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『第5回:落語家はなんで歌舞伎を観るべきなのか、の巻(寸志滑稽噺百席其の三)』

寸志滑稽噺百席とは:珍しいネタを増やすのもいいが、立川寸志はどこでもできる、絶対にウケる、汎用性の高い滑稽噺を二ツ目のうちに増やすべきではないか。それが杉江松恋の提案でした。年6回、三席ずつを積み上げて真打になるまでに百席を積み上げる会がこうして始まったのですが。

杉江松恋(以下、杉江) さて、次は第3回。2017年6月30日の開催で、7、8、9席目は「だくだく」「犬の目」「青菜」でした。
立川寸志(以下、寸志) はい。

■「犬の目」

【噺のあらすじ】
眼病を患った男を手当するため、医者は眼球をいったん取りだす。だが日干ししていた眼球をなんと野良犬が食べてしまった。慌てず騒がず医者は犬の目を代わりに入れるという。

杉江 このときのネタおろしはなんですか。
寸志 「犬の目」です。これは、サイズ的にも内容的にも滑稽噺ですよね。寄席サイズだし。ただ、今のお客さんは「犬の目」って嫌いなんですよ。この日の感想にもあります、「嫌悪感が出るネタなので、もっとドタバタというかマンガ的というか、勢いで押し切ったほうがいいと思います」まで言ってくれている。やっぱり「犬の目をくり抜く」っていうのはかわいそうだし、後味もよくない。
杉江 だから、「キュー、スー、パー」みたいな擬音でマンガ的にやるんでしょうね。
寸志 僕自身はまあ落語のことなんで笑ってスルーしてもらえるだろうと思っていたんですけど、やっぱり現代にはフィットしないんじゃないかなあ、と。
杉江 じゃあなんでやったんですか。
寸志 それまでやったのは、どれも長いんですよ。「蒟蒻問答」にせよ、「長屋の花見」「素人浄瑠璃」にせよ。ここでもっとグッと短い、フルサイズで15分ぐらいのネタやんないとな、と思って、「犬の目」なんかはありかなと。私は「犬の目」だったら先代の(柳家)小せん師匠ですね。ああいう本当にマンガチックというかポンチ絵的なやり方が好きです。
杉江 寸志さんは「猫と金魚」もそうなんですけど、マンガっぽくマンガっぽくやるネタが割と多い気がします。これもそういう一つなのかなと。
寸志 そうですかね。「猫と金魚」は本当にもう「どこまでナンセンスなこと言えるか」みたいな部分があります。その中でできたオリジナルのギャグも、自分にフィットするようになって。あれは僕の中ではキラーコンテンツです。初めての会、地方巡業、打つ手に困った時、色々やってある程度の結果は残せます。「犬の目」はやっぱりどこか引っかかりがあるからそこまでいかない。いや、かなりマンガ的にはやったつもりですけどね。医者が「目くじら」「目をつぶる」「人の目を盗む」など「目」に関するジョークを連発し自分で高笑いしてゲッツポーズをとる。マンガと言うよりコントのような突飛な人物設定にしています。でもね、自分でも言い訳っぽく犬を救済してるんですよね。「目ぇくり抜いちゃってかわいそうだから、うちで大事に飼おう」みたいなことを先生に言わして。でも、それはそれで悲しい話だから。すごい悲しい話じゃないですか。
杉江 だからアンケートでも「犬はどうなっちゃうんでしょうか」という意見が出てくる。
寸志 一応救済はしたんですけどね。また、後半に行くと結局オシッコのポーズの話で終わっちゃう。やる側からすると、「これ『元犬』だしなあ」ってなるし。なんでやったんでしょうね。うーん、なんでそんな否定的な発言しか出てこないんだろう。
杉江 今はあんまりやってないんでしょう。
寸志 僕この一回しかやってないと思う。今、どんどんお客さんは、動物だとか、女性の遇し方だとか、従来の古典落語のままにやると「ん?」って思う度合いが高くなってきているでしょ。汚い話だとかグロい話、血が出てくるとかそういうのも、お客さん弱くなってる。笑えなくなっちゃうのね。
杉江 そういう趨勢があるかもしれないですね、最近は。落語家としては考えどころだ。

■「青菜」

【噺のあらすじ】
植木屋が旦那によばれ、鯉の洗いをご馳走になる。青菜を切らしているということを夫婦だけにわかる符丁で話す旦那に感心した植木屋は、帰宅してかみさんにそれを話すが。

