今週のMornin#51
絵も言えず、絵も知らず
「エモい」という言葉の意味を考えた。
自分にとって「エモい」という言葉は、その言葉をさらに細かい意味に細分化できて、そういう小さい魅力や特徴の要素の集まり、それの総称だと思っていた。「エモい」と呼ばれるそれには、どこがどうで、ここがこうで、そこはそうだけど、それらをひっくるめて「エモい」よね、ということだと思っていた。でもそうでもない人もいるらしくて、あるものを「エモい」と感じて、呼んだとしたらそれはもうそれ以上の細分化はできない、「エモい」は「エモい」でしかない、という価値観もあるようだ。感性なんて人それぞれで、良し悪しでもないとは思うし、前者でも後者でも、例えば得られたものや出てきたものの価値が変わるわけでもないけれど、自分がそれで済むかどうかということだと思った。自分は「エモい」という言葉だけで何かの価値を測ってラベルを貼るのは少し抵抗がある。初めて知った言葉があるとき、すぐネットで意味や由来を調べることが多い。なんとなく、無知であることが怖かったり考えないことが罪のことのように感じたり、怠けているように見え得る自分を睨むことが一つのタスクなのだろう。仕方がない、これもどれも。
今週のMornin
写真の感想
先週の日曜日に海に行った。海に行けた。やっと行けた。今年に入ってから初めての海で、毎週毎週、毎月毎月行きたいと思っていたのでとっても待ち遠しくてありがたくて、行けて良かった。海に行くのに道連れがいるとよくて、海に行くのについてきてくれる人というのは、個々の人生において稀有な存在だと思う。ちょっと前に「男女の友情とは」みたいなことを自分に針を刺してその内側を見るかのように考えたことがあった。結局のところ、自分にとっては男女という性差の違いで考えてしまうことが間違いのような気がする。そもそも「友情」が対人関係のベストの呼称や関係性の最終終着点ではないし、あくまで関係性のベターの一つだと思うし、「男女の友情」と括ってしまうこと自体が人間対人間の向き合い方から外れている気がするし。他人との関係性において都合の良いラベルでしかないというか、友情があるかどうかかで測れると驕るよりも、それはもっと流動的で不安定さを孕んだものだと思う。友情がなくても会いたい人はいるし、友情を感じていても会うことが必須でないものもあるし、「友情」ベースでは例外がありすぎる。話が長いけれど、要は、友情のラベルを張って安心するのは何か違う気がするということ。色々考えるきっかけになって良かった。
F1.2 SS1/10500 ISO640
NOKTON 35mm F1.2 X mount
たらればガニ
5月、部屋の物を減らそうとして2ヶ月くらい経つものの、むしろ増えている気がする。メルカリで断捨離出品をしているはずなのに、どうして、とはならないし、そういう性分なのは本当によくわかっているし、物が少ないから不安になるとか、物が多いと安心する、ともそういうわけではなく、一種の病いでただ単に衝動性が高いだけなのだと思う。生活が破綻するほどでもないのでよし、よしでは全くないのだけれど、ということにはしている。おかげでプラスマイナスゼロにはなるもののプラスになることは少なく、貯金の進みがあまりよろしくない。プラスを増やすために仕事を増やしてみているがどうなることやら。衝動性と向き合う方が先なのではないか。たらればに甘えてしまうのはもうやめにしたいものだ。カニが食べたい。
夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます