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どこに信念の拠り所を求めるのか二者択一の問題。『老子』との対話。

文字数 : 1,650

老子について調べていたら、「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言葉が出てきました。

儒家とは孔子を祖とする学派で、後の儒教です。また、孔子とその弟子との言行録が論語です。

老荘とは老子と荘子のことで、二人の哲人の思想をまとめて老荘思想と表現します。老荘思想は、後の道教を形成しました。

孔子は4つの徳目(仁・義・礼・智)に重きを置いて、政治と道徳を説きました。私なりに要約しますと、仁と義(思いやりに溢れ、欲望に囚われず善を求める人間)を最高の徳であるとし、感謝(礼)を忘れず、徳を達成するためには教養(智)がなければならないとする哲学です。

荘子は老子の弟子ですが、老子の哲学は神秘的です。老子は無為自然を説きます。これも私なりに要約すると、自然な生き方こそ真理であるとして、ありのままでいることが人間らしい生き方だと説く哲学です。自然こそ宇宙であると説く老子はいかにも神秘的なのです。

これらを踏まえますと「上り坂の儒家、下り坂の老荘」とは、概ね下記のような意味になります。

「上り坂の儒家」とは、自分の調子が良く、スムーズに事が運んでいる時には、自分を客観視して厳しく律し、道を踏み外さないように用心するように儒家の教えを守ること。

「下り坂の老荘」とは、何をやってもうまく行かず、落ち込んだり、人生が暗くなりそうな時には、なりゆきに任せ、自然体でいることを再認識できるように老荘の教えに身を委ねること。

各々の人生のフェーズや性格にあった思想を取り入れて生きる力にしていくことです。

よく言われるように人間は昔も今も本質は変わりません。人知によって世の中の仕組みや物質的な外面が変わろうが、人間根本は(今の所は)変わらないかと思います。孔子と老子、どちらも中国春秋時代、つまり約2000年前の思想ですが、彼らの哲学は今も生きています。

であれば、私は賢者の知恵を借りたいのです。生きることが楽しくなればいいのです。働くことが楽しくなればいいのです。

たとえば、現代日本を形作った(と私は思っていますが)渋沢栄一も信仰を持つことの大切さを説いていました。渋沢栄一は論語を強く慕い、数えきれないほどの偉業を達成しました。

また、自分の信念を途中で変えても、別に問題が無いとも私は思っています。もちろん右往左往と精神が不安定な状態は好ましくありませんが、ストア派もそう言うように精神が安定していて平静な状態であればいいのです。

たとえば、現代アメリカ思想の根底にある(と私は思っていますが)自己信頼を説いたラルフ・ウォルドー・エマソンは一貫性にこだわることを警告していました。つまり心の奥底から沸き起こる感情と過去の言動は無関係であり、今日という日を生きることが自由だと強く主張していたのです。

では、老子と孔子、今の私はどちらの思想を取り入れるのが正解なのでしょうか。もちろん正解など無いのですが、どちらがより信じられるのでしょうか。

そもそも、自分はどちらか?と考えるためには、その思想の歴史背景、文献、知識を知る必要があると思います。孔子と老子に関しては、中田敦彦のYoutubeチャンネルがわかりやすく、楽しく、ためになります。意識高い系の儒教とスローライフ系の老荘とは、言い得て妙だと感じています。

意識高い系を、目標達成のために常にモチベーションを高く保ち競争社会の中で邁進する人と定義すれば、スローライフ系は、熾烈な競争からは身を引き穏やかで落ち着いた生活を好む人と定義できます。

私ならどちらを選ぶかという問いに対しては、正直もやもやしています。問いの本質は何を信じるのかということですので、どちらでなくても、また両方でも構わないのです。

また、賢者が言うように、直感に従うことも有効かもしれません。

ちなみに老子はこのように言っています。

故に、善人は不善人の師にして、不善人は善人の資なり。

『老子』(中公文庫) 小川環樹 訳注

老子は、良いのか悪いのかは表と裏だと言っているのです。

2020/05/21


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