杉江 この回は6月、初夏ということで「青菜」でした。「青菜」は毎年、誰が最初にやるか競争みたいになりますよね。僕は一度、前座さんの勉強会で聴いちゃって、「ええっ、今年初の『青菜』これか」って思ったことあります。これも季節ものと言えば季節ものですね。
寸志 これはみんなが共通して持ってる悩みですけど、「青菜」ってフリが長いんですよ。つまり、植木屋が旦那と話してる間がほぼウケないんですよね。壮大なフリがあって回収するのにすごい時間がかかるんですよ。前半をどう持ちこたえさせるか、というところがあるから、いきおい長くなる。
杉江 うん。
寸志 上方の「青菜」は趣きでそこを乗り越えていますよね。上方って旦那という人物を描くことをとても重要視してると思うんです。「百年目」だとかもそうですし、旦那をうまく描く、っていうことがとても価値のあることで、お客様も喜ぶ。歌舞伎の和事の伝統と一緒にしちゃ乱暴なんでしょうけれど、上品ではんなりして良いもの、そういう余裕のあるものをうまく描くと、「芸を見てるな」っていう感じがするんでしょうね。上方は特に。
杉江 うん。商家の町だということもあるでしょうね。
寸志 そういう良さは、江戸の若造ではちょっと出せない気がして。
杉江 旦那というか、大人(たいじん)感のある「青菜」の人というのは、江戸噺に出てくるあるじとはちょっと違う、ワンステージ上の感じがしますよね。
寸志 もうほぼ隠居に近い大旦那ぐらいの余裕感じゃないですか、この人って。他にあまりいないんですよね。でもなあ、この噺の季節感を表すところとか、そういうのがまだまだできないなあ。
杉江 結局、氷を食べるところとか、扇子であおいでいるところとか、涼やかな雰囲気をいかに出すか競争みたいになるわけじゃないですか。
寸志 僕ね、扇子の団扇、やらないですね。面倒くさいというか巧くできない。いずれにせよ、怒られますけど(笑)。あおがないでやっちゃってます。もう一つの難しさは、あれだけフリが長いと、あとで植木屋が旦那の真似をして間違える、いわゆるオウム返しのところの順番とかをけっこう間違えちゃう。
杉江 なるほど。そういうのがあるんですか。
寸志 自分でも焦るし、ウケなくなっちゃうんですよね。五代目(柳家)小さん師匠の「青菜」はめちゃくちゃおもしろいですけど、オウム返しで「ときに植木屋さん」「うるせえな、こね野郎」って、そこがたぶんピークなんですよ。きちんとトントンと、言葉の順番守ってやらないとウケない。難しい。「青菜」は。

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■「だくだく」

【噺のあらすじ】
男が絵師に頼み事をしにやって来る。引っ越したはいいが家財道具が何もないので、壁に一式書いてもらいたいというのだ。夜、男が寝ているところに眼の悪い泥棒が侵入してくる。

