夏休み特別企画「どんなカタチでもアウトプットするなら、考えたいこと好きなだけ考えて良いよ!」な5日間を経て


ここ最近、纏うものとの対峙の中で、
「身体表現」に興味を示す自分がいて。

建築との間に生じるギャップを、
繋ぎ合わせることができない自分自身の
思考力と精神力に限界を感じていた事を機に、

夏休み特別企画
「どんなカタチでもアウトプットするなら、
考えたいこと好きなだけ考えて良いよ!な5日間」を実施した。


繋ぎ合わせることができないことで、
自分のしたい表現の限界を感じているなら、
繋ぎ合わせることができるようになるしかない。

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考えたいことリスト

1_身体表現について
1−1_公演「勅使川原三郎 ランボー詩集」について
1−1−1_公演構成と空間構成の共通項を考える
1−1−2_ランボー詩集における身体表現について考える

2_ファッションについて
2−1_『シネマ・インフェルノ』について
2−1−1_ファッション構成と空間構成の共通項を考える
2−2−2_ジョン・ガリアーノの表現方法について考える

3_空間について
3−1_「大きな屋根」について
3−3−1_相対的な空間的価値から空間の価値となり得る言語について考える
3−3−2_空間エレメントに生じる接点について考える

3−2_実務における空間スタディ(軸性)について
3−3−1_フィールドワークから軸性が生じる瞬間について考える
3-3-2_ブルーノ・ムナーリ「芸術家とデザイナー」


4-1_自由課題:僕と社会について


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どうしても、概念や現象などの抽象的な物事に惹かれ、
そのドツボにハマってしまう僕に必要なことは、
とにかく詰め込んで、とにかく消化すること。

その繰り返しの中で自分の限界を、自分自身で感じることで、
限りない時間の中に有限性を見出すことが、まずは必要な気がした。


それと同時に、
並行して考える複数の物事に対して、
抽象と具象を繰り返すことで、
それぞれの物事が統合されていく過程を、

自身のつくるものに還元していくことが必要だと感じた。


その上で、桑沢での、
住宅・インテリア・エレメントの3つの課題が、常に同時進行している状況が、
それぞれのアウトプットに影響し合う過程を、

もう少し領域を広げ、
空間・纏うもの・身体表現、について思考すること自体が、
それぞれにどう影響し合うのかを模索するための糸口を見つけたかった。


結果を通して感じたことは、
アウトプットの質の低さと遅さ。


知識や技術、各領域における歴史、文脈を
感じ取ることのできていない僕のアウトプットは、遅くて浅い。


現にリスト内の、「1−1−2_ランボー詩集における身体表現について考える」については、触れることさえできなかった。


ただ、それぞれの領域を空間として認識することで見えてきた、空間との接点や共通項は、
これまでにないモノの見方として、ヒントを与えてくれた。


そしてもう一つ、僕の中での大きな気づきがあった。


それは、「多様であること」について考える自分がいたということ。

アウトプットをするという制限の元、自らの脳内にひたすら情報を取り込む過程の中で、

自身の思考の統合性が取れなくなっていくこと、その事で生じる自身に対する心地悪さ、
それでもどうにかそれらの情報に対して、
規則性を見出していくことを、
ものをつくることに還元しようとした時、

異なる価値観が共存することの意味を体感的に認識した。


そして、その認識の先に、
はじめて社会との繋がりを模索し、他者を求めている、
そんな僕自身がいるような気がした。



この5日間で何か答えが見つかるなんて、
全くもって思っていない。



だけど29歳を目前に、このタイミングで、
人生における卒業設計のテーマを再設定するかのように、
自らに挑もうとした今回の経験は、

きっと、この先継続していくことで、
いつかつくる僕のモノとして現れる。


そう思う、
そう強く意志を持つキッカケになったことは、
僕だけが知る、「確かな1つの答え」なのだろう。



僕がこれから何をつくるのか、
つくることができるのか、
考える事ができるのか、
何に価値を感じる事ができるのか、
何に悦び、何を苦痛とし、

何を感じる事ができるのか。

そんなことは僕にも誰にもわからない。


だけど、つくり続けてさえいれば、
つくり続けることはできる。


僕にとって不確かなこの世界で、
確かな何かを模索する。


それが、今の僕にとっての、
生きるということ。

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