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「今日のアナーキー」 第1話 エミィ

【あらすじ】

「幸せって何?」無邪気に尋ねるエミィ。両親に溺愛されて育った彼女にとって幸せは常にそばにあった。
太陽を崇め、植物を育て、湖を眺め、そして物流センターで働くエミィ。軽度の知的障害がある彼女は、周期的に知能が向上することがある。揺れ動く思考のはざまでアイデンティの確立に悩みながらも「幸せ」を求めて新しい生活を始めるのだった。
民間企業が立ち上げた 通称「アナーキタウン」という街で、気ままな一人暮らしを試みるエミィと、3児を育てる若ママのキミちゃん、アナーキタウン現場最高責任者の世田さん3人の女性の視点から見る、人生に奮闘する群像劇。

【補足】

漫画版はこちら
https://note.com/kokodiary23/n/nfb9c9ca2a301

時は2028年。大手インターネット小売企業KARAZONは、長年ブラック企業と噂された汚名返上をかけて2つの社会福祉プロジェクトを開始する。1つは太陽エネルギーを活用した物流センターの運用、もう1つはベーシックインカムを応用した街(通称:アナーキタウン)を創成する。アナーキタウンでは、KARAZONへの個人登録と物流センターでの規定時間以上の労働義務があり、引き換えに住居の提供と日用品などの必需品が提供される。KARAZONの社会福祉活動に眉唾な反対意見が多い中、主人公エミィをはじめとした社会的弱者やノマドワーカーなどの若い世代の移住が始まる。

(主な登場人物)

エミィ(江海 マリ)
アナーキタウンに単身で暮らす36歳の女性。週に20時間ほどKARAZONで働き、余暇を気の赴くままに過ごす。軽度の知的障害があるが、幼少期から「可愛いマリィちゃん」と両親に溺愛されて育ち、18歳頃まで無自覚で過ごす。大人になって周期的に知能が向上することに気がついたが、周囲には告知していない。知能指数(IQ)が高い時には自己同一性の悩みを抱え、悩みの捌け口として太陽信仰に心酔していく。IQが低い時には幸福度が高い傾向がある。アナーキタウンでは「エミィ」で個人登録をしている。


世田さん(世田 真理子)
KARAZON社員。アナーキタウン現場最高責任者。日本語、英語、ドイツ語のトリリンガルで、大学時代から地方創生を研究テーマとし、情報サービスの企画・開発を主に担当していることが今回の抜擢の要因になったが、若き責任者に周囲の不信不満も多い。彼女の次々と刷新する大胆な決断が現場の混乱にもつながる。貯蓄が不安定な旧来型の太陽エネルギーを使用した物流センターの作業効率化や、街の活性化のための地域交流会、限られた予算での物資の配分など多様な課題に奮闘する。3歳の娘を持つ36歳の女性。小さい娘を夫に預け単身でアナーキタウンに在住。


キミちゃん(東芽 黄身子)
5歳の男子と1歳の双子の3児を持つ活発な24歳のシングルマザー。アナーキタウン創設前からその土地に両親と共に暮らしている。地元にアナーキタウンができると知り、反対運動に参加するも、KARAZONで働くと生活費の大半が免除されると知って賛成派に転身する。頻繁に変更するKARAZONの施策に生活の不安を覚えながらも、地元住人とKARAZONの架け橋にもなっていく。またKARAZONが物資不足から後に始める自給自足のための野菜栽培活動に参加し、実家の八百屋をネット通販で再開できないかどうか模索し始める。エミィと仲が良い。




1日の始まり


「そ~っとやで、そぉ~っと..」
水道の蛇口を小さく捻ろうとするが、水は勢いよく放出される。ものの数秒でちいさな盃に水が満杯になる。帳面表力で丸く盛り上がった水をこぼさないように、ずんぐりとしたエミィの手は小刻みに震え、その振動で水面は楕円から平面に姿を変える。
「ゆっくりやで、ゆっくり..」
エミィは盃を凝視しながら一歩ずつ進む。手作りの小さな神棚の前に着いた時にはすでに1/3ほどの水が失われている。神棚にトンと置く衝撃でまた少しこぼれる。
「ふう。」
安堵したエミィは小さな呼吸を吐き、パンパンという乾いた音を出して手を叩く。
「お天道様、今日もあなたの御身によって我が世を照らしてくださりありがとうございます。我らを今日もお守りください。」
手を合わせ、神棚に向けて体を折り曲げながら慣れた口調で早口につぶやく。お祈りはエミィの1日の始まりである。

