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コーヒーカップ。



人との関係は、コーヒーカップ。

そう考えたいと思うようになったのは、
大切な人、大切だと思っていた人の一言を、不快に感じてしまったから。

大好きだと思っていた人と話をしているはずなのに、
言葉を発することに気だるさを感じてしまったから。

目を合わせるために使う、微々たる労力さえも苦痛に感じてしまったから。


大好きだと思っていた人と、大切だと思っていた時間を過ごしていることに、
罪悪感を感じてしまった僕がいるから。



だから僕は、人との関係を、ぐるぐると回り続けるコーヒーカップだと、
そう考えるようになった。


そう考える事で、大切な人のことを、そのまま大切に思える気がしたから。



触れる言葉が変われば、言葉の解釈が変わるように、自分の過ごす場所や近くにいる人が変われば、自分自身に何かしらの影響を与える。


良くも悪くも、人は環境に影響を受けると思っているから。


それと同時に、自分の過ごす場所や近くにいる人が変わっても、自分は変わる事はできない。


良くも悪くも、外部からの影響は、本当の意味では自分を変える事はできないと思っているから。



ハンドルを回さずとも、回り続けるコーヒーカップから見る景色は、自分の意思とは関係なく、強制的に変わっていくんだ。


だけど、何かを見たいと思えば、ハンドルを回す事ができる。見たい何かがあるなら、自分の力でハンドルを回す事ができるんだ。


僕がぐるぐると回るように、誰かもぐるぐる回り続けている。


だから昔は同じ景色をみて、同じことに価値を感じられていた人と、
分かり合えない瞬間が来ることは、すごく自然なことなんだと思う。


それは、どちらかが先に行っているとか、上にいるとかではなく、
水滴から生まれる波紋が水面に広がっていくように、
対等な関係を保ちながら、あっちでぐるぐる、こっちでぐるぐる、

回りつづけているだけの話であって。


自分の意思で回ろうとせずとも、回り続ける状況の中で、
みたいものを見るためにハンドルを回す人もいれば、
みたくないものを見ないために、力一杯ハンドルを回し続ける人もいるわけだから、
同じ景色をみようとすること自体が、自然に反することなのかもしれない。



そうやって、自分の中に感じた違和感を、どうにかこうにか
言葉にすることで、自分自身を保っている。


保っているというと被害者ヅラをしているように聞こえてしまうかもしれないが、
そうすることで、また違う感情と出会えたり、知らない自分を知れたり。

自分が変わることができれば、見ている世界も変わる気がしていて。

僕は、世界や誰かを変えられるほど、賢明で寛大な人間ではないから、
世界や誰かの捉え方を学ぶしかないのだと思っている。


僕が心から美しいと思うモノや、好きだと思う人を、
胸を張ってそうだと言える世界なのか、そうではないのか。


それらの答えは全て、自分の中にある気がしていて。

僕が自分で見る世界くらい、自分で決めたっていいじゃないか。


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