見出し画像

性自認と性被害と二項対立

「男(ノンバイナリー)を名乗ったところで女の呪いからは逃れられません!」

 そういって性自認の概念を否定する人がいる。確かにそうだ。少なくとも本邦においては性自認はお気持ち表明としか捉えない、まともに取り合わない人も少なくない。ましてや「自分が治療してやる」と称して性加害に及ぶ人も多い。従って女の体に生まれた呪いは性自認でどうにかできるものではないという主張は至極真っ当である。
 結局性自認がどうであれ、女性に生まれた以上は警戒を怠ることは出来ない。完全埋没が出来ているかなんて主観的にはわからない以上これはSRSを経ても同様なのではなかろうか。
 「男女思春期にして席を同じうせず」は僕の持論で多々XやNoteで書いているが、これはロマンティックラブ・イデオロギーによる男女間交流に評判の低下というリスクが孕むので現実的にそうならざるを得ないという面に加えて性被害から女性を守るという側面も大きいのではないだろうか。女性同士の相互互助コミュニティを形成すると、どうしても男女でグループが分かれざるを得ない。どうやらサルにも不適切な雄を追い出すための同性コミュニティを形成する種族があるようだ。人間にもそれが備わっていてもおかしくはないだろう。
 そうであるならば、どういう属性であれ同性と仲良くなれなければ詰む。僕はそう思っている。故にラベリングとしてのセクシュアルマイノリティ概念が必要であることはまた別の機会に述べることにしよう。

 ただ、女性が誰であろうとも性被害に遭う可能性があるから性自認を否定すべきかというとそうではないと思っている。それとこれとは別ではないだろうか。そもそも性自認は「心の性」と「体の性」が違う、すなわち両者の存在は両立していることが前提であったはずである。性自認とは別に生得的性別に沿った性教育が必要なのであって、性自認の概念そのものを否定する必要性があるとは思えない。
 勿論当初の前提と違って「心の性」が「体の性」を否定する形になっているケースがあることに対しては警鐘を鳴らしていかなければならない。もう少し具体的に言えば、「性自認と性被害は別であって、性自認を根拠に防衛しなくていい、逆に防御されないとはならない」ことは口酸っぱく言っていかなければならない。そう考えれば、両者は両立するのではないだろうか。
 他者の持つ概念を否定することはある意味で他者の自由を侵害する行為であり、出来るだけそれは最低限かつ最終手段としなければならない。それが権利の存在する社会にいる人の在り方だ。とりあえずは両立できないかを確認することが大事なのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?