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一度諦めた人生を、自分のものとして生ききる決意をするまでのお話。

はじめまして、山上はるかです。
1990年生まれの30歳。
そんな私のこれまでの生い立ちをこのnoteに綴ります。

私には20代前半、自分の人生を生きることを諦めた5年間が存在します。
しかし、ある日を境に自分を変える決意をし、一歩を踏み出したことで、人生が大きく動きはじめ、これまでの人生の中で圧倒的に濃厚な2年間を過ごしてきました。
そんな30年間のお話を書かせていただきます。

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幼少時代

生まれは北海道、札幌市。
5人家族で兄2人の末っ子長女として生まれた。
小さい頃は母がいないと、友達に声もかけられない子供だった。
でも、好奇心は旺盛。
「自分でやる!」「やりたい!」
が口癖で、何でも自分でやらなきゃ気が済まない性格。
母が見守ってくれて、安心する場所があれば、挑戦する、そんな子供だった。


小・中学校時代

習い事を沢山させてもらった。エレクトーン・英会話・習字・プール・塾。学校から帰って家で過ごすだけの日はあまりなかった。この時から忙しく動いているのが好きだった。

学校ではいわゆる真面目な優等生タイプだった。
・先生に言われなくても、ちゃんとやる
・テストで良い成績をとる
・将来、安定した仕事に就くために勉強をする
・ルールは必ず守る
そんなことを大切に思っていた。

一方で、小中学校のクラスの雰囲気は結構荒れていた。
いじめていた人が次はいじめられ、それを助けようとすれば自分が危ない目にあう。そんな環境だった。先生が学校に来れなくなることもあった。授業中は消しゴムが飛んだり、喋っている人が多く、授業は進まなかった。そんな中、私は塾の勉強をひたすらしていた。
でも、クラスのみんな一人ひとりは本当は優しかった。腰パンをしていたり、悪いことをしてしまう人も、1対1で話すと優しかったし、面白かった。

この時【人を見た目で判断したくない】という想いが強くなった。
じっくり話さないとその人の考えていることは分からない、分かりたい、という【人への好奇心】も生まれはじめていたと思う。

そんな学生生活だったが、自然と友人の相談に乗ることが多かった。人の話を聞くのが好きだったし、何か困っている人がいると放っておけなかった。
これはおそらく、兄のことが関係していると思う。兄は、実年齢が中学生だったが、知能で言うと小学生程度だった。
「障がい」と呼ばれることもあったが、それは兄の「個性」だ。大好きなことに没頭する天才でもあった。とは言っても、兄自身は生活面では苦労することも多く、何かトラブルが起きた時、上手く言葉にできずにパニックになることも良くあった。

そんな兄を理解しようとする特技は、家族の中では一番長けていた。
生まれた時からそんな兄と一緒に育ってきたので、私にとってはいたって普通の環境だった。多様な人がいることは何の違和感もなかった。
兄には兄の世界観があり、私にも私の世界観がある。

人それぞれの持つ色はレインボーで、その色がこの世界でもっと輝くと良いと思っている。

●合唱コンクール
中学3年のとき、合唱コンクールで指揮者を勤めた。もともと音楽が好きだったが、指揮者という立場はとても面白かった。合唱コンクール自体が私は好きで、先輩たちが歌っていた曲を家でピアノで練習して、歌ったりもしていた。
私たちクラスの曲が決まった日から、何度も、何度も繰り返し聴き、楽譜に書き込んでは研究を重ねた。聴けば聴くほど、1曲の中でも色んな表現が含まれていることがわかってきた。そして、曲の一番の聴かせどころのために、その手前で色んな表現を入れていった。
私たちのクラスは、声量のあるメンバーは多くなかった。でも、一人一人声がとても綺麗で、丁寧に歌う人が多かった。そこを活かすことにした。
音の粒が最初はバラバラだったのが、歌えば歌うほどまとまってきた。そしてそれを皆に伝えるほど、どんどん皆も歌に集中し精度は上がっていった。
迎えた本番。
全神経を自分の指先、手の振り方、に向けた。全員を信頼する気持ちで、一人一人に視線を送った。
そして、集中力がピークに高まり、みんなの声がピタッとハマった瞬間、全員の声が共鳴しあって、空気が変わった。
結果は優勝だった。
実は、今まで練習の中で一度も歌ってくれなかった、いつもやんちゃな男の子も、本番は歌ってくれた。
この経験で、【一人ひとりの個性と向き合い個性が活きる面白さ】を知った。

