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『第9回:なぜ『猫と金魚』に虎さんを出さないの、の巻(寸志滑稽噺百席其の七)』

杉江松恋(以下、杉江)さて、寸志滑稽噺百席其の七です。実を言うと、其の六までが第一期で新宿五丁目・電撃座が会場、其の七以降は現在もお借りしている神楽坂・香音里なんですよね。こっちを第二期って便宜上呼んでいます。宿替えしたのはいろいろ事情もあるんですが。
立川寸志(以下、寸志)それはまあ、おいおい話題にすればいいんじゃないですか。いろいろ長くなりそうですしね。
杉江 そうですね。というわけで其の七ですが、19・20・21は「天災」「猫と金魚」「花見の仇討」。この三席でした。
寸志 会場移転第一回ということで、全部、大学の落研時代にやったことのあるネタにしました。私としては、好きなネタ、かつ、将来的に得意ネタにしたいなあ、ぐらいの三つを揃えてみました。
杉江 落研時代は別としてプロとしてのネタおろしはどれなんですか。
寸志 「花見の仇討」です。真打がトリを取れるくらい長い噺ですけど、大変に滑稽味の強い噺ですからね。滑稽噺でよかろうと。

■「天災」

【噺のあらすじ】
女房と自分の母親に離縁状を書いてもらいたいと言ってきた男に大家は紹介状を渡して心学の紅羅坊名丸先生を訪ねさせる。いい話を先生はいろいろしてくれるが、馬の耳に念仏で。

