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神とは位かもしれない。日本ではね。

 小田原に“二宮報徳神社“という神社があることはご存知だろうか。小学校で誰もが目にしたことのある二宮尊徳を祀っている神社である。小田原城のほぼ境内にあり、結構広く見応えのある神社なので是非足を運んで見て欲しい。

 それはそうと二宮尊徳は農民出身である。農民であっても功績を残せれば神様になれるというのは流石八百万の神々のいる国よ。そこが日本の面白いところである。ある意味日本の“神“とは社会が与える官位のようなものなのではないかと思わなくもない。このような実在の人間が神になるという例は他国の多神教であってもあまり見かけないような気がする。自分がそこに明るくないのが原因かもしれないが、人間にちょっかいをかけたり、人間と恋に落ちたりしても人間の側が神様になれる例というのは日本以外に聞いたことがない。そこには明確な壁がある。一応人間出身の天使はいるようだが。その違いは個人的に興味深いなと思うのである。
 二宮尊徳だけではない。供養のために、祟りを鎮めるために、様々な人が現在神として祀られている。平将門に至っては国家転覆未遂なのに今では神田明神にいらっしゃる。東郷平八郎、乃木希典も各々東郷神社、乃木神社に祀られている。最高裁昭和63年6月1日大法廷判決によれば、自衛隊で殉職した方は護国神社に合祀されるようなので、宗教が社会にさして影響を及ぼさなくなったであろう戦後でも人によっては神様になれる(?)今ではどうなっているのかは知らないが、事件の詳細と判決文を下に載せておく。


 ふと思ったのであるが、このような実在の人間を祀ることを許容した国家神道も不思議である。天皇中心の国家体制を樹立するために国家神道を確立したのであるから、皇統関係以外の神を全て神から降格するということもできたはずである。むしろ皇統以外の神は皇統の否定を惹起しうる存在としてけしからんとする方が安心ではないか。それは信教の自由に反すると思うかもしれないが、信教の自由を認めつつ“国家神道ではこのように考えている“とする選択もあった。しかし、それをしなかったのは神道勢力の反発を買うと思ったのかそれともそこを考えることがないくらいに八百万の神々がいることが国民にとって当たり前となっていたのか、とかく事情があったのだろう。その事情があったからこそ八百万の神という多様な神々の在り方を見ることができるのであるからそれは幸運なことだと思う。

 一時期「神っぽいな」という曲が流行ったが、日本人は何でもかんでも「神じゃん」と結構気軽に口にする。海外ではどうなのかはわからないが少なくとも唯一神前提の西洋社会では誰かに対して「神」という評価をつけることは異例かもしれない。「二宮尊徳神社」の御朱印を見てふと思い出したからここに書いておく。

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