●高校受験
中学1年生の時から、授業中ずっと塾の宿題をしていたので、そこそこの高校へは行けそうだった。
ただ、壁があった。97点の壁だった。この壁を越えるのが難しかった。
この壁を越えるには、とにかくまだ出会ったことのない問題に触れることが必要だった。
書店にある問題集の中でも、あまり主流じゃない問題集があった。そこの出会ったことのない問題だけにフォーカスした。すると、97点の壁を超えれる時が増えてきた。この瞬間が好きだった。できない所ができるに変わる瞬間だった。この時【やればできる】の基礎を知った。

●海外支援への興味
中学生の時にとあるテレビで、日本人がアフリカで支援活動をしている映像を見た。その時に衝撃を受け、今自分は何不自由なく暮らしているのに、同じ地球上に、生まれた環境によって、十分な医療・食糧を確保できないことを理由に命を落としている人がいることを知り【何かしなければいけない】といった想いに駆られた。どこからくる想いなのか全く分からなかった。でもなぜだか使命感を持っていた。
そして、この時私が大好きだったのが、
「バックトゥ・ザ・フューチャー」という映画だった。特に未来に行くPARTⅡが大好きで、セリフを覚えるくらい見ていた。この時2004年で、映画はもう15年前の映画だった。主人公のマーティを演じていたマイケル・J・フォックスという俳優さんが現在「パーキンソン病」を患っていることを知った。
この事実を知り、医療というものに興味を持ちはじめた。
そして医療で海外支援ができたら良いな、という想いが芽生えはじめた。

高校時代

高校は進学校へ入学した。高校生活は本当に楽しかった。クラスを超えて仲がよく、雰囲気がとても良かった。皆、心が優しかった。
特に学校祭は青春そのものだった。高校3年生の学校祭は忘れられない。
学校祭は出し物部門と、美術部門、音楽部門があった。出し物では、教室をお化け屋敷にして、映画の「SAW」を文字って、世界観を作った。私は音楽部門で、木村カエラさんの「Hapiness!!!」を歌った。歌うのは好きだったけど、人前で歌うことはなく、一緒にカラオケに行ったことのあった友人があれ歌ってよ!と言ってくれたことで、歌うことができた。
結果、総合優勝した。

●進路

高校1年の夏になった頃、実際に進路を考えはじめた。
海外支援をするにあたって、「教育・医療・経済」どの分野から自分は関われるのかを考えた。その時、医療の分野であれば、より直接的に支援に関われるんじゃないかと思い、自然と医師の道を考えるようになった。
●医学部受験失敗
しかし、中学校で勉強ばかりしていた反動もあり、高校時代は、とにかく学生生活を謳歌していた。それまでは学校が楽しい場所だと思っていなかったが、高校はすごく楽しく120%謳歌した。その代わり、勉強が大変なことになっていた。
高校に入ると優秀な人が多く、中学時代とは事情が変わっていた。
この頃から「できない自分」が出現しはじめた。今まで「できる自分」がベースだったので、戸惑った。
そう思うほどに、勉強への意欲も湧かなくなり、次第に諦めるようになった。それでも、目標は変わらず持っていた。
現役で受験した医学科は、点数及ばず、センター足切りだった。当然だった。そもそも勉強に打ち込めていなかったから、驚きもしなかった。
「高校生活もっと勉強していれば・・・」大きな後悔が残った。

浪人時代

医学部を志望しているものの、心の中では「医者になんて自分がなれるのか」「本当に努力でどうにかなるのか」そんな自分への疑問だらけで、全然行動を起こせなかった。医学部に受かっている自分をイメージすることができなかった。それゆえ、身の入らない浪人生活を送っていた。
遊ぶのは罪悪感が生まれてしまいできず、かと言って参考書を開いても手が進まない。目標を立てることができなかった。
結果入学した先は地方国立大学の看護学科だった。
医学科コースに行っていたことを知っている高校の友人に合わせる顔がなかった。本当に恥ずかしかった。