杉江 最初の「天災」はもちろん(立川)談志、家元の得意ネタでしたね。
寸志 落研時代、勝手にやったときに参考にしたのは、(柳家)小さん師匠(先代)と、(林家)彦六の正蔵師匠(先代)と、談志師匠。そのお三方ですね。おもしろいのは「屋根から小僧が落ちてくる」「危ねえ小僧だな」という、そこですね。そこだけがやりたい。それに向かってずーっとやり続けてるということですね。
杉江 そこ終わったらどうするんですか。
寸志 自分としては、もうそこサゲでもいいくらい。だって、オチは「センサイ(先妻)の間違い」ですから。それほど優れたものでもない。今でも何とかしてサゲ変えよう、サゲ変えようと思ってるんですけど、なかなかうまくいかない。
杉江 最近の演者さんはみんな、そのサゲについては諦めている節がありますよね。「もういいや」って感じにして。たぶんみんな、その前のオウム返しのところをやったら、もうやりきった感がある。「冗談言っちゃいけねえ」的にみんな、「間違い」のオチを言って終わる、と。
寸志 けっこう長いんですよ、紅羅坊名丸から心学を教わるシーンが。で、長屋に帰って揉め事があったくだりを聞く流れも長い。「子ほめ」とか「道灌」レベルのオウム返しではなくて、返すのに時間がかかる。これ、「青菜」と同じですよね。「青菜」も、ずーっと長く教わって、それをずーっと返すじゃないですか。「青菜」の場合は途中でおかみさんとの絡みがありますけど、そこもけっこう長いんですよね。その長い「青菜」より「天災」は長いんです。
杉江 なるほどね。
寸志 で、長くしないために、冒頭の大家と八のやりとり、「離縁状を書いてくんねえ」っていうところ、あそこをやらない場合があるわけですよ。「まっぴらごめんねえ。まっぴらごめんねえ」から始まる人がいる。
杉江 大家に言われて八公が紅羅坊名丸のところに来るところですね。
寸志 でもね、私は、大家と八のところのやりとりも好きなんですよ。ここは談志師匠のがおもしろい。家にいるばあさんはおまえの母親だろうと言われて、「ことによるとあらぁ、うちの主じゃねえか?」「お前のおっかさんだろ」「よせよぅ。おっかさんなんてのはおっかさんって言うぐらいで、もうちょいといいもんだ。あんまり変な濡れ衣着せねえでもれえてえなぁ」って。僕はあそこが好きで、談志師匠の「天災」のおもしろさだからやっぱりやりたいんです。だからどうしても長くなるけど、「まっぴらごめんねえ」からやるのはいささか寂しい。
杉江 「青菜」もそうでしょうけど、出来上がっていて切れない噺なんだ。
寸志 演じるポイントの置き方次第なんでしょうけれど。「青菜」と「天災」は構造的にも似てるし、登場人物も、青菜の旦那と紅羅坊名丸は、《鷹揚な人物》という似通う点がありますね。僕らレベルの若手だと出せない味のあるキャラクターというか。
杉江 大人(たいじん)感のあるひとね。
寸志 そうそう。その大人の趣っていうのが出せない。だから退屈するんだろうな、聴いてる人は。で、前に「青菜」の話をしたときに、「旦那というものを描く」ということが一つの芸として上方では認められてる気がするって言ったと思うんですよ。このあいだ亡くなった(笑福亭)仁鶴師匠の「青菜」も歌い調子の気持ちよさというものがありますけど、やっぱり(桂)米朝一門の雰囲気かなあ。「天災」の紅羅坊名丸も、基本的にそうなんだと思います。六代目春風亭柳橋師匠の「天災」を音源で聴いていると大人の感じがする。そういう大人感を無理に出そうとすると私だと全く足りないし、まだまだきちんと自分でグリップできてる噺じゃない気がします。
杉江 談志家元は「紅羅坊はうさんくさい人間なんだ」だとおっしゃったじゃないですか。解釈としてはアリだと思うんですけど、そこはどう思われますか。
寸志 私がそれをやるとね、なんか考え過ぎて、うさんくさい人物像を軸にしちゃうような気がするんですよ。でもね、(立川)左談次師匠が晩年に近いときにやった「天災」は、紅羅坊名丸が何と言うか、変態なんですよ。
杉江 変態って。
寸志 変態っていうか、イイ話をしたがる。聞かせたがる。道徳的なたとえ話になっているのかいないのか微妙なことを得々と語って「おわかりか?」って言いたいだけの人。目が怪しい光を放ってる感じなの。「まあまあ、お聞きなさい」みたいに、いろんな話を聞かせようとするんですよ。八五郎が「もう勘弁してくれ」っていう感じになる。一足突っ込んだ演出ですけど、それは左談次師匠の怪しさと、私ごときが言うのも失礼ですが、茶目っ気があってこそだと思うんですよね。
杉江 芸歴から来る風格があってこそだと。
寸志 そう。いたずらにそっちを突き詰めていくと、「変態先生のところに行く」っていう主題になって、噺の焦点がボケちゃう気がするんですよね。
杉江 それこそ、発端とオウム返しの後がいらなくなりませんか。そこだけでよくなっちゃう。新作でよくあるパターンですね。
寸志 うん。いわゆる「狂気を感じさせる先生のところに行っちゃった」っていうね。病院コントとかでよくあるやつですわな。
杉江 「二十四孝」ってあるじゃないですか。
寸志 「二十四孝」やりたいんだよなあ。
杉江 あれ、かぶるじゃないですか。親不孝者の要素が。
寸志 かぶるかぶる。
杉江 構造としては「二十四孝」のほうがオウムがないぶん――いやオウム返しはあるか。
寸志 柳家だとありますね。オウムがヘンな形で挟まってるんですよ。二十四孝の話を教わって帰ってから家の前を通りかかったに友達呼び止めて、わざわざ話すんですよ。「お前なにやってんだ」「親父とケンカしちゃって」「それはいけねえぞ」で、オウム返しが始まる。
杉江 そうだ、そこでやるんだ。
寸志 それからお袋さんとのやりとりになるんですけど、このオウムの部分って取って付けた感がすごい。実際やらないパターンも多いですよ。正蔵師匠の速記もそうだし、文治師匠もやってないんじゃないかしら。だから、このオウムをね、おかあさん相手にやっちゃえばいいのかなっていう気もするんですよ。
杉江 まっすぐ帰ってきて、オウムをやってすぐ酒飲んで寝ちゃう。
寸志 うん。で、お袋にそういう話をしちゃうと。まあ、かみさんでもいいけど。もしくは、もうオウムなしにして、「お袋、なんか食わねえか」って言う。もうそこらっからボンと入ってもいいんですけどね。ああ、ごめんなさい、「二十四孝」の話しになっちゃってますね。
杉江 いえいえ。構造的に似ているから「二十四孝」は「天災」と比べてどうなのかな、というのをお聞きしたかったんですよ。
寸志 似てますよね。最初、ケンカがあって、大家になだめられる。いい話を教わって、それで失敗するという展開で、対応するアイテムがあるんですよね。「イワシ取られた」のと「おっかさん蹴飛ばした」のと「心学」と「孝子伝」、みたいなね。で、「親」というものがそれぞれテーマになってるわけです。
杉江 「二十四孝」やられてないんでしたっけ。
寸志 まだなんです。やりたいですよ。立川流はあんまりやる人いないんですよ。こないだ(立川)志ら乃兄さんがやったのを根多帳見たから、「あれ、長くありませんか。オウムのところいらないと思いませんか?」って、さっき言った問題意識を話したら「いや、あれ取っちゃったらオウムできないじゃん」と至極真っ当な答えをいただくという場面がありましたよ。「そうですけど」って。家元が何かの本に書いてますね。「『二十四孝』ってウケない」と。淡々とやるのは「四代目小さんが作り上げたかたちだ」「そういう、ウケてもウケなくてもいいということでやっている噺だからウケない」というようなことを仰ってましたね。先代(桂)文治師匠のなんか爆笑なんですけどね。

