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「繰り返し」という戦略

Twitterに流れてきた以下の記事が面白かったので、感想を書いたところ、思いのほか長くなったのでnoteに転載する。せっかくいっぱい書ける場所なので少し加筆もしてみる。

 僕がこの文章で主張したいのは、問題はもう少し複雑だ、ということです。ひとことで言えば、〈エモ〉は「パターン化されている」という批判に対して無敵であり、何度倒しても生き返る。そのため、われわれはより周到な準備を必要とします。

https://note.com/vetematsu/n/n8db44821c65c

なるほど「エモい」という言葉の根底にはパターン化があったのかと、目から鱗が落ちるような思いをした。 「エモい」という表現は単に多くの意味合いを持った(ヤバい、のような)便利な言葉という印象だったが、なるほど確かにパターン化、繰り返しによる感情の揺り動かしが共通点としてあると感じた。

よく「エモい」と言ってしまいがちなのは、例えば砂浜でみんなではしゃいだ時とか、花火で遊んだ時とか(全部大学のサークルの合宿での経験なのだが……)で、それは「月並みな『青春ごっこ』ではあるけれども、そういうのがいいよね」という感情から来ていたのかなと思う。

そのうえで、この「エモい」に対する嫌悪感は、なにもエモいに限定されるものではなく、「繰り返し」「再現」というものへの嫌悪感なのではないかと感じた。
「繰り返し」は成功への近道である一方で、人間はどこか「繰り返し」を嫌う性質もあるように思う。
個人的には、たとえばYouTubeのサムネイルでこれを感じる。「大きな文字で動画の内容を書く」という戦略が良いとわかると皆が一斉に真似をし出して、いまやデカ文字サムネばかりだ。確かに動画の内容は分かりやすいし、そういう動画をついつい見がちではあるのだが、一方で同じようなサムネイルばかりで辟易する面もある。
マーケティングなどはこんなことの繰り返し(繰り返しの繰り返し)でやってきているからこそ、私としては虚業に感じるのだろう(これは、私がマーケティングに片足を突っ込んでいるからこそ、感じるのかもしれないが)。

とはいえ、独創的であるともはや目に留まらなかったり、疎まれたりすることもある。UI設計では一般的な形式に沿っていないと(登録ボタン等の形や色とかは特に)文句を言われたりする。
これは「繰り返し」が必勝法であるからこそ、そうしない理由がないときはそうしてほしい、という気持ちの表れではないか。

そもそも「繰り返し」は昔から定石の必勝法だったとは思う。互いに真似しあいつつ、少しの独自性を混ぜることで競争しあって文化や技術を発展させてきたのが人間なんじゃないかなと考えている。なのでべつだん繰り返しは悪いというわけではないし、むしろ良い方向に導いてくれる手法だろう。
しかしながら、昨今は情報の伝達速度があまりにも速すぎて、この繰り返しが過剰になりつつあるのではないか。その結果、繰り返しを過度に利用した事象が嫌悪される傾向が出てきてしまったのかもしれない。

引用記事の結論にある、

 〈エモ〉への否定と依存というループを抜け出るためには、わたしたち自身が、わたしたちの〈現在〉を耐えうる詩学を打ち立てるしかありません。

https://note.com/vetematsu/n/n8db44821c65c

とは、「繰り返し」という安定択からあえて離れて、自分自身のことばや方法で戦うことが必要だ、と私の中では解釈した。

マーケティングやデータ分析にかかわっている人間としては、正直なところ「繰り返し」をかなり有効な必勝法として提案・実行する機会が多い。また、そうでない意見を述べるにせよ、「繰り返し」の反対意見として――つまり、「否定と依存というループ」の範疇内で――戦うことばかりだ。
そうでないところで勝負をするということは、もはや土俵を変えるということであり、組織に縛られている身としてはかなりの難題だ。正直なところ、いったいどう戦っていけばそうでなくなれるのか、全く想像もつかない。

しかし、私が感じている違和感と、どうしたらそこから抜け出せるのかという解決方法の糸口が少しだけ見えたような気がして、なんだかふっと安心を得られた。そういう意味で、この記事に出会えてよかったと思う。

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