大学時代

大学は北の大地から九州へ飛んだ。「自分という人間を試してみたい」という気持ちに駆られたからだった。母親がずっと私を守って育ててくれていたので、1人の力でどこまでいけるのか、を試してみたくなった。
出会った人皆に珍しがられ、「縁もゆかりもないこの土地へどうしてきたの?」と聞かれた。
大学生活は、「北海道から九州まで来て、この4年間を何か意味のあるものにしないといけない」その想いだけは強く持っていた。
過去の挫折を意味あるものに塗り替えなければならない、私のミッションだった。
そして、浪人時代を経験していたこともあって、今まで抑圧されていたものから解放された勢いで「やりたいこと全部やる精神」で、遊び・部活などのやりたい活動の全てをこなし、1日たりとも無駄にはしなかった。寝ない日もよくあった。
友人からは「何かに生き急いでいるの?」と言われることもあった。
「喋った感じゆったりしてるけど、活動的だよね!」
そんな風に言ってもらえて、新たな自分と出会っていった。
一方で、医師という職業の代わりとなる、将来の具体的な目標はまだ見つからなかった。

●実習先で出会った患者さん
最初は【医師の道に行き着けなかった自分】がどのようにして患者さんと向き合っていくのか、正直な所、全くイメージが湧かなかった。
そんな時、大学一年の夏に実習先で出会った、癌を患った患者さんの一言が私を救ってくれた。
「あなたが提供する医療は、あなたにしか提供できないものですよ」
優しく私を後押ししてくれる、力強い一言だった。
その言葉は本当に心に響き、自然と涙が溢れ出た。
その言葉を胸に、自分が提供できる医療は何なのか考えはじめた。

●偉大な医学生T先輩との出会い
そもそも、私がなぜ医療の道を志したかというと、
生まれた環境によって、
「十分な医療を受けられず、命を落としてしまう人たち」

を救いたかったからだった。
そのゴールが達成できれば、その方法は何でもよかったはずだった。
それに気づかせてくれたのが、今でも尊敬している偉大な医学科のT先輩との出会いだった。
T先輩との出会いは、大学一年生の時、国際医療研究会(海外ボランティアなどをする部活)だった。その先輩は、明らかに一際目立っていた。
T先輩は、その時医学科4年生で、年齢は28歳。
T先輩は高校を中退していた。聞くと、高校中退後、数年間旅に出て、大検をとり、医学科に入ったというのだ。先輩はこれまで40か国には行ったと言っていた。見た目も自由で、足にはファッションタトゥーを入れていて、医学生には見えない風貌だった。
本当に枠に捉われず、自由にありのまま、自分の人生を楽しんでいた。
人としてとても憧れた。

その先輩が教えてくれたのが、公衆衛生学・ボランティア活動だった。
先輩はIFMSA・国際医学生連盟という学生NGO団体に入っていて、ばりばり活動していた。その団体の中でも有名人で、一度会ったら皆友達。
そんなT先輩が私に
「ほな、今度、IFMSAの日本総会があるから、それに行かん?」
と軽いノリで誘ってくれた。
そこで私は公衆衛生に関する部門のメンバーとして活動を開始することとなった。

●スマトラ沖でのボランティア活動
大学2年生の時、私も正式にメンバーとなり、インドネシアのIFMSAの医学生達と提携を結んだ。1年後にスマトラ沖での震災後コミュニティへ行き、活動をする予定で、1年間かけてSkype会議を重ねていった。
今思うと、この時にやったことといえば、何か大きなことを成し遂げたとか、そんなドラマティックなことではなかったと思う。
でも、
皆で同じ目標に向かい、模索しながら前に進んでいくその過程がすでに充実感に満ち溢れていた。この時の感情・感覚が心に刻まれた。
【仲間と同じ目標に向かって情熱を持って進んでいく】ことが自分の人生にとっては重要だと知った。

●途上国支援をする現役医師の講演
将来海外支援で、実際に現地で生活をするにあたって、私が気になっていたのは、家族との時間だった。しかも私は女性。結婚もしたいし、いずれは子供も欲しいと思っていた。
そこで、実際に途上国支援をしている医師の講演に行ってみた。
本当に現地に行こうとしている人の気になる点はやはり同じで「現地での生活はどうしているのか、お金はどうしているのか、また家族との生活はどうしているのか」という質問を受けていた。
家族とのことを聞かれ、その医師は言葉が詰まっている様子だった。
その時に「やっぱりできないじゃないか」そんな気持ちが生まれた。
色々と考えた末に「ボランティア活動は、大学生活の間は納得するまでやって、卒業後は日本で働こう」と決めたのだった。

