綺麗ごとを目指す
誰かが言っていた。
理想は綺麗ごとを並べることが多いが現状は綺麗ごとだけではおさまらない問題がたくさんある。
それを十分承知の上で綺麗ごとを並べた理想を目指したい。と。
昨今、建築業界で話題になっている2つの事柄に
・愛される建築とは
・大阪・関西万博のリング
がある。前者を例に出して話す。
・愛される建築とは
このように建築に形容詞が付属されることになったのは記憶に新しいことだと思っている。
今までは室内空間、外観、自然環境といった一言で説明できるような要素を敷地から上手く読み込み、その良さを伝えるための回答として建築があるというものであった。
しかし愛される、や心地よいといった漠然とした形容詞が使われるようになったことでその良さに対する明確なひとつの回答が無くなったような気がする。
無くなったと言うよりは回答が一つだけではなくたくさんあるという方が正しいだろうか。
私の考える愛される建築というのは、不完全であるものを人が受け入れることが出来る建築だと考える。
もちろん、良い部分がない訳ではなくそれ以上に受け入れる力が重要視されている建築がそれを指すと思う。
愛される建築とは、理想の部分に該当する。
愛される⇔理想
不完全部分⇔問題
また、綺麗ごとは理想と問題の間に生まれるギャップのようなものである。
この問題は現代社会を皮肉にも表しているだろう。
インターネットが当たり前となった現代社会では、情報がたくさんそしていつでも得ることが出来る。それゆえ自分の求めている情報も然り求めていない情報も沢山入ってくる。
生活スタイルでいうと、裕福な暮らしをしている人から貧相な暮らしをしている人(本人が発していなくてもホームレスを見た人がSNSで拡散するといった本人の意図しないところで情報化してしまうこともある)まで。
そこでは断片的な事実しか見れないという問題が起こってしまう。
そのため、その情報を羨ましがる人もいるが批判的な意見が多く見受けられると思う(日本人は特に人を貶すことで自分の優越感、承認欲求を満たす行為が他国より強く現れている気がする)。
本題に戻るが、これを踏まえて、
不完全部分⇔問題
をとりあえず批判する無知で暴力的な人(インターネット上の人格、ネッターとでも言おうか)が沢山いることは言うまでもない。
ただ私の言いたいことは、誰でも、何にしても不完全な部分が必ず存在する。それに焦点を当てこの人はこれが出来ない、ここにはこれがない、などといった無い物ねだりする人はかっこうわるいということだ。
本当に理想を追い求めている人は綺麗ごとを並べるだけでなくその不完全部分をも受け入れ、今あるものをポジティブに変換しようとする能力がある人だと思う。
無い物ねだりでなくあるもの使い。
権利は主張するものではなくまた侵害するものでもなく、十分に行使するものである。
綺麗ごとを目指すというのは、あくまで目標なだけであってその過程は必ずしも綺麗ごとと形容できるものではないのかもしれない。
その目標は、達成することはできない。いつまでも貪欲に目標へ向かっていく。そう思える人間でありたい。そう思いながら建築をやりたい。
だからこそ私は綺麗ごとを目指す。
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