木築 輝希

司法試験/編入試験/仮面浪人 Ace/NB

木築 輝希

司法試験/編入試験/仮面浪人 Ace/NB

マガジン

  • 性別違和・Ace関係

  • 徒然

    日々思ったこと、感じたこと、考えたことを適当に無理なくまとめたもの

  • 編入試験/法科大学院/司法試験/資格系

最近の記事

Aceの二次元露出について

 TLで以前「Aceは気軽に描いていい分野ではない!」という意見が流れてきた.正確な出典は忘れてしまったものの、元オタクとして、Aceの当事者として、その言葉が妙に引っかかっていた.ただすぐに言語化出来るかと言われたそういうわけでもなかったので、とりあえず温めておいたのだ.なんとなく、まとまりつつあるかなと思ったので特に特別な日というわけではないが、出してみようと思う.  今回はAceの困難とか、わかってほしいとかそういうことは別に主題としていないので、ここでは割愛するし、そ

    • 今も昔も・・・

       太宰治の「男女同権」という小説をご存知だろうか。恐らく、普通に生きていて知れる代物ではないだろう。かくいう僕自身も「不良少年とキリスト」(坂口安吾)で初めて目にしたのだから。趣味で読み進めていた文学が、本業たる法と繋がる。そういうことが多々あるから法も文学も面白いのだが、それ以上に当時の文豪が“男女同権“を如何様に捉えていたのかに興味が湧いた。  手に取り読んでみた感想は「既視感」だった。Twitterで見たような人だなこの老詩人・・・それが第一印象だ。なるほど、いつの時

      • 社会変革と生活実態

         以前、どこまでが自衛でどこからが差別かという点を論じた(下記参照)。これは女性の自衛を念頭に書いたが、残念ながら個人の意思を尊重されることの方が少ない性的少数者にも同様のことが言える。自分を殺されずに、自分を殺さずに社会で生きるには自衛をせざるを得ない。なんとも嫌な世界だ。  僕は女性という性別に帰属意識を持ち得なかった人間で、世間的にはノンバイナリーに該当する人間である。でもだからと言って自衛しなくて良いかと言ったらそんなことはない。そんなもの世間様からしたらお気持ち表

        • 編入試験のその後の話

           先日法政での1年が終わった。とりあえず一年生き延びるというのはなんとか果たせたように思う。今年思っていた成果が出せたとは言えなかったし、予定外のことも起きたので、決して100点の生活を送れていたかというとそうではない。が、そんな生活だったとしてもここに記すことで少しでも誰かの役に立つかもしれないということで色々と書いてみようと思う。 1:はじめに まずは自己紹介をしなければならない。自分は2023年度法政大学法学部3年次編入試験に合格し、去年の4月から法政大学に通っている

        Aceの二次元露出について

        マガジン

        • 性別違和・Ace関係
          5本
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        記事

          差別と自衛の間で揺れる

           日本人は自己責任が大好きである。被害者に対し何かにつけてお前が悪いとすることで、制裁を与えることも、社会を変えることもしない正当性を探す。そんな社会では救済などされないから、被害に遭いやすい女性なんかは常に自衛を強いられる。そうしないと自分を守れない。  しかし、被害に遭わないための自衛とは、他者を加害性のある属性として一律的に括ることでもある。例えその他者に加害意思がなかったとしても、例えば男性、障害者、トランスジェンダー、外国人等々であるという理由で加害性を持ちうると

          差別と自衛の間で揺れる

          持たざる者は与えられぬ

          「人はされたことしか出来ない」 これは自論だ。人は今まで人に受けてきたものしか返せない。愛を受けた分だけ他者に愛を与えられるし、その逆もそう。 だから人に優しくしなければならない。あなたが誰かに優しくしなければ、あなたが誰かを尊重しなければ、その誰かは優しくすることも尊重することも出来ないかもしれない。その経験が積み重なった結果が無敵の人なのではないだろうか。その無敵の人の餌食になるのは、あなたの大切な人かもしれない。 これは生物学で言う間接互恵の1種だろう。間接互恵

          持たざる者は与えられぬ

          素人診断:発達障害

          女子が同性集団に馴染めないのは発達障害だ これは最近嫌というほど目にする話だ。恐らく僕自身がその言葉によって属性を否定される対象だからだろう。大体生得的女性の性的少数者に対して「あなたは女性なのです。」という意見表明をする際に用いられ、その後にはこう続く。 「あなたはFTMでもXでもなく、ただの発達障害の女性なのです。」 そして、男性社会に迎合しようとする生得的女性に対する嘲笑ないしペナルティとしても用いられる。その時には大抵こう続く。 「あなたとあなたが連んでいる男性の間に

          素人診断:発達障害

          罪悪感を抱けという圧力

           「マジョリティ諸君はこの作品を純粋に楽しんではいけません」というのが増えた。これは端的に言えば“少数者を消費していることを意識しなさい“と言うものである。それで純粋に楽しめるのであろうか。そんな風潮の中では作品に没入し、純粋に文化を享受する機会が失われる。作品に触れる度に“勉強“を強要される。それでは敷居が高くなり、手が出しにくくなる。その結果文化の享受が高尚なものになって返って知られなくなってしまう。それでは本末転倒ではないだろうか。これは持論なのだが、少数者を作品におい