保健師時代

卒業後は、行政保健師として働くことになった。小さなまちの保健師だった。
決して華やかな仕事ではなかったけど、仕事自体はとてもやり甲斐があった。小さなまちだったので、その分、責任ある仕事を1年目から任せてもらえた。
幼稚園や小中学校へ虫歯予防となるフッ素洗口を導入するという新規事業が1年目の私の仕事だった。直接会ったこともない子供たちの健康を、遠くから守るためのお仕事、と思うと自分の価値を感じることができた。
でも、気がかりなことが2つ程あった。一つは、いつも「こうあるべき」というものを求められる点だった。
「公務員なんだから、こういう風に振舞うべきだ」
「まだ1年目なんだから、上を立てるべきだ」

そんな雰囲気が蔓延していた。
もう一つは、月100時間のサービス残業だった。時給換算すると、アルバイトをした方が良いような時も多かった。土日は職場の部活に時間を取られた。
それでも自分はできるという風に思っていた。仕事内容はやり甲斐があったし、この仕事を一生続けると思っていた。
でも、心のどこかで、この小さなまちに留まっている自分、本当は世界に飛んで行きたい自分と葛藤することはいつもあった。

「本当にこのまま一生ここにいて良いのだろうか…」そう感じる自分の心の声に、気づかないフリをして、仕事のやり甲斐に目を向けるように頑張っていた。
「まだ大丈夫」「まだ頑張れる」「きっと大変なのは1年経てば変わる」そう思っていたが、気持ちよりも先に身体がもう頑張れないと言ってきた。

職場に行こうとすると、身体が拒絶反応を示した。
朝から晩まで涙が止まらなくなり、それが数日間続いた。そして、最終的に休職することになった。
その環境から離れ、実家に帰った。環境が変わればうつはすぐに良くなった。職場は辞めることにした。
その頃私の周りでも、同じような理由で、うつになってしまい休職する友人がいた。「これは、私だけの問題ではないんじゃないか」そう感じるようになった。
世間では、働き方改革が始まった頃だった。

●日本の人が生き生きと働ける環境づくり
その後、民間の健診センターで働くことになった。そこでは、働く人の健康管理に携わった。
「より健康に、働く人が生き生きと日々を送るための力添えをしたい」と思った。そして、心の健康と向き合うために、産業カウンセラーという資格を取った。
私の主な仕事内容は、特定保健指導といって、生活習慣病のリスクがある方に、生活改善のための目標設定を一緒に行う、ということをしていた。
特定保健指導では何百人の方とお話してきた。
会社勤めの沢山の方が、夜は接待、土日は出張「休む暇がありません」「もっと休みたい」と疲れた顔で話されていた。
自分も身に覚えがあるので、全く他人事ではなかった。
「休める時は、ゆっくりしてくださいね」と、何度も口にしていた。
この時から、こんなにも日本には疲れている人が多いのか・・・と肌で感じるようになった。大きな問題だと思ったし、変えたいと思うようになった。
働くこと、ライフワークについてよく考えるようになった。

●ライフワークについて
28歳になった頃、自分自身も職業について改めて考えていた。
保健師という予防医療に携わる仕事はやり甲斐もあり、自分に向いているとも思っていた。ほとんど満足していた。でも、そんな風に思っていた私の隣に、20歳程年上の、毎日情熱を持って仕事に打ち込む栄養士さんがいた。
とてもパワフルで、側からみても、まさにライフワークについている、仕事を愛しているのがありありと伝わってきた。
「栄養士として働いている自分が好き」そう話していた。
その時にはじめて、自分のライフワークは、保健師だけではないのでは・・・と思うようになった。
月曜日から仕事に行きたいと思えているだろうか?と感じるようになった。

自分の人生を諦めた5年間

私は社会人2年目でうつになったことをきっかけに、社会人7年目まで無意識のうちに「私はメンタルが強くない人」「周りの人より頑張れない人」と
自分で勝手に貼り紙をしていた。だから、できる範囲での目標を決めて、
まあまあ現状を納得いかせることに力を注いでいた。
5年間、普通になることを目指して生きていた。

