これは、性暴力に限ったことではない。
意識改革で言えば、女性側も例外ではない。
老人ホームに勤務する女性の話で「胸やおしりを触られることをいちいち気にしていられない」という人がいる。それくらい老人からのセクハラが横行しているということだ。
セクハラを気にしていれば仕事にならない。
気持ちよりも仕事を優先すればそういう考えになる。減るもんでもないし。と。だからといって、受け入れているわけではない。そこを勘違いしてはいけない。
投稿者の女性のように、訴えれば仕事を失うリスクがあるとなれば、声をあげることに足踏みするのも当然だ。
性暴力とはなにか。
わたしは犯罪サバイバーと公言してnoteを始めた。
自分のうけた被害が「性暴力」と言えるのかどうか、疑問があったからだ。
でも新聞記事を読んで、わたしも性暴力を受けたのだと認識した。
わたしは「#me too」運動には参加していない。
自分事であると同時に、どこか他人事だった。
女性側の性暴力に対する認識不足もまた、闇が深いと感じている。
フェミニズム運動はまた起こる。
社会的弱者が定期的に自分をさらして訴えなければ、その権利を維持できない世の中だ。
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