エミィはKARAZONから支給された30㎡のワンルームアパートに一人で暮らしている。ベランダがないこと以外はお気に入りである。大きな窓からは太陽光が差し込み、窓辺にぎっしりと鉢植えの植物が置かれている。
「大きくなれよ~」と言いながらそれらに水をやり、時計を見るとまもなく朝の8時だ。
エミィはリュックサックを背負い、「行ってきます」と誰にいうとでもなく呟き、鍵を閉める。


物流センター


6月初旬だが外は夏真っ盛りのような強い日差しだ。
帽子を持って来ればよかったと頭をよぎったが、取りに戻るのが面倒だったのでそのままアパートの正面玄関を出る。KARAZONの物流センターへは家から徒歩で25分ほどである。
「今日は川の方から行こかな」
エミィが川と呼んでいる小さな人口湖には短い橋がかかっている。お気に入りのコースだ。
日差しは強いがそよ風があり気持ちいい。途中自転車の人とすれ違う。
「自転車もええなあ。申請しよかな。」

主な日用品はKARAZONが協定しているスーパーやドラッグストアなどで、KARAZON支給の個人カードを提示すると入手できる。
しかし自転車や家具・家電、パソコンなどはコンシューマサポートへの申請が必要である。申請が通ると所持品数が記録され、廃棄または故障するまでは新しいものは支給されない。
ただし市場の流通で自由に購入することはできる。エミィは申請がおっくうで必要最低限の物しか持っていない。自転車も持っていない。


KARAZON物流センターに到着し、従業員入口へと回る。
入口は小さな古い鉄扉で、横に小さな黒い箱のようなセンサーがついている。
そこにKARAZON支給の個人カードを押し当てると、カシャーンという小気味よい金属音がしドアの鍵が開錠される。
ギギギと古い音をたてながら扉を開けると、暗く細い通路が続く。通路の左右には大小様々な大きさのダンボールがうず高く積まれていて、人がやっと一人通れる程度の狭さだ。所々に現れるドアの前だけはかろうじてスペースが確保されている。
さらに進むと広けた通路に出る。まだほのかに香る若木の扉の横に従業員入り口と同じような黒い箱が設置され、その上に「退勤退出システム入力厳守!」と書かれている。そこに再びピッとカードをかざす。「黒いの2回。トゥーOK。」エミィの覚え方だ。

若木の扉をスライドする。暗い廊下にまぶしい光が飛び込んでくる。
「お はようございます。」
エミィは部屋全体に向かって叫ぶように言う。
'お'が異様に大きな声になる。まだ光に目が慣れていないが、部屋にいる人々がこちらに注目するのを感じる。
「江海さん、おはようございます。」
世田さんが微笑みを浮かべながら答える。

ここはKARAZON社員のメインオフィスで、南向きの明るい100㎡ほどの大きな部屋だ。スタイリッシュな机が並べられ、ちらほらとノートパソコンを叩いてる人やホワイトボードを前に話し込んでいる人がいる。アナーキタウン創設とともに急いでこしらえられたオフィスにはまだ殺風景な印象が残る。

エミィはぺこりとお辞儀をしながら 扉をスライドして閉める。

「エミィちゃ~ん、おはよう~!」
ロッカールームで自分のロッカーを開けようとしていると、横から声が聞こえる。キミちゃんだ。
「キミちゃん、おはよう」
エミィもにっこりとして返事する。

「廊下の荷物さ、やばない?ありゃまた増えてるよな」
キミちゃんが開口一番につっこむ。
「うんうん、かなり積んでるな~。」
「保管場所 いよいよ満杯なんやろなぁ。とりあえず廊下に積みましたって感じやな。あれ地震来たら一発やで。」
エミィが同意の意味で頷く。

