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怒れる人

第3回のnoteになります。
金曜更新はどこにいったのでしょうか。麻雀にハマってしまいずっとアプリでやり続けていました。一日8時間くらい・・・3秒に1秒スマホをやっています。咲のアニメも全部一気に見ました。これ雀キーでしょうか。

今回はなぜ人が怒るのかについて考える。
私は小学生のころはよく感情を表に出して毎日騒がしく生きていたと思います。実家に戻り家族と接する時間が長くなると何かと不満はたまり誰かが怒り始めます。

私はあまり怒れないというか、怒り方がわからないというか怒りを通り越して呆れているのかもしれないが、とにかく、ただその場でイライラして感情を出したことがないように思える。

反対に姉はすぐに怒る、短気すぎるといってもよい。これはこれで問題があるのだが、冷静に分析することにした。

人はどういうときに怒るのだろう。それは、その人なりの信念、貫くものがあるときではないか。自分のことだから怒れるのだ。人はみな物事を自分に落とし込んでから怒る。だから関心がないものは自分のこと(この場合は自分の信念に合致するかも含む)として捉えられず、人がなぜ怒っているのかわからない。これは共感能力ともいえる。

高価なプラモデルが破壊されたニュースがあるとする、ここで人は分かれる、あの最高なプラモデルを、と怒るプラモデル愛好家、文化の破壊と怒る人、プラモデルなんてくだらないと思う人、ここで怒っている人は必ず自分のこととして置き換え、自分の信念との相違で怒るか怒らないかを決めているのだ。

私はあまり怒れない、それは自分に信念のような芯となるものが存在しないからなのではないか。芯がないのは自分にとってずっと課題である。

他人の目を気にせず直進できる、相手にどう思われようが怒り自分の信念を伝える。こういったことができる人間に憧れる。年齢を重ねれば頑固おやじというように芯ができるのだろうか。

自分の芯がないと生きている意味、目標が定まらないような気がする。
それとも、自分の生きる意味、目標はそういった芯を集め、組み立てることにあるのだろうか。

人生とは自分だけの芯をつくる旅である。そう考えてまだ生きて、いろんな芯を見ていきたい。

最後に、最後まで私の拙い文を読んでくださりありがとうございます。
そしてフォローしてくださった方ありがとうございます。
ただ垂れ流す場所にしようと思っていましたがフォローされるというのは私の考えの真偽は別にして読みたいと思っていただけたということで、とにかく思っていた以上にうれしい気持ちです。
毎週更新頑張ります



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