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もうすぐ死ぬであろう父について


     
               

私が子供のときから、父と母はけんかが絶えなかった。父と母のけんかはとにかく派手で、私は子供ながら、

「こんなに派手な夫婦げんかをして、ご近所に恥ずかしくないのかな?」

と思った。父が会社に行く前の朝七時頃は、家の中で怒号が飛び交う。それが終わった後にほっとして飛び起きて、学校に向かうのが、朝のルーティーンだった。

どんな子供も、父親よりは母親に気を使う。いつしか私は、母に気を使って、父とは普通のやりとりが出来なくなっていた。

父は、大手メーカーのエンジニアで、私が子供のときは、テレビの設計に関わっていた。ワイシャツの上に作業着を来て、社員に何かを説明する、写真で見た父の姿は格好よく、私にとっては、心の中で自慢の父親だった。

父との一番の思い出は、私の中学受験のときに、父が付き添いとしてついて来てくれたことだ。

午前中の試験が終わって、午後の入学試験の発表まで時間があったので、私達は渋谷の喫茶店で昼ごはんを食べた。一軒目の喫茶店は気に入ったメニューがなかったのか、父はその店を飛び出し、並びの別の喫茶店に入った。出された水を飲んだ後に喫茶店を出るなんて、初めての経験だった。

そして午後の合格発表。気の小さい私は、前日の試験が出来たにも関わらず、生まれて初めての合格発表を自分で見に行く事が出来なかった。校門の外で待っていた私に父は、ニコニコしながら、

「受かっていたよ」
と結果を伝えてくれた。
 
その後、私が十五才から四十代後半になるまで、父と母は別居を続けた。

そんな父と母の中途半端な関係に嫌気がさし、母に離婚を迫ったこともあった。しかし、母は父と離婚する気などさらさらなかったようで、父が大病を患ったり、祖父母の入院や葬式のときには、実務的なことが苦手な父に変わって、嬉々として、その出来事に関わわっていた。
 
子供だった私は、そんな母の心情は理解出来なかったが、たまに会える父の元気そうな姿にほっとした。

父がひとり暮らしが出来なくなると、母は父を引き取った。父は耳も遠く、持病もあり、痴呆も進んでいるので、コミュニケーションを取るのが、難しい。ときに罵声をあびせながら、私達は父と暮らしている。そんな私達に父は大人しくしたがっている。

今年に入ってから、父は三回、救急搬送された。正直この先、あまり長くは生きられないだろう。

三十年以上、別居していた父に言いたいことは山ほどある。でも、実際父を前にすると何も言えないし、母から父の思い出話を聞くだけだ。

二十年前、パリに住んでいたとき、父には会えなかった。でも、父同様、勉強が大好きで、パリの屋根裏部屋でキュリー夫人のように猛勉強していた私を、父はきっと誇りに思ってくれるだろう。





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