「しかし今日も暑いなあ。ここは冷房効いてるから涼しいけど、外はたまらんわ。」
「もうすぐ梅雨明けやな。でも夜になったら冷えるし、暑いのは朝だけやなあ。」
梅雨明け?まだ梅雨始まってないや..と言いかけた口をキミちゃんは閉じる。 梅雨入りと言おうとしたのだと気づいたからだ。
エミィは言葉の使い方があやしい時がある。キミちゃんも最初はつっこんでいたがそのうちに訂正するのはやめることにした。キミちゃんはエミィの世界観を尊重している。

「そういえば今日のごはん何か知ってる?うち見てもうた。」シシシと無邪気にキミちゃんが笑う。
物流センターでは全ての労働者に昼食が支給される。その献立は密かな楽しみになっている。
「えっ知らへん、なになに?ご馳走?」
好奇心の目でエミィが返す。
「いつもご馳走やん~」
他愛のない話をしながら着替えを済ませ、それぞれの持ち場へと向かう。

物流センターでは商品の入荷、保管、ピッキング、検品、包装・梱包、出荷、コントロールセンターという7部門に分かれている。
エミィの担当は「包装・梱包」部門だ。KARAZON専用のダンボールに梱包された商品がレーンに乗って次々と運ばれ、そのダンボールにシールを貼るのがエミィの担当だ。シールにはにっこりと笑った太陽のようなマークが描かれ、マークの下に小さく「原発お断り」とある。ある環境保護団体とKARAZONと協定を結び、梱包材用のダンボールに団体のシンボルマークを追加することになったのだが、その新しいダンボールが支給されるまでの間はシールで代用することとなった。
しかしそんな背景やシールの意味をエミィは知らない。エミィは太陽のマークに親近感を覚え、シールを貼り続けることで何か太陽信仰の貢献になっているような気さえしていた。

工場の中は熱気が立ち込めて蒸し暑い。太陽光発電によって運用している物流センターでは不安定な稼働が続き、今後の梅雨入りに向けて更なるエネルギー制限が設けられている。作業着は分厚く、手袋や安全靴の着用も義務付けられているため、余計に暑く感じる。

「最近暑いんよなあ。お昼まだかなあ。」
エミィは熱気でぼんやりとした頭でそう思いながら黙々と手を動かし続ける。


お昼休み


キーンコーンカーンコーン..
昼休みの鐘が鳴り、ゾロゾロと食堂へ人が集まる。

「ほおお、オムライスですか」
「うちマイスプーン持ってきたわ」
食堂の入り口にある食品サンプルを見ながらキミちゃんとエミィが互いにニンマリと微笑む。
食品サンプルには「今日の献立 -星のオクラ付きオムライス-」とある。

二人は外の木陰のあるベンチに並んで腰掛けて食べることにした。そよ風が気持ちいい。
「うちなあ、口の中で色遊びしてんねん」
「へ、色遊び?」キミちゃんがスプーンを口に運びながら聞き返す。
「うん。例えばな、ケチャップとたまご食べるやろ。赤と黄色やねん。ほんでな、ごはんも食べるやろ、薄なって肌色なんねん。」
クッチャクッチャと音を立てて咀嚼しながら エミィは続ける。
「ピーマンとにんじん、緑とオレンジな、プチプチ弾けんねん。」

クッチャクッチャ。
自分の世界にすっかり入り込んだエミィは高揚し、さらに口を大きく開けて咀嚼する。

「い ろ の お ま じ な い 。」

クッチャクッチャ。
キミちゃんはエミィの口元にゆっくりと惹きつけられる。
すりつぶされた食べ物が唾液と混じり合い、それは普段 子どもに作る離乳食のような甘く優美なものに見えてくる。

「な あ。 お も ろ い や ろ?」

口から咀嚼物が溢れ出さんかのように口角を上げて、ジロリと横目でキミちゃんを見る。

「あ、うん..」
キミちゃんが精一杯出せる言葉を発すると、はっと我にかえる。
(エミィちゃん..たまにこういうとこあるんよな..。びっくりした。)
まだドキドキと鼓動する胸に手をあてながら横を見ると、鼻歌を歌いながらエミィがオムライスを口に運んでいる。まるで子どもだ。
キミちゃんは自分の子どもと重ね合わせて、エミィを羨望、苛立ち、愛しさの絡まった気持ちで見るのであった。


