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Tire Dure 31 : パフォーマンスとジェンダー

私にとってフェミニズムとの出会いは他者の学問としてであった。
私に上野千鶴子氏の『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』を怒りと共に手渡してきた人がいた。その人にとって、私は本書を手に取り、読み、学んだ方がいい「ミソジニスト」(女性蔑視をする人)と判断できたのである。

その時にひどく戸惑った私はその本を受け取らず、その場で返却し、その後も読むことはなかった。私のフェミニズムとの出会いはこのように「あなたは変わった方がいい」というメッセージと共に明確な言葉ではないが、はっきりとそう感じられる形で訪れ、私の前に“仲良く出来なさそうな他者”として現れた。
それ以来、細かなことがきっかけとなってフェミニズムは私をつかんで離さなかった。というのも私の専門分野はインプロと呼ばれる即興演劇であり、そこには必然的に身体を伴うこと、人と人のあいだに起こるコミュニケーションに注意が向けられるからである。

芸術の中で先人たちが行ってきたパフォーマンスを参照すると20世紀後半以降は特に社会に蔓延する抑圧を身体的に告発してきた実践が多数存在する(というより多数参照される)。そのため、当然フェミニズムをはじめ、アイデンティティ・ポリティクスやあらゆる権力論とは無関係ではいられない。
こうして私は次第にフェミニズムのレンズで社会をのぞき込み始めた。そうしてあらゆる認知のスキマ、いや、それどころか真ん中にドスンと腰を下ろしていたからこそこれまで気づかなかった男性社会の暴力性を次第に認知し始めた。それは単に個別具体的なケースだけではなく、上野千鶴子氏が『家父長制と資本制』で記し、以後も盛んな議論を呼んでいるように個別具体的なケースと相似形をなす抑圧的な社会/経済構造へも批判的まなざしはおよぶ。
そうしている内に、そのまなざしは労をいとわずにすぐさま自分自身の暴力性へと向けられることになった。すなわち、これまでの自分の言動や、ふとした瞬間に言ってしまった/やってしまった言動がそうした社会構造の維持に加担していたことを見出すようになった。

この社会に生きる私は単なる傍観者であることはできず、抑圧構造の当事者というより積極的な担い手であった。こうして私は自分の中に、批判する者であることと批判される者であることを同時に抱えることになった。この矛盾をいかに生きるかが問題となる。
この矛盾に対して一つのアプローチを提示してくれた哲学者がジュディス・バトラーである。彼女が著作『ジェンダー・トラブル』において示したことは、私を惹きつけた。それは藤高和輝氏が的確に言い表しているように「私がバトラーの思想に魅かれたのは、まさにトラブルを生きるという確かな感触がそこにあるからである」。そして藤高はバトラーの思想実践を「共に取り乱しながら思考すること」と呼ぶ。この一連の思想によって私は「批判する者」なのか「批判される者」なのかという矛盾自体を引き受けることができた。
ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱―
もう一つ、私にとって重要なバトラーの主張は、「ジェンダー(ここには生物学的な性差も含まれる)とは“すること”である」というものだ。すなわち、ジェンダーを名詞(あるもの)ではなく動詞(すること)として、ひいてはパフォーマンスとして捉えるのである。
私たちは日々の日常的実践の中でジェンダーをパフォーマンスしている。それはもしかしたら「一人称に俺を使う」とか「ワックスを使ってビシッと髪を整える」とかかもしれない。そうした日々の私たちのパフォーマンスは能動的にする側面と、規範やルールや常識によって受動的にさせられている側面とがある。こうしたパフォーマンスを私たちは日常の中で再生産/反復し、現行の社会を安定化し、現状維持をし続けているというのが私のバトラー理解である。
これは裏を返せばパフォーマンスをズラすことでジェンダー規範を異なる形で生産することができるかもしれないという可能性を示唆する。

例えば、私の知り合いにはスカートスタイルではなくパンツスタイルで就職活動を徹底していた人がいる。彼女の選択はリクルートスーツで女性はスカートをはくべきだというジェンダー規範をズラすパンツスタイル・パフォーマンスの反復に協力したということである。こうした実践の反復によって旧来とは異なる規範やルールや常識が生まれていくため、一つの再/生産行為であると言える。
もちろん、バトラーにとってはそれにはなにがしかの戸惑いや取り乱しといったトラブルが生じるのであるが、誰かにとって暴力的な構造が安定的に維持されるよりはトラブルが生じているほうが健全な状態である(なによりも『ジェンダー・トラブル』という書籍そのものがトラブルの火つけ役となっている)。
ひるがえって、私の抱えた矛盾にとって、このバトラーのパフォーマンス概念は自分自身のアイデンティティの否定ではなく、パフォーマンスの変更という道筋を示してくれた。自分が無意識的に行っていた抑圧構造を維持するパフォーマンス(それの多くは社会規範によって行うように呼びかけられているものである)をしない、もしくは変えることが少しずつであるが既存の暴力装置に組み換えの時間を稼ぐことができるかもしれないのである。

しかし、ことはそこまで単純ではない。「Show Must Go On」(上演は途中でやめられない)とする力学は男性性のステージにおいても働くだろう。私は一会社員であり、男性学/男性性研究においては「ヘゲモニックな男性性」として多賀太氏や田中俊之氏が分類した「サラリーマン的男性性」を装備しうる立場である。一方で稼得役割を担う「サラリーマン的男性性」は現代ではすでにホワイトカラー労働者の中でも志向しない傾向が出てきており、そうした意味ではパフォーマンスが終演してきていると言えるかもしれない。
一方で、それは新たなジェンダー規範のボーダーラインが引き直され始めているとも言える(それはもしかしたらすでに「コミュ力の高さ」や「ファシリテーション・スキル」といった領域におよんでいるかもしれない)。私は「批判する者」そして「批判される者」として、片手で規範/自分を解体しながら、もう片方の手で規範/自分を、取り乱す誰かとともに作り直している。

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