見出し画像

想像力について。 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』との対話。

文字数:約3,270

いまは、こんな本を読んでいます。

美学を専門とする著者の伊藤亜紗さんが目の見えない人たちとの対話をもとに、人間の感覚について(視覚に限定してはいるものの)その一般論を考察し、わたしたちの当たり前を崩して、新しい視点を提案してくれるような本です。

この本のそでにはこう書かれています。

本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)

今年、2020年に私の母親はぼうこう癌にかかり障害者になりました。本来であれば、このような私的はことはNoteに書くべきではないのかもしれませんが、それでも私は記録したい、この私の感情の覚書を記しておきたいと思うのです。今後の家族の人生のためにも、私個人の生き方のためにも。

ぼうこう癌の恐ろしいところはその転移性にあると医師より報告を受けました。そのままにしておくことはリスクが高いため、一般的に患者の選択肢は二つあります。一つは抗がん剤治療を行い、がん細胞を抑え込むこと。もう一つは膀胱の全摘出です。私の母親は後者を選択しましたが、後に抗がん剤治療も必要となりました。

膀胱全摘を行えば、人口膀胱のストーマを身体に埋め込むことになります。自分の意思とは関係なく自然と尿が垂れ流されるため、ある一定のスパンでトイレに行く必要があります。今まで通りの普通の生活ができなくなったのです。

この本の最後の方でも指摘されていますが、2011年に改正障害者基本法が公布・施行されました。条文には障害者の定義としてこのように記されています。

第二条 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。

障害者が障害者たる所以は、個人にあるのではなく、その社会制度が原因である、と法律では定義づけがなされています。そもそもあらゆる社会制度は健常者を根拠に作られています。そうしなければ管理ができないからです。

腕があり足があり、目と耳と口があり、視覚と聴覚・嗅覚・味覚・触覚が正常に機能し、かつ知能が認められる状態。世の中の大部分を占める人間を前提として秩序と規則を制定することは非常に合理的であるとも言えます。

しかしながら、障害者を見かけたときの、私の感情はなんなのだろうか。いたたまれないような、かわいそうといったような、自分には足りているものが欠如している人に対する私のあの感情は、一体全体なんなのだろうか。

確かに弱き者を助けることが強き者の義務であることには間違いがないと私は思います。他の人がどのように思っているのかは知りませんが、私は昔からそうなのですが、障害者を見かけるたびに心が苦しくなります。

言葉では表現しづらいのですが、何かこうぽっかりと心に穴が開いたような、虚無感というかむなしさというか、そのようななんとも言えない感情に支配されてしまうのです。

でも、少し冷静になって考えてみると、なぜ障害者は弱き者であると私は決めつけることができるのでしょうか。一体、いつから私は強き者であると私が私自身に決めつけることができるのでしょうか。

この本の中で、印象的な会話があります。木下路徳(みちのり)さんという全盲の方と著者の伊藤亜紗さんとの対談なのですが、

「なるほど、そっちの見える世界の話も面白いねぇ!」。障害についての凝り固まった考え方を、これほどまでにほぐしてくれる言葉があるでしょうか。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)

私の母親は、私に以前と同じように接して欲しいと願っている、と私は感じます。変に気を使うこともなく、今までとなんら変わることなく、自然と生きていくこと。

従来、目が見えていても見えていなくても、人間の本質は変わらないのかもしれません。いや、たとえ知的障害者でその知能が認められないとしても、全ての人間は精神と理性を持っていて、だからこそ、それぞれが異なる感覚を備えていたとしても、お互いに尊厳を持てるのではないでしょうか。

16世紀フランスのルネサンス期を代表する哲学者のモンテーニュによれば、このような人間の感覚に関する議論には際限がないようです。たとえば感覚と精神の関係性であるとか、それらのどちらが優っていてどちらが劣っているかとか(プラトンとストア派の賢者によれば真理は理性に基づき、快楽派のエピクロスによれば全ての判断は感覚に置かれる、など)、そのような議論そのものを一蹴して、「私は何を知っているのだろうか」と人間のむなしさについて語っていました。

人間の感覚の不確かさ(それは健常者でも障害者でも変わらない)だとか、人間の理性のもろさ(もちろんこれも健常者でも障害者でも変わらない)だとか、これらは考えれば考えるほど、泥沼にはまってしまいます。

たとえば「空は青い」と健常者が言うとき、果たして本当に空が青色なのかどうかは疑問です。目が見えない人の世界では空は別の色に見えるかもしれないからですし、科学的にそれは青いのだと証明されていたとしても、それは大多数の人間の世界の話であって、たとえば動物の世界では赤色かもしれないし、実は全く別の世界が真理なのかもしれないのです。

少しSF的になってしまいましたが、モンテーニュの言葉を借りればこれらは立証不可能であり、ソクラテスの言うように(同時にモンテーニュ自身の考えでもあるようですが)、天に関する最も懸命な判断とは何も判断しないこと、なのかもしれません。

いま、私とわたしたちに必要なことは「当たり前」を取り払うことなのかもしれません。何かを断定し固執することは、傲慢と自惚れに支配されることを意味します。

かといって、すべてを懐疑的になり否定していては、人間の虚しさの中に埋没しかねない。人間の尊厳を否定することは私にはできるはずがありません。自分の感情を否定し肯定しながら、節度と中庸の中にとどまること。

こう考えていけば、世の中に優劣は存在せず、それらは本来は極めてフラットなのだと私は感じざるを得ません。ただ人間がいるだけ、ただそれだけのことなのかもしれません。

そうなると個人のやるべきことは非常にシンプルになってくると私は考えています。それは中庸の思想を保ち、極端に陥ることなく、法律と慣習に従い普通に暮らしていくこと。

改正障害者基本法の第一条には、その法律の目的がこう記されています。

第一条 この法律は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり、全ての国民が、障害の有無によつて分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため

とはいえ、心を落ち着かせて、そのように生活することは案外難しいことです。習慣と固定観念に惑わされることなく、他者の幸せの中に自分の幸せを見いだすこと。それは子供たちに特有な無邪気で素直な性質なのかもしれません。

サンテグジュペリの「星の王子様」は「いちばん大切なことは目に見えない」と言いました。大人になれば、小さな王子様が描いた像を飲み込んだへびの絵が、帽子にしか見えなくなるのかもしれません。

想像することは他者を考えることでもあります。他者への思いやりと尊重と感謝。それらの中に自分を見いだすことはできないものだろうか。なぜそれがこんなにも難しいのかといえば、それはちっぽけな自分の存在を否定することにほかならないから。そう私は感じるのです。

2020/11/09

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?