          罪悪感を抱けという圧力

          神とは位かもしれない。日本ではね。

           小田原に“二宮報徳神社“という神社があることはご存知だろうか。小学校で誰もが目にしたことのある二宮尊徳を祀っている神社である。小田原城のほぼ境内にあり、結構広く見応えのある神社なので是非足を運んで見て欲しい。  それはそうと二宮尊徳は農民出身である。農民であっても功績を残せれば神様になれるというのは流石八百万の神々のいる国よ。そこが日本の面白いところである。ある意味日本の“神“とは社会が与える官位のようなものなのではないかと思わなくもない。このような実在の人間が神になると

          神とは位かもしれない。日本ではね。

          感覚

           昔から性別に関する感覚を有していなかった。自分が女性であるということは外から得た知識として知ってはいたが、実感や帰属意識がそこにあったわけではない。これは今でもそうである。気を抜いていると「え?自分が?女性?」という感覚に陥る。そしてあぁそっかそうだったと思うだけで済めばいいが、内心は「キメェぇぇぇ」とのたうちまわっている。内心だけだが。それでは困るだろう。普段はどうしているかというと、この感覚のなさを外から得た知識(理性とも言うのだろうか)によって抑えることで日々を過ごし

          引用反応集

          1:はじめに 今回は自分の投稿に対するいくつかの引用に対して反応していく記事です。本当は引用した上で反応した方が良いのかもしれませんが、数百文字という制限の中で前提の共有がされていない相手に対して語弊なく伝わるのかが疑問であったこと、引用をすることで攻撃的な内容をタイムラインに放出しかねないことを鑑みてこういった手段を取ることにいたしました。  勿論アカウント名、アイコンといった個人情報は隠させて頂きます。そしてこれは1番大事なのですが、仮に誰の投稿かわかったとしても誹謗中傷

          性自認と性被害と二項対立

          「男(ノンバイナリー)を名乗ったところで女の呪いからは逃れられません!」  そういって性自認の概念を否定する人がいる。確かにそうだ。少なくとも本邦においては性自認はお気持ち表明としか捉えない、まともに取り合わない人も少なくない。ましてや「自分が治療してやる」と称して性加害に及ぶ人も多い。従って女の体に生まれた呪いは性自認でどうにかできるものではないという主張は至極真っ当である。  結局性自認がどうであれ、女性に生まれた以上は警戒を怠ることは出来ない。完全埋没が出来ているかな

          性自認と性被害と二項対立

          年末大掃除って無理くね?

           世間では28日、29日が仕事納めという方が多いと存じます。1年間お疲れ様でした。僕はまだ学生なのでちょっとお先に冬休みをさせて頂いています。わーい。    さて年末と言えば大掃除というのが世の習いと申します。寺社仏閣、城跡がすすはらいをしたというニュースが出ればもう年末かと思うのが日本人というものかもしれません。知らんけど。  かくいう僕も母に「29日までにゴミを出せ」と申しつけられまして昨日までにおおかた小掃除程度はしたのですが、そもそも28日が仕事終わりで29日がゴミ

          年末大掃除って無理くね?

          聖なる夜にロマンティックラブ・イデオロギーを考える

          ロマンティックラブイデオロギー。恋愛至上主義の方が意味が通じやすいだろう。  人は適齢期になれば異性と恋愛をして、結婚することを前提として社会生活を送る。そこに疑問を抱く人はあまりいない。恋愛をすることは当然のような感覚なのだろう。故に恋人がいたことがない人は自分を恥じるし、アロマンティックと言う概念がある。両者は社会の前提の外にいるのである。特に今日、クリスマスはそれをいやと言うほど感じる日かもしれない。だからクリスマスまでに必死に恋人を作ろうと頑張る人もいるのだろう。自

          聖なる夜にロマンティックラブ・イデオロギーを考える

          手紙

           僕は多分同年代の中では古風な方でパートナーの誕生日と友人の慶事には必ず手紙を書く。今の所の慶事は卒業祝いと転職祝いなのだけなのだけれども。  子供の頃は手紙というものをあまり書かなかった。親に「ほら!お礼書きな!」と言われて便箋を渡されて渋々書くのが精一杯であった。これもまた年賀状と同じく必死に言葉を捻り出していたのだが、1番はそれを親に見せなければならなかったのでそこが一層苦痛であった。ダメ出しを喰らえばまた捻り出さなければならない。(今の時代どう切り取られるかわかった

          年賀状

           スマホの普及と気遣いの問題で年賀状文化は廃れつつある。 ビジネス慣行としてはまだ現存しているかもしれないが、個人の分となるともうかつてのように何十枚と年賀状を出す人はそこまでいないのではないだろうか。  かくいう僕も高校受験以降殆ど書かなくなっていた。一年書かなくなると本当に書かなくなるから習慣とは恐ろしいものだなと思わなくもない。  スマホが普及する前に小学生時代を過ごした僕は年賀状文化に触れた最後の方の世代だろう。でも余り良い思い出がない。親に書けと言われて、用意