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ある男とある猫の話

男には思想がなかった。いつとも知れないその日を待って、男は今日もただ煙を燻らせているだけであった。家庭はあった。家庭を持つことに関して男はなんの思想もなかった。こだわりもなかった。ただ明け方に鳴くカラスのように男には始末の悪い気持ちだけが残った。夕方になると男は酒を飲んだ。特に周りから注意されているわけでも、特に自分が特別好きなわけでもなかった。ただなんとなく飲んでいた。工場からの煙がただ男を癒した。そういうわけで、男はいつも一人だった。家族といても、男は一人だった、そんな心地だった。

夕方。男はいつものように酒を飲んでいた。事務所のベランダから真向かいの中高一貫校の学生たちが通り過ぎるのを眺めながら、ただ仕事をサボっているのが好きだった。男には思想がなかった。だから仕事ができた。自分が今目の前にしている仕事がなんのためになっているのかなどということで悩むほどの遠慮も男にはなかった。ただなんなとなく孤独だった。男は自分が一人にさせられていると感じていた。ただ、社会からなんとなく自分がなんとなくの理由でただなんとなく除け者にされている。鼻摘み者にさせられていると思った。男は鬱屈していた。鬱屈した心はただ言われのない怒りになって、時々、野良猫を蹴ったりしていた。男はその時は少し罪悪感を持った。

ある日、ある猫が喋った。猫曰く、「俺も元々お前のような心持ちをしていた」とのことだった。自分のことが嫌で嫌で仕方がなくなった時、猫は虫をいじめていた。誰かをいじめないでいることが難しいくらいには自分への不信感を募らせていた。なんでもないところでただなんでもなくいることが類まれな精神力を要するということに猫が気付いたのは少し前のことだった。お椀のような虚な隙間がこの社会にはたくさんぽっかり空いていて、覆水は盆にかえらず、私の手元に残るのはただそこにあるものだけであることに気づけないうちは猫も虫を食うばかりなんだそうだ。総じて、猫は自分の人生には後悔しかないこと、その後悔は取り返しがつかないこと、頭よく生きていたかったこと、他の猫の友達が欲しかったこと、今日、自分の近くにいてくれたものを傷つけないでいること、それが大切なのだということを男に言い残して、猫は夕方のうすらぼやけに飲まれていった。

男は猫が言っていることがわからなかった。分別がなかった。だがしかし、男は考えた、今、自分の手元になるものはなんだろうかと。今、男の手元には酒があった。男は猫が言うこともきっと一理あるのだろうと思い、いつもとはほんの少しだけちょびちょびと大切に酒を飲んでみることにした。

男が無為に過ごした時間は戻らない。夕焼けがそんな記憶も焦がしていく。

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