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【読書メモ】20歳の自分に受けさせたい文章講義

書くときに「思うように言語化できない」とか「筆が進まない」といった課題が解決できたら良いと思い、この本を読みました。

国語の授業では、その大半が”名作の品評会”に費やされる。
問題は、文章の書き方・組み立て方を体系的に教わってきたか、ということだ。
作文も読書感想文も"書き方指導"ではなく、形を変えた"生活指導"になっていたのである。

確かに国語の授業は作品の品評会でしたね。作者の主張を正しく読み取ることに重点を置くので書く技術はほとんど教わっていません。一方、塾で入試対策の小論文の勉強をしたことは書くのに少しは役立ってると思います。

"書く技術"を身に着けることは、そのまま"考える技術"を身に着けることにつながる
人は解を得るために書くのだし、解がわからないから書くのだ。

「書くことは考えること」「考えるために書きなさい」と著者は言います。頭の中でごちゃごちゃ考えていることを伝わる言葉に”翻訳”したものが文章であり、頭の中のごちゃごちゃをそのまま書こうとするから書けないとのこと。

文がおかしいのではなく、文と文の「つなげ方」や「展開の仕方」がおかしいとき、その主張は支離滅裂になり、リズムよく読めなくなるのだ。接続詞を意識するだけで文章は論理破綻しにくくなる。

"接続詞を省略したら文章のテンポが良くなる"という意見を別の本で読んだことがありますが、接続詞には、論理のつながりを明示する役割があるので安易に省略すると読む人が論理を追えなくなる可能性が出てくることに気づきました。

大切なのは"自分の意見"が完全に主観であり、感情だということだ。我々は"感情"を伝えたいからこそ、論理を使うのだ。
"主観"を語るからこそ客観を保つのだ。
”主張”が明確になることで文章全体が読みやすくなるのだ。

自分は、「読者が読みたいのは私の意見ではなく、客観的な情報じゃないのか」と思っていたので目から鱗。今後はもっと自分の主張をうまく出していきたいものです。

手あたり次第に本を読むべきか。とりあえずの答えは「イエス」である。ただしひとつ条件がある。それは「思いっきり好き嫌いにとらわれること」だ。
好き嫌いをはっきりさせることで”書き手としての自分”が見えてくるからだ。自分がどんな文章を書きたいと思っているのか、その傾向が明らかになるからだ。

好きな文章については、自分の本棚を見れば好きな本しか置いてないからその特徴を抽出すればわかりそうです。一方、嫌いな文章が何かを明らかにする部分はまだまだ弱いかなぁと思いました。スピリチュアルが好みじゃないのは明らかですがね。

「何を書かないか」を基準に考える。物事を"引き算"で考える作業は最終的に「自分にとって大切なものは何か」「自分はどういう人間で、どんな価値観を持って生きてきたか」を考えることにつながっていくからだ。
文章を書く上においても「なぜここにこの一文が入るのか」、あるいは「なぜここにこの一文が入らないのか」をしっかりと説明できる自分であらねばならない。

推敲、編集するうえで「何を書かないか」を決めるというのはよく見かけます。しかしそれが自分のアイデンティティや価値観を考えることにつながるとは思っていなかったので新鮮でした。

・最後に

私は「思うように言語化できない」という課題がありました。しかし思うように言語化できないのは普通のこと、話すことと書くことは別物で、頭の中にあるごちゃごちゃした考えを”翻訳”する作業が必要だと理解しました。書くことで考えがまとまるので、すぐに書こうとするよりも「書きながら考える」、「書くことで考える」ということを少し意識してみようと思います。

「筆が進まない」という課題については、私は客観的な情報を文章でまとめることが大事だと思っていたので、「この文章は客観的かなぁ」とか、「自分の主張が入っていないかなぁ」ということに注意を払っていた部分があります。そのため「自分の主張(主観)」に客観的な事実や論理を組み合わせてわかりやすい記事を書けるよう心掛けるのが今後の目標になると感じました。


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