■「猫と金魚」

【噺のあらすじ】
旦那が可愛がっている金魚を隣家の猫が狙っている。金魚危うし、の報を告げにやってきた番頭に、旦那は急いで金魚をよそへ移すように言う。だが一筋縄ではいかない番頭だった。

杉江 次の「猫と金魚」いきましょう。ずっと前座のころからやられていますよね。
寸志 大学二年のときに「白鶴杯・関東学生落語選手権」という大会の決勝に行きました。審査委員長が(橘家)圓蔵師匠でした。僕は圓蔵師匠と文治師匠のを混ぜてやってたんですけど、サゲを変えてたんです。「この通り濡れ鼠になりました」「そんなつまらないオチで落としちゃダメだ!」ってそこでサゲずに、「そんなこと言うんだったら旦那が行けばいいじゃありませんか」「私はダメだよ」「どうしてです」「名前が忠兵衛だから」「ああ、旦那のオチのほうがつまらない」っていうね。
杉江 ……ああ。
寸志 そりゃあ酷評されますよね。当の当人の真ん前ですし。
杉江 名前オチはちょっとね。オチのために後出しで作ってるわけでしょ。
寸志 ズルいです。ダメですよ、こんなことしちゃ。まあまあ、そんなわけでさっきも言ったように学生時代からのなじみ深いネタではあります。ただ、立川流の日暮里寄席なんかだと、あまり浅い上がりではできないと思ってた。前座とか、なったばかりの二ツ目がやるネタじゃないですね。ナンセンスの極致なので。
杉江 でも、僕はかなり早いうちに寸志さんの「猫と金魚」を聴いた記憶があるんですよね。寸志さんの勉強会に行ったのかな。この噺のキーマンは番頭さんですか。
寸志 僕の番頭さんは頭おかしい人なので、それをどう頭おかしくするか、です。
杉江 これ、アンケートの感想に「虎さんが出てこない」って書いてあるのは、棟梁を呼ぶところまで行かないってことですか。
寸志 これはもう、自分の「猫と金魚」に対する処置の……処置って……工夫の、一番大胆なところだと思うんです。虎さんが出る前に終えちゃう。クスグリで膨らましてあるんで時間はちゃんと十五分あるんですけど。番頭が金魚鉢を置きに行くと、天窓から猫が降りてくる。「今、金魚と猫が湯殿にいます」となって虎さんが呼ばれる、ここから後半じゃないですか。そこで切っちゃう。番頭が「金魚鉢持ってるときに猫が降りてきて、私は金縛りにあって、向こうから猫がひたひたひたひた、ニャーっていうから、どうぞって」「お前、渡してどうすんだよ」地にかえって「猫と金魚でございます」で終わっちゃう。
杉江 ああ、そうか。
寸志 その学生時代のサゲの一件が頭にあったかもしれないけど、どうも面白くないと思っていたんですよね。噺家になって一番最初にやったときには、たしか虎さんを「近所の柔道場の師範の先生」にしたんですよ。「フカノウジジゴロウ」みたいな名前で。熊と戦って45分両者リングアウトとかデフォルメして。
杉江 講道館に叱られますよ。
寸志 その先生が戦って、負けて、「あの猫を我が道場の師範に迎えたい」と。「どうしてです」「忙しいのじゃ。猫の手も借りたい」という、当たり前のサゲ。
杉江 うーん。
寸志 もう、やっててつまんないですから。前半、番頭さんの頭おかしいエピソードでけっこう笑い取れてるのに、後半で絶対的にお客様のテンション下がるんです。一番おもしろい番頭さんがもう出てこなくなるから、雰囲気が変わっちゃうんです。だったらもういい、後半は無しにしちゃおうと。そう決めたら、ものすごい自分の中ではバッチリとキマった。これは自分をほめたいと思う。誰もほめてくれないので。
杉江 そこまでフルに、たっぷりにやって何分くらいなんですか。
寸志 二十分ないですね。
杉江 寄席サイズですね。そういう意味ではまさにばっちりな滑稽噺。
寸志 現状では使い勝手のよい武器ですね。以前は、ナンセンスすぎて、お年寄りとか落語を聴いた経験があまりない方にはキョトンとされちゃうのかなとか思ったんです。でも、どっかでやったときに予想外にウケたんで、「ああ、大丈夫だ」と思って、今はどこでもやってます。小学校の学校寄席でもやります。正直言ってやりすぎてると思います。
杉江 やりすぎ、ですか。

