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もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ、純喫茶でクリームソーダ、フィルムカメラで街を撮る、薄暗い夜明け、自堕落な生活、アルコール、古着屋、名画座、ミニシアター、硬いプリン、もう全部飽きた 面白くない



 少し前に、Twitterで話題になったツイートです。〈エモい〉という言葉がひととおり流行してから数年。〈エモ〉自体がひとつのパターンによって類型化されている、という批判も、かなり多くの共感を集めるものになってきたようです。

 賛否さまざまなリアクションを呼んだこのツイートですが、ツイートの趣旨には大いに同意できます。

 たしかにパターン化された“エモ”は気持ち悪いし、クリームソーダもフィルムカメラも夜明けも生活もアルコールも古着屋も名画座もミニシアターも硬いプリンも、おもしろいとは言い難いことが多いです。

 しかし僕は、それらの既視感を「パターン化されていて面白くない」と批判するだけでは、あまり効果がないと考えています。

 僕がこの文章で主張したいのは、問題はもう少し複雑だ、ということです。ひとことで言えば、〈エモ〉は「パターン化されている」という批判に対して無敵であり、何度倒しても生き返る。そのため、われわれはより周到な準備を必要とします。

 僕は今から5年ほど前、19歳の頃から実作者として短歌を書いてきました。いわゆる「現代短歌」といえば、「エモい」という言葉で消費されるジャンルの最右翼であり、この5年間、〈エモ〉の問題はつねに身近なものとして存在してきました。

 短歌や詩を褒めるとき、〈エモい〉という言葉が使われることは、もう普通のことです。作者自身が〈エモ〉さを志向することもあるでしょう。

 では、実際のところ、〈エモ〉いものとは何なのでしょうか。短歌作品をひとつの題材として考えてみます。

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の
口移しで夏を伝えた いっぱいな灰皿、開きっぱなしの和英
千種創一『砂丘律』


 今年、ちくま文庫から文庫化された千種創一『砂丘律』(2015) から2首引用しています。たとえば、このような短歌は〈エモい〉ものとして読めるはずです。この2首が〈エモい〉のはなぜでしょうか。

 これらの言葉が〈エモい〉のはまさに、「既視感があるから」です。

 1首目であれば、写真を撮ろうとしていたら動画になってしまう、という、あるある的な既視感が、「海」というモチーフと口語体に組み合わさることで、歌の強度を高めます。

 あるいは2首目であればより直接的に、「夏」「口移し」「灰皿」「和英」というモチーフの連鎖がレトロな夏への郷愁を呼び起こします。

 そして、これらの短歌を「既視感がある」「飽きた」として否定することはできるでしょうか。できないと思います。

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 僕は過去にも、何度か〈エモ〉について書いてきました。「ふたたび戦うための7章」(『青春ヘラ ver.4』)や、「lyrical winter制作ノート」(『第三滑走路 12号』)がそうですが、そのたびに繰り返しているように、〈エモ〉の核心は、「いちどベタなものとして消費されたはずのパターンをあえて再利用する」という、「あえて」の態度にあります。

 〈エモい〉という言葉、それ自体が、「みんなにエモいものとして共有されるもの」という基準を含んでいます。クリームソーダ、古着、フィルムカメラ、手書きロゴの映画、セフレを描いた邦ロック……、計算の果てに作られた商品たちは、多くの人の〈エモ〉のスイッチを効率的に押します。その効率は「既視感」によって可能になるのです。

 繰り返しますが、「エモ」の核心は、そのような感傷を「あえて」享楽する精神にあります。「そんなこと皆分かって楽しんでんだよ」というネットミームの画像がありますが、アイロニカルに自分たちのテンプレ性を享楽することが現代のエンターテイメントの鍵なのです。くだらないわたしたちの感傷に、くだらないと感じながら浸る。「エモ」の怖さは、「パターン化」という批判すら呑み込んで成長する、その無敵ぶりにあります。

〈エモ〉の戦略が、すでに情緒的だと知られている過程をなぞることにためらいがないのは、単なる無知というよりは、ある種の開き直り、あるいはブレイクスルーだと考えられる。
青松輝「ふたたび戦うための7章」

 なぜこの「開き直り」がブレイクスルーか。〈エモ〉を批判するような、生の既視感を拒否する姿勢(僕はそれを〈抒情〉と呼んでいます)にゴールがなく、「パターン」をすべて拒絶していくと、最終的には何も残らない袋小路が待っているからです。その行き詰まりを突破するのが〈エモ〉なのです。

 〈パターン〉というものは思ったより強力であり、敵の強さを甘く見るべきではありません。〈パターン〉を否定する言葉は、つぎの瞬間に新しい〈パターン〉をかたちづくります。そのループ的な構造じたいが、現代のインターネット社会の特徴と言っていいかもしれません。

 以上のように、「パターン化している」という攻撃は、〈エモ〉をそのまま強化します。漫画やアニメに出てくる、敵のパワーを吸い込んで成長してゆくタイプの敵が〈エモ〉です。ここで〈エモ〉は不敗であり、説得不可能であり、だからこそ、わたしたちは戦わなければなりません。



 現代において、高い水準で構成されたポエジーは必ず、このような〈パターン〉と〈エモ〉の問題に直面します。

 たとえば、この2023年に過剰に〈エモ〉というレッテルを背負わされている作家の1人に最果タヒがいます。

積もろうが、埋まろうが、私をふちどる他人はいる。空白がふさがれば、シェアした誰かがやってきて握手も求めてくるでしょう。なんて地獄なんでしょう。生きていたらいいことあるよ、70億人と友達になれるし、ならなきゃずっと死ねないよ。
最果タヒ「雪」(『夜空はいつでも最高密度の青色だ』)


 今回は詳述しませんが、このような最果の詩では、〈エモ〉や〈パターン〉、あるいはその先の〈共感〉や〈欲望〉の不敗にまつわる絶望が描かれているのではないか、と今は考えています。

 話題を、はじめのツイートに戻しましょう。本文の最初で取り上げたツイートをきっかけに、多くの改変ツイートが生まれ、いくつかのツイートはもとのツイート以上に強力に拡散されました。


 これらのツイートたちがえがいている構造自体が、僕には「パターン化されたエモ」と「そこから逃れようとする人間たちの自意識」の葛藤のように見えます。Twitter、あるいは世界じたいが〈1個のもの〉であり、これらのツイートも、どれも〈パターン〉でしかありません。

 「もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ」と口にして、感傷を否定してみせるとき、自分自身がいちばんエモくなってしまうことに誰もがうすうす気付いていて、どこまでいってもわたしたちは〈エモ〉を否定しきることができず、このように文字を書いたり読んだり、画面をさわって、時間の経過に対抗できるなにかを探しつづけているのです。

 自意識の問題からは誰も逃れられません。

 〈エモ〉への否定と依存というループを抜け出るためには、わたしたち自身が、わたしたちの〈現在〉を耐えうる詩学を打ち立てるしかありません。そのとき歌は起動し、わたしたちはすこしだけ世界を傷つけることができます。

曇りの日の通知をすべて目で追ってわたしたちの老いはじめる感受性
青松輝「痛みについて」



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