昨日、とあるイベントに参加して「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という言葉を知った。

その後、気になって調べた中から、いくつか引用。

道を歩むということ

茶の湯(茶道)は禅宗を起源としているため、『茶の湯』と『禅』の本質は同一であるべきだとする考え方のことを『茶禅一味』と呼んでいる。 茶禅一味は『茶禅一致』ともいうが、茶味と禅味が一体のものであることを悟ることであり、人間形成においては茶の湯と禅宗に差異はないということである。

茶道の「道」は、仏道に由来している。
道を極める過程で、人間形成を目指している。
そして、道を歩むものは、理論と実践の両方を大切にする。

そう考えると、茶の道も禅の道も、たしかに一緒だよね。

いま・ここに集中する

慢心や自分に対する執着というものが何よりとらわれになり茶道への妨げになるといいます。

集中して、なりきってする経験。
芸事をやるときも、すべてそういう純粋経験でやらなくては自分の糧にはならない、と。

「いま」「ここ」に集中する。というのも、茶と禅で一致するところだ。

浮ついた心では、身に入らない。その点では、スマホを常に持ち歩き、時間ややることに追われている私たちは、1つのものに集中するという機会が減っているのかもしれない。

世の中に、美を見出し、敬い尊ぶ

茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。

そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。

茶道の本質は、不完全ということの崇拝――物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。

不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである。

深いなぁ〜✨

諸行無常、絶えず変化する世の中。
善も悪も、混沌と入り混じる世の中。

VUCAの時代、それはますます加速する。

でも、「不完全 かつ 変化し続ける」という世のことわりは、地球が生まれてから、ずっと変わらない訳で、その流れの中に生かされている私たち。

生命の一瞬の煌めきに感じる美しさ。
それは、儚さでもあり、慈しむ心が生まれる。

一碗からピースフルネス

先日、裏千家の大宗匠(前の家元)千玄室さんが、テレビで紹介されてた。

「一碗からピースフルネス」を掲げて、世界の要人と茶の湯を一席構える活動をされていた。

曰く、お茶の入ったお碗を上から見ると、緑の丸が見える。これは地球なのだそうだ。

今までの話も踏まえると、なんだか分かるような気もした。

茶の道も、禅の道も深いね。

ではまた!

しゅんたろう

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