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TureDure 28 : 速い教育は好きくない

毎度のことですが、ぼくはインプロと呼ばれる即興演劇をしています。インプロでなくとも即興的なやりとりが普段から結構好きです。ここで「即興的な」という言葉で形容していることは、ぼくや相手(コミュニケーションしている対象)がその時に感じたこと、応答したことをリソースにしてコミュニケーションを続けていく、ということです。

ぼくの体感ですが、ぼくが高校生までくらいの時までは学校で即興的な機会はほぼなかった。授業計画が定まっている中で、「ぼくが今感じたこと」はエラーやノイズになってしまうから。でも上の意味で「即興的だった」と感じた授業はいくつもありますし、そのどれもぼくは好きでした。

よく覚えているのは「日本史A」です。ぼくは世界史選択のクラスだったので、「日本史A」は“センター試験で使わない“科目でした。だから出席している生徒のほとんどは“内職”に励むという時間でした。ぼくはそれがどうも嫌だったし、先生側もそうした生徒たちを前にして授業をするのも双方にとって有益ではないと判断し、ぼくは“内職“をしないことに決めました。ぼくは「日本史A」をどの授業より積極的に受けることにしました。先生の話を聞いて、疑問に思ったことや感じたことを先生にぶつけてみることにしたのです。

すると授業は毎回ぼくと先生の1対1のようになりました。そうしていた時間はぼくにとってとても楽しく実りあるものでした。授業の内容はほとんど覚えていませんが、ぼくの中にじんわりとした充実感があり、今でもその時間のことを覚えています。

「日本史A」の時間はなぜぼくにとって充実感があったのか、それは即興的だったからです、ではなぜ即興的な時間はぼくに充実感をもたらすのか。そのことを考える時に今回は速度という観点で捉えてみます。

話は変わりますが、日本に暮らす今のぼくたちは端的に働きすぎです。男性の1日あたりの労働時間は世界平均より2時間多いようですし、月平均で25時間も残業してるようです。ただ、ここでは単に時間の過多うんぬんを述べたいわけではありません。

イヴァン・イリッチという思想家は『コンヴィヴィアリティのための道具』という著作の中で時間について分析しています。あまり詳細に論を追っていくことはしませんが、産業主義社会はそのはじまりから、時間というものの価値換算が可能になります(今だと時給〇〇円とか1時間あたりの労働生産性〜とかですかね)。そして産業主義社会では「もっと多く」が「より良いこと」となりますので、時間あたりに行う作業が多ければ多いほど良いし「もっと速ければ」「より良い」となります。そのため「10分空いてるから10分だけ話そう」とか「5分だけ仮眠しよう」とかのように、時間に合わせて自分の行いを限定づけます。イリッチからすればこうした産業主義社会のロジックが、人間を代替可能物にまで置き換える過剰な発展に帰結するというのです。

さて何が言いたいのかといえば、こうなると人間はせかせかしちゃって、どんどん速くなっちゃう、これは大変だと思うのです。なぜなら慣性の法則のようなものが働いて、ゆっくりすることができなくなっていくし、そちらの方が耐え難いようになってしまうから。現在の社会はありとあらゆるものが速くなっていて、止めることが効かなくなってしまっている、しかし、速く動くものは摩耗も速い。取り込んだものを吸収する前に排出してしまうくらいには速い。こうなるとありゃりゃ大変だぁと思うのですね。そんな中で即興なんて困難を極めると思うのです。

ぼくはインプロの創始者のキース・ジョンストンというおじいちゃんが好きです。彼のワークショップに参加した時、「悪い教育は生徒を早く成功させようとする」と言っていたことをよく覚えています。おそらくイリッチの言う産業主義的ロジックは既に教育の中にもインストールされ切っていて(ちなみに『コンヴィヴィアリティのための道具』は1970年代の本です(!))、より早く覚えるものがより良い、より早く習得できるのがより良いという慣性が働いているのではないかと思います。

そうするとですよ、冒頭でお話ししたような「ぼくが今感じていること」に構っている暇はないとなりますよね。先生もぼくも。こうなると大変です。ぼくが感じたことは世界との接点です。この世界との接点とコミュニケーションして、意味を作り上げていくことが好きなぼくにとって、「より速く」とは世界との断絶を意味することになります。これはどこか商品化、あるいは有用化されているような感覚を覚えます。

ジョン・デューイという教育哲学者の伝記の中でこんな比喩が出てきます(そらで書いているのでこんな感じだったなぁというレベルです)。よくない教育ってのは、植物の種を植えて、ちゃんと育っているか心配になって何度も掘り返して確認しちゃうようなものだっていう話です。ぼくはこの表現がとても好きです。教育をするものにとって、教育の成果を求めるあまり、つい自然のスピードを追い越しちゃってかえって成長を阻害してしまう。その種が環境との相互作用を通じて生命を維持しようとするその時間を大切にできなくなってしまう。そうした“誤読“をぼくはしています。

さてさて、我田引水ではありますが、ぼくが即興(特にキース・ジョンストンですが)が好きなのはこうした「もっと早く学ぶことがより良い」という価値観ではなく、「自分が世界から受け取った感覚に従って学ぶ」という教育観へとぼくを開いてくれるからではないか、そう思うのであります。だから、日本人が学ぶためにはもっと暇になったほうがいい、そう主語を大きくして退散っ!

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