そんな風に過ごしていると5年間もあっという間に過ぎ去っていた。
平凡な毎日に、心のどこかで、何か物足りなさを感じていた。
もう1度自分の人生を真剣に生きたいと思っていた。

【人生が大きく変わる最初の一歩】

その頃、夫が観ていた動画を見て人生が急展開することになった。
このスピーチの中で、
孫正義氏が
「自分の夢も持たずに、自分の人生に対するビジョンも持たずに、ただ、生きていくために給料をもらいに行く。『でも現状それしか仕方ない』そういっている間に人生あっという間に終わる」
と言っているのを見て、
言葉が胸に突き刺さった。まさに自分のことだった!
本当に、今はこれで仕方ないと言っているうちに5年間はあっという間に過ぎていった。

社会に出て、絶対に達成したいと思えるビジョンも持たず、まぁまぁ現状に満足して過ごしてきた。
海外支援活動も、またいつかできたらいいなぁと最初は思ってはいたが、その夢を持っていたことさえも忘れてしまう毎日を送っていた。
月曜から金曜まで仕事に行っての繰り返しだった。
5年間自分の人生を諦めてきた。
心のどこかで、人生このまま終えたくない、と思っていた。
そして、この動画の中でジョブズ氏が
「愛する仕事を探し続けて下さい。立ち止まってはいけない。」
と言ってるのを見て、立ち止まらず冒険をしようと思った。
30歳手前、自分にとって最後のチャンスだと感じていた。

人生の大きな転換点❶
YouTubeでの活動
その頃私はYouTubeが大好きで、空き時間があればYouTubeを観るくらい大好きだった。楽しそうだなぁとはずっと思っていた。
そして、夫が教えてくれた「マナブ」さんが話している言葉を聞いて、発信活動に向けて一歩踏み出す勇気を得た。
「きっと、この動画を見ている人の100人のうち1人しか行動は起こさない、そのうちのまた100人に1人しか続けることはできない。」
そのうちの1人になりたい!と強く思った。

色んな道を諦め、平凡な毎日を送っている、そんな自分を変えたかった。

これまで、何も形になっていない自分を、変えたかった。このままで終わりたくない、と心の奥底で思っていた。
その一心で、一歩踏み出すことを決めた。
2019年の12月に、その決意をノートに書いた。
「1年で、登録者1000人到達する。そこに到達するまでは、何があっても諦めない。」
それは、これまでの挫折ばかりの自分の人生を、意味あるものにするための行動だった。
これが私の人生を、大きく、大きく変える一歩になった。

最初はスマホで動画を撮って、スマホで編集をした。最初の動画は全然たいしたものではなかったけど、音楽をつけたり、自分で映像を撮って、1つの作品を作るクリエイティブな作業は楽しかった。
最初はもちろん反応はなかった。それでも、週に1〜2本は必ずアップし続けた。
再生回数は20回くらいだった。すると、突然コメントがきた。
「どこから私の動画を見つけてくれたんだろう」
勝手にネット上の声は怖いものだと思っていたけど、本当に皆さん優しかった。
その時の嬉しさをまたノートに書いた。
「○月○日コメントがきた。すごく嬉しい。どこから見つけてくれたんだろう」
自分が動画にしたい内容のアイディアもノートに書き出していった。
それと同時にとにかく沢山の動画を見た。取り入れられそうなことはどんどんトライしてみた。するとどんどん面白いくらいに変化が生まれてきた。
1ヶ月くらいして登録者は100人になった。毎月フィードバックをして、毎月目標を立てた。書いた数字はほぼ毎月達成していった。
2019年2月:200人
2019年3月:3000人
2019年4月:9000人
2019年5月:10000人

このノートは私にとっての、決意表明ノートであり、アイディア・ビジョン・できたこと・感謝したいこと、沢山のことを書き込んでいった、成長日記ノートになった。
(あとからこれがセルフコーチングだったと分かった。)

やるほどに成果が出るので、あれもやってみよう、今度はこれをやってみよう、というアイディアがどんどん湧いてきた。
はじめて5ヶ月で10000人になった。それからは月に6000人ペースで増えていった。
この頃から、どのような内容を、どんな風にあげれば伸びるのか、少しだけ分かってきた。
YouTube登録者数は1年間で10万人になった。
平日は働きながら、渾身の1本の動画を作るのは、簡単ではなかった。
動画1本をとりあえず作るなら普通にできたかもしれないが、動画の仕上がりに妥協ができなかった。色の調整や音合わせ。伝えたいメッセージ。入れる音楽も納得するまで時間をかけた。納得していないものを世に出したくなかった。