帰宅


キーンコーンカーンコーン..
午後の労働を終えて、物流センターの各部門の代表責任者が世田さんのいるメインオフィスに集まる。キミちゃんは「ピッキング」部門の代表責任者だ。

「今日もお疲れ様でした。」
世田さんは各部門の代表責任者から提出されたチェックリストの欄を目で追いながら、今日の日付の欄に15:30と書き、サインする。
「今日もお疲れさまでした」
「お疲れさまでした」と代表者が返答し、お辞儀する。


「エミィちゃんお先な!」
ロッカールームで早着替えを披露し、キミちゃんが急いでかけて行く。
「うん、お疲れさま!」エミィが声をはる。

「は~るの うら~ら~の~」
鼻歌を歌いながら帰宅するエミィ。帰り道もお気に入りの“川の道”だ。
ふと湖の方を見ると白鳥が雛鳥引き連れ遊泳している。「ひいふぅみぃ..やっつ」雛鳥の数を数えながらしばし立ち止まるエミィだった。


りんごの種

夕方、自宅にて。
「あっ」という声を思わず出す。リンゴを真っ二つにすると、丸く立派な種が出てきたのである。
「よぉ太った種やなあ。これは中身詰まってるわ。」
ずんぐりした指でつまみ、顔の近くに持ってくる。
「種埋めよかな。でも、いっぱいやねんよなあ。」
チラッと横目で窓の方をみる。鉢植えがぎっしりと並び、植物の葉と葉が太陽光の奪い合いをするかのように少しずつずらしあいながらひしめき合っている。
リンゴ、トマト、キャベツ、ネギ、大根、セロリ、イチジク、レモン、ひよこ豆..
無造作に植えられた植物たちは全て食品から採取した種や食品の一部だ。
「ま、ええか」
エミィは植えたい衝動を抑えきれず、棚から土や植木鉢などの園芸用品を取り出す。
新聞紙をひき、小さめの植木鉢を一つとり、スコップで土を入れる。土の真ん中に人差し指を突っ込んで窪みをつけると、先ほどのリンゴの種を押し込み、上から軽く土をかける。
「ふう、できた」
エミィは汗を拭って、窓辺にその新たな鉢植えを追加するのであった。


雨の日

数日後、朝からザアザアと激しい雨が地面に打ち付けられる音を聞きながら、エミィはカッパに傘、雨靴の装備で物流センターへ向かう。

「あー江海さん、シール貼り一旦おいて、これBブロックに持っていってくれる?」
部門長がエミィに指示を出す。
「はい。」
「ダンボールに番号ふってるから、その番号に合わせて置いてってね。あと..」
「はい。」
雨の日は忙しくなる傾向がある。あっという間に午前中が過ぎていく。

「最近オムライス多いなあ。」とエミィ。
「もうすぐ七夕やからな。」キミちゃんが返す。
食堂でランチタイムだ。この地域ではオムライスはケチャップを天の川に見立て、川を横断する橋・大陸の象徴とされている。
外はまだ大雨で薄暗い。
「エミィちゃん そういえば七夕の飾り作った?」
「ううんまだ。あれっていつまでやっけ?」
「なんか明日までみたいやよ」
「えっほんま?じゃあ今日作らな..!」
「うん、今日雨やから早帰りできるんちゃうかな。」
頷きながらキミちゃんが言う。
(どんなんにしよう。なんかこう、数珠みたいに繋がっていくような..いやUFOとかオバケとか..いや織姫と彦星が出会うイメージで..)
「..ィちゃん、エミィちゃん!」
エミィが飾りのことを思い描いていると、キミちゃんが声をかける。

