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愛を美化したらわがね

両親ともに岩手県の片田舎出身。そんな共通点から親近感がわいた、若竹千佐子さんの小説『おらおらでひとりいぐも』を読んだ。

夫に先立たれ、ふたりの子供とは疎遠になり、ひとりになった桃子おばあちゃんの心の声を聞きながら、人生を学び、女性の生き方を学ぶ。そんな物語だと感じた。

とくに既婚女性には、共感できる部分が多いと思う。

でもわたしは、子供の立場から、桃子さんと母親とを重ねて読んでいた。



桃子さんと娘との関係は、桃子さんと母親との間に起きたことの忠実な複製。わたしの母がそれに気づいたのは、姉が鬱になってからのことだった。

桃子さんだって、老いてようやく気付いたことだ。

若竹さんは、これを物語の中で「伝染(うつ)る」と表現している。


まさにそう。そうなんだと思う。


どれだけ予防しても、同じようになりたくないと思ったとしても、いつのまにか感染してしまう。目に見えないウイルスが呼吸と共に自分の中に入り込んでしまうように、ごく自然に。

それが密閉された空間であればあるほど、感染確立が高くなるというのも同じである。


家族にも、親子関係にも、換気が必要なのだ。


目に見えない仕組みにハマってしまった悔しさがあふれる桃子さんは、わたしたちに大切なことを教えてくれている。


「無知は罪だ」と。



わが子との関係に後悔の念があふれる桃子さんだけど、夫と築いた幸せな人生に思いを馳せるシーンもある。その一方で、「自由に生きたかった」という声が顔を出す。


愛どいうやつは自己放棄を促す
おまげにそれを美徳と教え込む

『おらおらでひとりいぐも』


結婚して幸せになれないとしたら、多くの女性がこれにハマっているからかもしれないとさえ思う。

結婚したからといって自由が奪われるわけではない。だけど自己放棄を促され、それが美徳とさえ思いこんでしまう。

わたしの母も同じだと思う。もちろん父も、妻はそうあるべきだというタイプだ。だから一見、ふつうの家庭を築いてきたように見えるのだ。


だけど自己を完全に消し去ることはできない。
放棄された自己は、ずっと漂い続けている。


それに気づかないでいると、家族に問題が起きたときに頭は混乱するだけだ。



愛による自己放棄は、男女の関係だけに起こることではない。親子でも、友人でも、愛あるところに自己放棄がある。

父が自己愛性パーソナリティ障害なのも、母親との愛を求めるがあまり、自己を放棄してしまったからであろう。

自己を放棄してしまえば、拠り所は「愛」しかない。それが執着を生み、歪みを生む。

父もまた、目に見えない仕組みにハマってしまったひとりだ。



桃子さんは、身内からあふれる声という声と対話する。若竹さん自身がそうなのだ。

以前見たテレビ番組で、気持ちを、感情を書き留めた何冊ものノートが、『おらおらでひとりいぐも』のベースになっていることを語っていた。

ひとつひとつ、心の声を吐き出して、向き合って、ようやくたどり着ける境地があるのだろう。



わが家では姉がうつになったことをきっかけに、目に見えない仕組みがあることを知った。そして心の吐き出しを行うようになった。吐き出して向き合い、また吐き出しては向き合う。

それを一緒にやれる家族がいることが、幸せなことなのだとも思う。


自己放棄したままの父と、自己を取り戻そうともがく母と娘ふたり。1人対3人の間に立ちはだかるのは、「美化された愛」なのかもしれない。


愛を美化したらわがねのだ

『おらおらでひとりいぐも』


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