見出し画像

文学的に生きるとは

自分は文学の中でしか生きられないと考えるのは格好の付けすぎであろうか。漫画や本を読むと頭が冴える。そして、悟りを開いたかのように、いままで現実世界でやりたかったことが無意味に思えてくる。

最近は彼女が欲しいと思い、人との接触を心の底から望んでいた。だが、特に人生を描くような漫画や本を読むとそれらがどうでもよくなるのだ。あれほどまでに渇望していた欲求はどこへ行ったのか。ともすればSNSをやっている時間は全て無駄なのか。読書をしようと思ってもSNSが気になり読書を始められない。しかし読書を始めるとSNSであれほど待ち望んでいた連絡がどうでもよくなるのだ。


自分は文学の世界で生きるべき人間ではないだろうか。観測者といった立場がいいのだろうか。たしかに性欲を考えても、観測者で満足できることは実証されているではないか。

だが文学的、文学に生きるとは文学を鑑賞することにあるのだろうか。
自分の人生を文学的にし、文学に生きることもできるのではないか。
むしろ、”文学的に生きたい”

「雪女と蟹を食う」という漫画を紹介する。
最初読んだときただの人妻エロ漫画だと思った。案の定すぐに性行為をしている。しかし、読み進めるうちにこれは必要な性行為だと感じるようになる、例えようのない心の内を表現するために性行為するように感じるのである。


青年誌というのはただエロいから年齢制限があるのだという考えが覆された。幼い自分だったらこれらの性行為に対してただ興奮するだけで心や感情までは見出さなかっただろう。


これはこの文学作品は、性行為やその他人生経験を積んでいないと理解できないと感じた。
性行為は心の内を交わすような高尚な行為なのだとも思った。そして、自分はこのような体が溶け合うような性行為、逆に感情が全く動かないような、したくてもできない心が追い付いてこない性行為をしたことがあるだろうか。このような文学的セックスの経験はない。
様々な体験をし、様々な感情を知ることが文学的に生きることに繋がるのではないだろうか。

以前、ある作家が作家という職は、何かをやってきてもうどうしようもないといった人生のどん底に陥ったときに、いままでの自分の経験が人に伝える価値のあるものだったときになれる最後の職、なるのではなくならざるを得ない職であるといっていた。

こう考えると文学とは人生を謳歌したものの集大成とでもいえるのではないか。すべての文学的経験をするのは難しいがひとつでも経験し人生を謳歌したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?