「はっごめん なんて?」
「だからエンテンドーの新カード!今話題の!」
どうやら子どもたちの人気のボクモンカードのようだ。1セット5枚入りで、封を開けるまで何のカードが出てくるかわからない。朝のアニメ番組には若手イケメン俳優たちも出演し、ママの心も掴んでいる。
キミちゃんもその一人だ。
「不死鳥フェニックスのカード、七夕の日に発売されるねんて。願い事なんでも1つ叶えてくれるらしいで!」
キミちゃんの鼻息が荒くなっている。とても楽しみにしているようだ。
「もし願い事叶えてくれるなら、エミィちゃん何にする?」
「えっうち?」
突然ふられ、少し考え込むエミィ。
「ん~なんやろ..じゃリンこチエもっかい読み返したいかな」
「え~!そんなんいつでもできるやん!」
間髪入れずにツッコむキミちゃん。
「じゃあキミちゃんは?」
「えっ うち?」
動揺した顔になる。
「うちは..その..幸せになりますように、かな..」
“幸せ”の部分をゴニョゴニョとごまかすように話す。
「ふ~ん..幸せってなに?」
無邪気にエミィが聞き返す。
「え゛っ!」
猫の毛が逆立つようにビクッとするきみちゃん。
そんなこと、みんなあるでしょ、例えば..と頭にあれやこれやが思い浮かんでは、言葉が喉に詰まる。
「幸せは、幸せやよ!」
語尾が強くなる。オムライスにザクザクとスプーンを突き刺す。
「ふ~ん... じゃあ、 短冊にも願い事かこな」
エミィはにっこり笑って言う。
エミィは「幸せ」と言う単語の意味を本当によく分かっていなかった。生きていく中でその2文字に触れる機会はあったが、不自由なく育ったエミィには自然と幸せは享受され、その後も深く考える機会がなかったのだ。それは奇跡に近いことだろう。
「...うん!」
キミちゃんは照れ笑いしながら返事する。エミィのこういうところが好きだった。

ピンポンパンポン..
「ズズ..本日の業務時間の変更についてご連絡します。繰り返します。..本日の業務時間の変更について...」
館内放送が入る。
「あ~やっぱ入ったな。行ってくるわ」
キミちゃんは残りのオムライスを口に掻き込みながらすでに中腰になっている。
エミィもオムライスを口に含みながら同意の頷きをする。


メインオフィスにキミちゃんを含む代表責任者が集まる。世田さんがチェックリストに目を通し、今日の欄ににサインし、12:30と記入する。


オタマジャクシ

「なぁ~つぅのぉ~ うらぁ~らぁ~のぉ~」
いつもよりコブシのきいた鼻歌を雨音に負けないくらい大声で歌い、エミィは雨の中を歩く。
「あ、白鳥近くで見てこかな」
ふと思いつき、橋のところで湖のほとりに続く階段を降りる。
階段の途中で「わ」と小さく口を開けたと思うと、続け様に「ぁ~、大きい水たまりや!」と叫ぶ。
階段下に池のような大きな水たまりができているのだ。激しい太鼓を叩いているかのように雨が湖面を打ちつけ、忙しく波紋が浮かび消える。
興奮したエミィは階段の数段上から勢いよくジャンプする。
バシャーーーンッ
想像以上の水飛沫が広範囲に飛び散る。
「あははははは!!」
無邪気にお腹を抱えて笑い、もう一度ジャンプしようと大きくかがむ。
「?」
その時、水面に違和感を覚える。注意深く顔を近づけると、小さな黒い点が素早く移動している。
「オタマジャクシや!」
目を輝かせてそう言い放つや否や、パーの形をした手を勢いよく水たまりにつっこむ。
不器用なエミィの手はオタマジャクシたちにとってゴジラさながらだ。
オタマジャクシたちはスィーと手の隙間にから逃げていく。
しかしエミィも負けていない。
「手やと捕まえられへん。せや、かっぱのフードのとこで..」
レインコートを脱いでぐるぐると巻き、フードだけが出るようにする。フードの端と端を両手でつかみ、そぉーっと水たまりの中に沈める。
ザパァ。
フードをあげると、1匹のオタマジャクシが中に入っている。
「やった、入った!」
興奮したエミィはその体制のまま階段を上がり、駆け足で自宅へ戻る。


「あかん、鍵出されへん、」
アパートの前で両手が塞がって鍵が出せないことに気がづく。
「どうしよ、おしっこも行きたくなってきた..。あっせや、長靴に一回流し込んで..」
疲労と焦りでパニックになってきている。片脚で長靴のフチを抑えて長靴を脱ごうとしたが、うまく脱げない。
「あかん..」
顔は青ざめている。すでに体はずぶ濡れ、さらに両手は塞がれたまま前屈みで片足を上げている、奇妙なポーズだ。
「どうぞ」
前方から声がした。
顔をあげると目の前に小柄なショートカットの女性がいる。女性の後ろに小さな男の子が体を隠しながらこっちを覗いている。
「どうぞ、開いてますよ。」
ちょうどアパートを出る親子が扉を開けてくれたのである。
エミィは嬉しさを感じながらもお礼の言葉を発せられず、ペコリと頭を下げて中へ駆けていく。