主婦でもあるので、仕事から帰ると夫と自分の食事を急いで作り、食事をとったら、すぐに編集に取りかかった。夫も家事を手伝ってくれたり、協力してくれた。本当に感謝している。その支えもあって、YouTubeに専念できた。通勤時や仕事の合間の休憩時間はコメントの返事。
休日は動画を撮るために1日のスケジュールを組んだ。YouTubeを中心に予定を組み、仕事の時以外の思考は常にYouTubeに向けていた。
「やらなければ」という想いよりも「とにかく無我夢中」そんな感覚だった。そんな風に夢中になってYouTubeに向き合っているこの時間がすでに幸せだった。
この時から徐々に自分を取り戻していく感覚があった。
止まっていた自分の人生が動きはじめる感覚だった。

最初は数字の目標を立てていたが、だんだん視聴者さんとのやりとりにやり甲斐が出てきた。動画を見てくれた人が、
「ほっと安心して、また明日も頑張ろう!」
そんな風に思えるメッセージを少しずつ入れたり、音楽を入れたりした。
視聴者さんからの「私も頑張ろうと思いました。」その言葉が本当に、心から嬉しかったし、そのためにまた私も頑張ろう、そう思えた。会ったことはなくても、お互いに励まし合えるこの関係性が私にとってはかけがえのないものだし、大切に育てていきたいと思った。

【VISIONを書き出し行動した】
この頃から、自分という人間は動画を通じて何を届けられるのか、考えるようになった。
私という人間は何を達成したいのか、自分はどうなりたいのか
マインドマップでVISIONを書き出すことを定期的にしていた
定期的に自分のやりたいことを明確にしていたので、そのチャンスが来たときは迷わずすぐ波に乗った。いつでも乗れる準備をしていた。
不思議と、やりたいことを書き出すようになってから、本当にそのチャンスが目の前に来るようになった。
ノートに書いた自分のVISIONはほとんど達成していった。

この時から、自分の気持ちを信じて行動できるようになった。
自分にも自信がついてきて、行動を起こせば現実が変わることを知っていった。過去に失敗したとか、挫折をしたとか、実は全然関係ないということが分かった。

【成長のための試練】
YouTubeを通じて得た経験は、もちろん調子の良いことばかりではなかった。
これまでの人生では向き合うことのなかった試練が、面白いくらいに襲ってきた。これは、真剣に自分の人生を生きていた証でもあった。
実生活では面と向かって言われないような言葉も、ネット上では簡単に送られてきた。こんな経験はこれまでの人生ではあり得なかった。
動画投稿では、どんな仕事をしていて、どんな人物なのか、肩書きも一切ない自分を発信していた。ある意味、【自分という存在そのものの発信】だった。だからこそ、その自分に掛けられる言葉はとても強い力を持って私に向かってきた。
「自分の発信で誰かを傷つけているんじゃないか」
「自分が自分でいることがいけないのでは」と思う日もあった。
自分のこれからの生き方を考えていた時、自然と出会ったのがライフコーチという存在だった。
そして、こんな言葉が自分を楽にしてくれた。
「人生はRPGゲームと思うと良い」こんな簡単な表現をすると怒られてしまうかもしれないが、この言葉が私を支えてくれた。
「その時の自分に必要なだけの試練が立ちはだかり、それを超えるとまた必要なだけの試練が出てくる。」
最初はスライムと戦っていたのに、数々の試練を乗り越えていくうちに、最終的にはラスボスと戦える自分に成長している。
私はこの2年間で、これまでの30年間では出会ったことのない壁を乗り越えようとしていた。これは、本気で自分の人生に向き合ったからこそ、本気で自分のやりたいことに向き合ったからこそ出てきた試練だった。
全て自分自身の内面と真っ向から向き合う試練だった。

「自分の人生を、他人に委ねることなく、自分の思うように選択し、生ききること」これが、自分の人生において大切にしたいものだと知った。
そして、視聴者さんからのメッセージが私を後押ししてくれた。
「動画を観て、私も今までやりたかった仕事に挑戦する勇気をもらいました。ありがとうございます。」
「前からずっとやりたかった仕事に挑戦するために、退職しました」

