エッセイは生モノだから覚悟が必要で、だからこそ面白い!!①
ここ一年ほどエッセイ漫画を描いてきましたが、今回描いた漫画はエッセイを越えてほぼドキュメンタリーになりました。
上記は以前noteでも書きました「25年ぶりに初担当を尋ねた話」の続きです。奇跡的に訪れた初担当との再会シーンを前後編で描きました。
が、実際にはかなりハードな作業になりました。
理由は二つ。
①「ドラマのように皆の求めるわかりやすい感動スタイルにならなかったこと」
②「【リアル】を物語に落とし込むまで時間が短かったのでバイアスを完全にかけられなかった」
エッセイはどこまで「本当」でどこまで「作り物」か
私はエッセイと言えど漫画として描きたいので多少の「演出」=「作り物バイアス」をかけます。
この「作り物バイアス」は創作現場のプロは作家編集問わず皆持ってます。逆にこれがなければ「商品(仕事)」にはならないし、この意識があるから酷評受けてもスルーできるのです。
「人格」と「作品」を切り分けているのです。
そしてこのバイアスをかけるのに私の場合一番必要なのは「時間」。
どんなにつらい出来事も嬉しかった出来事も時間が経てばだいたいパッケージされる。
しかし今回のお話は本当に近々起きた事だったので、完全に消化できないまま作品に落とし込むことになりました。
それだけ急いだのは「野田さん」が人気者となり、皆さんがとても楽しみにしてることがわかったからです。
私自身なるべく皆さんと一緒にライブ感を楽しみたいと思ってました。
エッセイで他者を描く難しさ
しかしここで最大の難所にぶつかります。
「野田さん」という25年前の人物の「現在のリアルの登場」です。
野田さんはこの前の「呪われた漫画家がプロになる話」↓にも登場していたので私の中で既にキャラが構築されており、多くの読者も「これは25年ぶりに感動の再会物語になる!!」と期待してたと思います。
私自身そう思ってました。
しかし、そうはならなかった。
「世の中漫画のようにうまくはいかない」。
私はがっかりしたと同時に「読者さんの期待に応えられない、どうしよう」と焦りました。
しかし、これは私が思い上がっていただけです。
「私は生身の野田さんに物語として上手く動いてくれる事を求めていた」
野田さんには野田さんの事情がある。けっして「私の創作キャラ」ではない。25年の歳月を超えて色々やりとりを進めていくうちに、私はようやく「今の野田さん」をリアルに捉え直すことが出来ました。
しかし今、それを全部描くことはできない。
それは「他者の生の情報」だからです。
再会した時、野田さんは私がエッセイを描いている、と認識した上で色々話してくれました。その中には娯楽的ネタもあり「さすが元編集!」と懐の広さを感じました。と同時に私と言う人間(作家)を信じてくれてるんだな、と。
「描いても良いよ、でも描くなら貴女の責任で描きなさい。」
そう言うことだと受け止めました。
だったらきちんと時間をかけて、丁寧に描きたい。
それは今すぐには無理だ、しかし読者は待ってる。
ではどうすればいいのか??
他者を描く時には「自分から見たその人の印像」のみ描く
私がエッセイで他者を描く時には心掛けているのは
「その人について自分が感じたことのみ描く」と言うことです。
エッセイにその人の「真実の情報」など要りません。要るのは「リアリティ」です。そのリアリティは私の担保のみで成立させられます。
その人は実際には「強い人」かもしれません。しかし私がその人に対して「繊細な人だ」と感じたのなら、そう描く。
そこが作家それぞれの個性であり、視点であり。
その作家が描く意義だと思うから。
だから、今回は「今の段階で私が感じてる野田さんの繊細さ、優しさ」を表現しようと思いました。
それこそがこの漫画の大きなテーマになってくれる、と信じて。
「きれいなエンディングが今見えないなら、そのことを正直に描けばいい」
そして「わかりやすい感動物語」にならないのなら、それをありのままを描こうと判断しました。
今回のシリーズは「漫画」としては粗い作りになってると自分で感じてます。
でもその分「ヒリヒリするようなライブ感」がある。
漫画を描き始めた頃の「荒削りだけどパワーのあるファーストアルバム!」のような気持ちを思い出しました。
しんどかったけど、このような蒼い気持ちになれたのはとても嬉しかったです。
次回に続きます
今回は長いnoteになったので、次回、色んな意見を頂いたことについてなど書こうと思います。
また遊びに来ていただけると嬉しいです!
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