「ふぃ~おしっこ間に合った...」
椅子にもたれかかって一息つくエミィ。ダイニングテーブルにはガラスボウルに入れた水の中をゆらゆらとオタマジャクシが泳いでいる。
「でもオタマジャクシ持って帰れた。足生えてくるんかな。楽しみ。」
一人でできたことに達成感を感じ、ボウルの中を覗きながら呟くのだった。


七夕の飾り

「う.. あれっ今何時..?!外..明るい」
ガバッと起きあがるエミィ。窓の方に目をやると外はまだ明るい。雨は止んだようだ。
オタマジャクシの育成について調べようとパソコンを立ち上げたが、いつの間にかそのまま寝落ちてしまっていた。
「さむっ」
よだれを手で拭いながら掛け時計を見る。針は16:40を指している。
「えーと、。。 えー道具箱..」
肩にかけたタオルを取りながら、まだぼうっとした頭のままゆっくり立ち上がる。
「あったあった。あとは折り紙.. あ、あったあった。」
雑多な物入れ棚を覗き、道具箱と折り紙を取り出してダイニングテーブルへ向かう。
(チョキチョキ.. チッチッチッチ..)
ハサミと時計の音だけが空間に響く。

どのくらい時間が経っただろうか。
テーブルにはいくつかの’物体’と、紙の切れ端やテープ、糊、ハサミなどの道具で散乱していた。
彦星は円錐の先に折れ曲がった首が糊で強引につけられ、まるで溶けかかったアイスクリームのようだ。織姫の胴体部分は帯状にした紙を輪っかにして複雑に重ね付けされている。にっこりとした歪んだ赤い口が怖い。
そのほかにも天の川を意識した帯状の紙束を捻じ曲げたような物体に小さくちぎった紙をくっつけたものなど、5つほどの作品を作った。
「いっぱいできたわ」
手を糊で黒くベタベタにさせながら満足そうに呟く。
「おりひめさん ひこぼしさぁん 出会ってうれしい 踊りましょ~ タララッタッタ~」
即興で作った歌を歌いながら織姫と彦星を両手に持ち、ダンスさせて遊ぶのであった。


初めての水槽作り


「エサどうしよ。水槽もいるなあ。途中なんて書いてたっけ。」
七夕の飾り作りが落ち着いて、再びパソコンの前に座る。
「エサ、ご飯粒やほうれん草など..。あ~あるわ、よかった。
水槽は..頼めそうやけど..申請いるんかな。う~ん作れるかな。」
部屋の隅に立てかけている木材を見る。

アナーキタウンではゴミを一定量しか出すことができない。ゴミの量を制限することで消費者の爆買いを予防している。
定期的にコントロールチェックが入り、違反者は最終的に’追放’という厳しい罰則がある。
そのためまだ使えるものに限り『ご自由にお取りください』と書いてアパートの外に出すことができる。
通称「ギブ」をエミィはよく活用し、廃棄された棚などを見つけては自分で解体し、使える木材を集めていた。

「この木でいけるな。あと前に拾ったガラス板、これちょうどええんちゃう。」
比較的細い角材を選別する。
「えーと、? ガラス板のサイズ測って、長さ揃えて、木切って、あ、木は何本いるんやっけ..いち、にぃ、さん、よん..
つまり木が4本と、板が..4枚..?それをボンドでくっつくけて、ガラスの板を貼り付けて..」
頭をフル回転させて考える。解体はできるが、一人で容器を作るのはエミィにとっての初挑戦だ。

ギコギコギコギコギコギコギコギコ..
ノコギリの音が部屋全体に響く。
「1,2,3,4本。1,2,3,4枚。やった、全部切れた!騒音セーフやったかな。」
すでに外は暗い。額や脇には汗をかいている。
切った角材の端に勢いよくボンドをつけ、木の板に貼り付ける。接着面からはボンドが盛大にはみ出している。
一度休憩し、エサがわりの残飯をあげると、作業は深夜まで続いた。