言葉にならない感情になった。幸せだった。心が震える想いだった。
自分の人生を全うするために、今まさに力強く自らの足で歩みを進める瞬間。その瞬間人は皆輝いている。と感じた。
かけがえのない自分だけの人生を自分のものとして生きる。
強く美しいあり方だとしみじみ感じた。
人として生きることの幸せそのものだと思った。
視聴者さんの言葉に私自身も後押しされた。

そしてその時確実に感じたのは
【人が自分らしく、自分の人生を生ききるための後押し】これをライフワークにしたい、ということだった。

それは、過去の自分にも重なった。これまで勇気がなくて、色んなことを諦めた。
・女性だから
・人前で話せる経歴もないから
・メンタル強くないから
そういう理由を並べて、行動を起こせなかった5年間は生きている実感が持てなかった。まさに他人の人生だった。でも、最初の一歩で、本当に変わった。
人生がめまぐるしく変わった。見える景色も全く違った。

きっかけは、自分で決めきったこと。心の奥底から絶対に変わると決めて、踏み出した最初の一歩だった。

だから、そんな過去の私のように
「やりたいことはある、でも今はまだ仕方がない」
「やりたいけど、勇気がなくてできない」
という人に向けて、
声を大にして「絶対に大丈夫!」と伝えくなった。
「私が一歩を踏み出せて、あなたにできないはずがない!」
「絶対にできる!」

そのことを何かしらの形で伝えたいと思った。

人生の転換点❷
これまでノートに、ありとあらゆる自分のやりたいことが溜まっていた。
発信活動をはじめた頃は、失うものがないと思っていた分、どんどん挑戦できたが、沢山の方に観てもらえていると思うと、逆に尻込みしてしまう自分がいた。やりたいことは沢山あるのに、まだできていなかった。
この時、一人の力ではこれまでのようにいかない感覚があった。ノートにビジョンを書いたり、アクションプランを立てても、「やりたい」からすぐ「やる」とはいかなくなっていた。ここまで、「ワクワクする気持ち」に身を任せていれば上手くいったのに・・・
「本当に心からやりたいこと」だからこそ、それと同時に「大きな恐怖」が生まれたのだ。その時、自分にはメンターのような人が必要だと思った。

コーチングとの出会い

認知科学コーチというコーチングに出会った。
どうやら巷で主流のライフコーチングとは違うようだった。
本当に人生を変えたいなら、認知科学コーチが良いということを知って、思い切ってコーチを付ける人生を選択した。

結果、今でもコーチは「人生の恩人」になっている。

【コーチングを受けて起きたこと】

  • 子供を授かる(子供を持つとキャリアは止まるという認知を手放したため)

  • 「YouTuber」という肩書きから脱却し、世の中に想いのあるリーダーを伝える「プロデューサー」として生き始める(アイデンティティの確立)

  • 会社の設立(世の中に対して責任と覚悟を持って旗を掲げて生きたいと思い、メディアPR・コンテンツプロデュースの会社を立ち上げる。2024年7月)

  • 自分の才能領域をしっかりと把握し、人生通じて行うべきミッションを掴んだ。

私という存在を通して提供したいこと

【コーチングの実績】
コーチングは3年間提供をしています。これまでお話してきたクライアント様は300人程度。様々なクライアント様が抱える背景・才能・資質と触れ合う中で分かった私自身がコーチングの価値を発揮できる対象は下記のような方です。

【私の価値を発揮できるクライアント様】

感性豊かな人(0-100の思考よりアート思考の方・クリエイティブなものに魅力を感じる方・五感の感覚が優れている方)
社会に対して想いのある人、未来のリーダー人材(世の中を良くするために人生を使いたい・ホスピタリティある方)
自分のキャリアを構築し、何かしらの結果を出してきたが、何かがストッパーとなっており現在滞りを感じている人
仕事だけではなく家族(パートナー・子ども・親)との時間も大切にしたい、充実させたい人→オールライフに生きたい人

という方は、コーチングという手段を使い、一緒に人生への変革を起こしていけると思っています。
直感的にピンと来ましたら、その感覚は間違っていないと思うので、ご連絡いただけたら幸いです。(思考し考える力より、直感の方が優れています)

<コーチングのお申し込みはこちら>
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