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太宰治『人間失格』を読んで。


太宰の『人間失格』を読んだ。
考えたこと以下三点を大まかに記す。


Ⅰ.潜在的二人称(奥野)


いくつか述べたいことがあるが、あまり気にせず色々書くつもりだ。まずは、読み終わった後に感じる、あの「こいつの気持ち、俺には分かるよ!!」という共感の思いだ。これは、恐らく僕だけに感じられることではなく、読んだ人みんなに感じられることなのではないかと思う。(もっとも、全面的にではなくとも、部分的に。)
奥野健男は、この事態を「潜在的二人称」という言葉で表現していた。

「太宰治の小説を読んでいくと、いつしか、作者の、あるいは作中主人公から選ばれた特定の聞き役にされてしまい、太宰によって選ばれたただひとりの読者、太宰の苦悩と真実の唯一の理解者という気持にさせられる。のみならず、太宰は自分の苦悩を、内的真実を理解してくれる唯一の人だという気持になってくる。」

この引用文を読んで、苦笑せずにはいられない自分がいた。もっとも、この引用では、太宰の作品全般が射程に入れられているようだが、もちろん、『人間失格』にも妥当する指摘であると思われる。大庭葉蔵=作者=太宰という関係を早急に首肯するのもいささかためらいがあるが(この関係を採ろうとする論者も、逆に、その採り方は違うのではないか、単なるフィクションとして読まれるべきだとする論者も存在しているようである)、少なくとも、葉蔵にシンパシーのようなものを感じる読者は私だけではないはずだと思っている。
 従って、まず一点目は、手記の主人公=葉蔵のことを分かっている、唯一の理解者だと思わせるような力が、この作品には働いているように思われる、という指摘である。孤独を通して、むしろ普遍妥当していくというルートは面白い。むしろ言い換えれば、普遍妥当的に皆孤独である、ということが言えるかもしれない。


Ⅱ.太宰の狙いとは


 二つ目は、一点目を踏まえて考えられることであるが、太宰の狙いは何であったか、ということだ。色々な読まれ方が可能であろう。先にも述べたかもしれぬが、葉蔵=太宰と読み、これを太宰の最後の作品として、人生の集大成として読むという読み方(実際に、本作品を完成させたのち、太宰は玉川上水で愛人と自殺を遂げたのであった。)。そして、葉蔵と太宰は切り離して、極力単なるフィクションとして読む読み方。もっとも、この二つの読み方は簡単に切り離して考えられるものではないだろうが。私としては、太宰がどう考えていたのかということが気になるのだが、恐らくは、この二つの読み方をされることは念頭にあったのではないかと思う。もちろん、思想として、〈人間〉ということにこだわり、問い続けた葉蔵を読者への問いかけとして読み取ることもできるだろうが、それだけでなく、一体これは、どういう読み方をすべきなのか?という思いを読者に起こさせたかったのではないかと思う。真に悩んでいながらも、まんまと太宰の術中にはまっているように私には感ぜられた。分からなくさせ、向き合わせようとする、といったところに焦点があったのではないかと思う。結局のところ、(これは次の項目に通ずることであるが、)そもそも〈人間〉とは何か?という問いを読者諸賢ももっと考えてくれまいか、という願いとも取れる、ということが、私がこの第二の点で述べたいことであった。


Ⅲ.葉蔵の不安について


 葉蔵は、幼い頃から不安であった。他者に対して恐れを抱いていた。その彼が編み出したせめてもの策は「道化」であった。第一の手記には、こうある。
 
 自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。(岩波文庫版、pp.12-13)

彼は、常に不安であった。そもそも人間が明確には、分かっていないが、自分はそっち側の世界に属している者ではないという直感があったのではないかと思う。彼らの言葉に、習慣に、幸福の観念に、自然に従えない、ということをはっきりと自覚するのは、作品中で東京へ出てからであると思うが、それによって、彼は、自身を、「人間、失格」と断ずるのである。
 これを哲学的な言葉で少し考えたのだが、ふつうの人間とか、何の疑問も抱かずに生きている人間の態度を、「自然的な態度」と私は呼んでいる(もともとはフッサールの用語としてあるが、超越論的還元の話はここではしない)。私の主張を先に述べてしまうと、葉蔵はむしろ、「人間、合格」であると思う。彼こそは本当の人間存在のあり方を適切に体現していたのである。彼が作中で、酒におぼれ、クスリにはまり、自殺を図ったことはむしろ、もっともなことであった。それを「狂人」として扱うことは、これほどひどいこともない。
 私は、実のところ私ではない。これは矛盾であろうか。否。
 簡単に言えば、私は、私と、私でないが同居している。否定性を含んだ存在、それが人間存在である。葉蔵は、実はこのこと明確に自覚していたのである。サルトルの言葉を借りれば、浄化的な反省を行っていたのである。人間は、その構造そのものからして、分離的な私しか構成されない。葉蔵と他者との相違は何かと言えば、それは、道化しているか、していないか、という差ではない、と私は思う。むしろ、皆道化はしているが、自身が道化しているということに気づいているか、いないかという点である。葉蔵は、自身が、道化的でしかない、ということに思い悩んでいたのではないかと思う。
 だから、私は、この分離性に自身が気づいているのか、いないのか、という点に真の意味での合格か不合格かの判断基準を置きたいのである。この観点から言えば、葉蔵は、合格で、むしろ他者共は、失格なのである。価値一般について疑いをはさまない態度は、「くそ真面目な精神」として、「自己欺瞞的な精神」として糾弾されねばらならない。人間は、本来、不安な存在である。なぜなら分離性の矛先(でない方)は、自由だからである。この分離性は、選択そのものであると言えよう。従って、一般的な価値なるものを信奉しているということは、分離性・否定性に覆いをかけてしまうことに等しいのである。
 したがって、この『人間失格』は、「恥の多い生涯」の単なる回顧的手記として読まれるだけでなく、飛躍的には、〈人間〉とは何か?という問いを起こさせ、倫理的メッセージを込めた作品と評することができるのではないかと私は考えている。

参考文献
太宰治『人間失格 グッド・バイ他一篇』、1988
松本和也『太宰治『人間失格』を読み直す』、2009、水声社

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