七夕まつり

ガバァと大きな口を開けてあくびをするエミィ。
「ねむぅ。昨日頑張りすぎた」
少しだるさが残る体でロッカールームに入る。
「エミィちゃんおはよ!あれ、なんか眠そやな。」
キミちゃんだ。
「飾り持ってきた? 今朝 広場でめっちゃおっきい笹 いっぱい運ばれてんの見たで!」
「わ~楽しみやな!」

今日は地域交流会行事の一つ「七夕まつり」のための設営日だ。高さ4,5メートルの笹が物流センターの講堂に固定され、労働員は持参した飾り付けを笹の葉につるす。
講堂は7月7日まで一般公開され、期間中には地元民を招待した小さな夏祭りイベントも開かれる予定だ。


「はい、みなさん 事前に登録していない方はこちらに名前と登録ナンバーを記載してください。」
講堂で世田さんがスピーカーで繰り返し話し続けている。
「すでに登録されている方は用意していただいた飾りを笹の葉に吊るしてください。
短冊は前のテーブルにありますので、こちらも自由に願い事を書いて吊るしてください。」

「キミちゃん、飾りつけよっか」
「うん、混む前に行こか!」
二人は普段とは違ったお祭りの雰囲気にワクワクしながら、持ってきた袋を開ける。

ズキッ
エミィの胸に痛みが走る。
キミちゃんが取り出した飾りは、頭に金色の星がついた彦星と赤白の縞模様の提灯だった。
「これ息子と作ってん。織姫は?って聞いたら母ちゃん!やって!」
キミちゃんは照れ笑いしながら、口角は抑え切れずぎゅっと上に向いている。
「エミィちゃんの紐ついてないな。前のテーブルでもらえるよ!」
「あっ..うん、取ってくるわ」

すでに笹の周りには人だかりができている。
各人が笹に飾りを取り付けると、みるみるうちにカラフルな色に染まっていく。

「きれいやなあ。」キミちゃんや他の人々が笹を囲んで眺めている中、
「ほんまやな..」と相槌を打ちながらも一人エミィはチクチクと胸が痛んだ。


「エミィちゃん、またな!」
キミちゃんと別れた後、トボトボとした足取りで帰宅する。
「キミちゃんのかわいかったなぁ。みんなのも。うちのやつなんかみすぼらしかった。
うち、工作得意やと思ってたけど、下手くそやったんや..。」
それはかつてない衝撃だった。ショックだった。

今までは両親が手放しでほめてくれた。
「マリィちゃんは天才やな!」「うちの天使さま」と、両親はいつも目を輝かせ手放しで誉めた。彼らは愛情と尊敬をもって彼女に接した。エミィに怒られた記憶は一度もなかった。
4月生まれで体が大きかったこともあり、小学校ではリーダ的存在だった。天真爛漫さを披露し、次々と新しい遊びを考案しては同級生を巻き込んで遊んだ。
しかし両親の転勤を機に小学校4年生の時から中学、高校とホームスクーリングになった。
彼女はいわば隔離されたお姫様だったのだ。


死と生

ガチャ。
自宅の玄関ドアを開けると、何か音がする。
ピチョン、ピチョン..
「?」
靴を脱いで居間に入ると、普段と違う様子のダイニングテーブルが目に飛び込んでくる。

ズキンッ

エミィの心臓は絞られたような痛みが走り、嫌な予感が背中を覆うように襲ってくる。

ぅ゛っ..

声にならないような音が喉から出る。

よたよたとダイニングテーブルにかけよる。テーブルの上には昨晩作った自作の水槽がある。中を覗き込む。
水はすでに1mmもない。木は水分を吸って濃い色に変わり、濡れた木の匂いが鼻を刺激する。水はテーブルをつたって滴り落ち、床はびしょ濡れになっている。

「あ゛あ゛あ゛..」

水槽の隅に縮こまった黒いかたまりをそっと持ち上げる。
オタマジャクシは微動だにしない。

「なんで.. うちは.. こんなに..」

エミィはオタマジャクシを両手で包み込み、顔の近くに持ってくる。

「こんなに..」

涙が溢れ出る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! あ゛あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

外にまで響く声で泣き喚くエミィのそばで、窓際のりんごの種はこの世界に生命の芽を出していたのである。


第2話:


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