杉江 寸志さんの「だくだく」は僕も前座時代からなんべんも聴いています。
寸志 これはオリジナルのギャグも入れてるし、アクションも入れるし、サゲも変えてるから、得意ネタのつもりだったんですよ。滑稽噺としてもいいし、それこそ汎用性という意味では、どこでもウケると思ってた。
杉江 そうですね。どこでも掛けられるし。
寸志 大阪で桂咲之輔兄さんが呼んでくださったことがあって、ある会場で「だくだく」をどうだと言わんばかりにやったんですよ。で、お客様のアンケートで「退屈だった」って書かれた。
杉江 へえ。
寸志 「おもしろくなかった」とか「いまいちだった」ぐらいのはあるけど、「退屈」って言われたのは、初めてでしたね。「『だくだく』で退屈なのか」と思って。上方はどんな刺激的な町なんだよ、って思ったんですけど。それからね、しばらく高座に掛けられなかった。
杉江 ショックだったんだ。あんまりアンケートに「退屈」って書かれないですからね。
寸志 ……退屈、だったんでしょうねえ。
杉江 まあ、僕はこれ(滑稽噺百席の)アンケートに書かれたらちゃんと報告しますよ。「退屈って言ってましたよ」って。ちゃんと寸志さんに教えないといけないから。いや、今までそういうことはなかったですけどね。
寸志 この噺、サイズがちょっと長くなっちゃうんですよね。22分ぐらいになる。いつもの立川流の一門会、寄席形式の会でやれるというわけでもないんですよね。
杉江 なんでしょうね。やっぱり要素が多いのかな、いろいろと。
寸志 実は「だくだく」は、最初の「そりゃ困ったね」「ところが困らない」っていう、あの繰り返しあるじゃないですか。あそこが一番やりたい。それ終わっちゃうと、あとは興味が薄まる。
杉江 飽きっぽいですね!
寸志 また言ってるよ、この人。なんべんも高座に掛けることで、もうちょっと無駄が削れると思うんですけど、あんまり端折れなくなっちゃったなあ、というのがあってね。
杉江 この噺は、何もない部屋の空間把握というか、どこに何が描かれているかというのが完璧にわかりますよね。
寸志 自分で考え直したり確認したりしました。泥棒が下手から入ってきて、上手奥の箪笥の前へいく。物音に気づいた八っつぁんが布団の中で下手見て→中央見て→上手見て、という感じに目で泥棒を動かす。上手へ送るんです。
杉江 そうですね。
寸志 そう。泥棒が(下手から)、「うわあ、へっついの下ぁ燃えてる、おまんま炊いてる」みたいなことを言いながら入っていったら、寝床に入ってる八っつあんがこう(正面切って)見て、「入ってきた。何だこいつ、どうしたんだ」(上手に視線を流す)っていう風に、ワン・ツー・スリーでこっちに送ってあげないと。
杉江 ああ、下・中・上で送るんだ。
寸志 そう。これが最後の「槍」につながるんですよ。上手に泥棒を置いとかないと、左手が上・右手が下の槍の持ち方が巧く表現できない。下手に泥棒を置いちゃうと、槍を構えた形が様にならない。恰好悪い。「最後上手に向かって槍を構えるために、そういう風にはっきりとワン・ツー・スリーで送って見せるんだよ」っていうのを、誰か後輩にアドバイスしたなあ。教わるときももちろんきちっと教わりますけど、自分の中で納得いく人の動かしかたをしないと、おかしなことになるよっていう話をしましたね。
杉江 舞台で言ったら泥棒は下手から出てきて、だんだん上手に行くと。
寸志 そうそう。花道から下手に出てくる。中央に寝ている主人公の前を通って、上手まで来たから、長押に掛けてある槍を取って構えられるわけで。
杉江 そっか。舞台装置としてわかりますね。
寸志 自分が歌舞伎の舞台の上にいて、そこに花道があって、という発想だとよくわかる。歌舞伎のセットって決まりごとがあるじゃないですか。下手に花道があって、本舞台に入ると門とか生垣があって、玄関があって――って。自分が芝居の舞台に乗ってるつもりでいれば、花道のほうから人が来るに決まっている。奥に声かけるんだったら上手を向く。人が来て、客が下手から上手を見て、主が上手から下手を向いて話していてもいいけど、「どうぞ」って通して上手にある上座に座り直させたら、カミシモ反対で話を再開できるわけです。僕は社会人向けの落語教室とかでもそう教えますけど、舞台を心得ると必ずカミシモで迷わなくなる。
杉江 なるほど、おもしろいですね。
寸志 それがわかってないっていうか、頭に思い描かないで、「誰々は右向いて喋って、誰々は左向いてしゃべる」っていう発想だと必ず間違えちゃう。私もそうでした。
杉江 舞台を頭に浮かべろ、ってよく言われますけど、「だくだく」でその話になるというというのはちょっと意外でいいな。
寸志 「だくだく」はね、自分の中で人の動かしかたに納得がいった、最初の噺かもしれないですね。この噺は目に見えるように、「じゃあ、ここのところに描いてください」「ここのところはね、ああ上で」とか、「(脚立替わりに伏せて)じゃあ乗ってください」とか、空間を目で描かないといけない話だから、勉強にはなりますよ。これが基本になってるところはあるなあ。
杉江 理にかなってますわね。
寸志 「たがや」もそうなの、実は。「たがや」も最後、お殿様が槍を構えるじゃないですか。ああいう形にもっていくための噺の裏での人の動きがあるんだな、と。(神田)愛山先生に笹野名槍伝の「権三郎焼餅坂」を教わったときにも、色々コツをうかがいました。
杉江 なるほど。興味深い。
寸志 ただ、上方では退屈らしいです。
杉江 だいぶ引っかかりますね、そこに。
寸志 自分でこしらえて自分で気に入っているクスグリがあるんですよ。「じゃあ、床の間も描いてください。寂しいですからね、掛け軸掛けてくださいよ。書とかそういうのはわかんないから、絵を描いてください、絵を。そうだなあ……じゃあ、『最後の晩餐』でも」って。で、先生がサラサラサラと描いて「十二使徒を縦に並べてみたよ」っていう。そこはね、自分でもほめたいクスグリなんですけど。他の人も色々オリジナリティあるクスグリをぶち込みますよね。一番おもしろいのは(三遊亭)朝橘兄さん。ネタバレになるから言いませんけど、めちゃくちゃおもしろい。
杉江 自分のネタはバラシていいんですね。そういう意味では、「どういう風な絵を見せるか」っていうのは工夫のしがいがありますよね。もうお客さんもこれ、頭の中で浮かべてくれるわけだから。(つづく)

(写真:川口宗道。構成:杉江松恋。編集協力:加藤敦太)

※「寸志滑稽噺百席 其の二十八」は8月26日(木)午後8時より、地下鉄東西線神楽坂駅至近のレンタルスペース香音里にて開催予定です。詳細はこちらから。前回の模様は以下のYouTubeでダイジェストをご覧になれます。


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