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■「花見の仇討ち」

【噺のあらすじ】
花見では町内の若い者が趣向をこしらえるのが毎年の慣例になっている。今年は巡礼に身をやつした兄弟が敵討ちをする芝居に決定。だが当日、とんでもないことが起きてしまう。

杉江 続いて、この回ネタおろしの「花見の仇討」です。僕は(金原亭)馬生(先代)のが好きなんですよね。
寸志 私も馬生師匠の好きです。50代入ってぐらいからの、ちょっとデフォルメが変化して、おもしろくなってくるあたりの馬生師匠の「花見の仇討」。単なるきれい事じゃなくなってくるというか、面白く崩れてくるというかね。あとは(柳家)小三治師匠のがすごいおもしろいと思う。あれがいいですね、耳の遠いおじさん。
杉江 耳が遠いせいで六十六部を止めちゃう。あんな短い出番なのに印象的で。
寸志 あれ、全篇映画だったらむちゃくちゃおいしい役どころですよね。クレジット的には絶対にトメの俳優がやる役ですよ。そうそう。ストーリー性もあるし、華やかだし。花見の賑やかさとか、チャンバラだとか、そういう派手さがある。いろいろ見所の多い噺ですね。
杉江 そうですよね。芝居がかりになるところもあるし、もう何でも入ってる。
寸志 非常に落語として魅力的です。ただ、僕の手には負えないところがまだあって、シーンも登場人物も多いから要素がありすぎて、「ザーッと全部、大皿に盛りましたよ」的になっちゃっている。ポイントがないんですよね、自分でやっててわかるんですけど。「ここをおいしく召し上がってください」というのがお客さんにわかんない感じがする。
杉江 なるほど。逆にさっきの「猫と金魚」みたいにポイント絞れてたほうが自分の噺にした感があるというか。
寸志 やってくうちにわかるんでしょうけど、「花見の仇討」はそれこそ花見の季節しかできないので。これが季節噺の陥穽ですよ。繰り返し稽古すりゃいいってもんでもないわけで。お客さんの前でやって初めてわかるっていうのもありますから。
杉江 でも年に1、2回しか噺の出番はないし。
寸志 しかもね、好きな噺だから。これが僕の一番悪いところなんですけど、どこも切りたくないんですよ。「猫と金魚」の虎さんみたいに明らかにおもしろくないと自分で思うところは切れますけど、「花見の仇討」はどこを取ってもおもしろいんですよ。そうなると切れない。
杉江 でも、たしかこれをやったときは、最初の首吊りの踊りのくだりはやらなかったんじゃないですか。
寸志 ああ。チャチャラチャラ、チャラ、チャチャラチャラ、チャラって。あそこはあまりくどくやりすぎてもなぁ、というのがあってハズしたんです。あと、時間軸ではこの会よりも後になるはずなんですが(立川)笑二兄さんのこのクダリがむちゃくちゃおもしろかったんですよ。それを聴いて、あ、もうここは笑二兄さんのが正解だから、ここ膨らませるのをやめよう、と思いました。
杉江 なるほど。もう、こだわらないと。他にいっぱい儲けどころはありますしね。耳の遠いおじさんとか、いい登場人物は多いし。
寸志 本当に多いんですよ。僕がやる中でも名前付いた登場人物が一番多いんじゃないですかね。小三治師匠のは、酔っ払った武士の近藤を諫めるもう一人の侍がいいんです。「待て、近藤。このようにごまかそうとするところが、かえって仔細のある様子」というね。後半はあの人の勘違いで話がどんどん進行するじゃないですか。「おう、紛う方なき巡礼兄弟。めでたく仇に巡り会うたな」「……あ、どーもぅ……」「おい、誰だよあれ!」って、あのあたりがむちゃくちゃおもしろい。
杉江 舞台映えもしますからね、その場面は。
寸志 そうそう。だから「花見の仇討」は長さや噺の規模の面からすれば「どこでもかけられる噺」という滑稽噺百席の基準からはちょっと外れるんですけど、滑稽の見本みたいな噺ですよね。
杉江 そうですね。寄席サイズではなくて、個人の独演会のトリ向きだとは思いますけど。寸志さんが真打に昇進したら春に独演会を企画しますから、そこでやってくださいよ。
寸志 (立川)ぜん馬師匠は節分過ぎたら「長屋の花見」おやりになりますから、2月上旬から4月半ばまで大丈夫です!
(つづく)

(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の二十九」は10月28日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催します。詳細はこちらから。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。コロナ対策の意味もあるので、できれば事前にご予約をいただけると幸いです。上記フェイスブックのメッセージか、sugiemckoy★gmail.com宛にご連絡くださいませ(★→@に)。

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 現在発売中の「週刊spa!」で寸志さんがインタビューを受けています。「70歳まで働くための転職」をテーマにした特集記事だそうです。

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