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夕張岳と夕張メロン

山登りをしていると、こんな冗談みたいな体験をすることもある。


ある週末、私は国道274号線から国道452号線へと車を走らせていた。

電子時計は午前5時を表示している。

天気は霧雨。

コンビニで買った菓子パンを頬張りながら、あまり視界の利かない薄暗い道を行く。

いくつかの小さな標識を頼りに、14キロの林道の果てにたどり着いた目的地。

そこが標高1,668mの「花の名山」、夕張岳である。


夕張岳は、北海道の中央部を南北に延びる夕張山地の南端にそびえる山で、夕張市と南富良野町にまたがり、北側の芦別岳と共に「富良野芦別道立自然公園」に指定されている。

「花の名山」と呼ばれる所以は、この山独自の固有種ユウバリソウなどの他に、北海道の山岳地帯にあるほぼ全ての高山植物が見られるとされ、田中澄江により花の百名山、及び新・花の百名山に選定されていることによる。

初夏から夏にかけての花のシーズンには全国から多くの登山者が訪れる人気の山である。


そんな人気の山にも関わらず、天気が悪いためか駐車場は閑散としていた。

正直人の多い山は苦手なので、「ラッキー」とつぶやきながら、そそくさと準備をして登りにかかった。

今回やって来た西側からのアプローチとなる登山道には「冷水コース」と「馬の背コース」とがある。

私は、登りに「冷水」下りに「馬の背」と決めた。

薄暗くこんもりと茂った木々の中に吸い込まれると、青々とした緑の匂いが五感を刺激する。

「自然に還る」という言葉は大げさかもしれないが、こうして深い緑に囲まれていると、自分は高度な文明と社会性を持った人間でありつつも、やはり本質は動物なのだ、と実感させられる。

嗅覚とは、非常に動物的な感覚なのだ。

登り始めからしばらくして、傾斜がきつくなる。

植林され均等に並ぶアカエゾマツを横目に、時に直登、時につづら折りとなった斜面をグイグイ登っていく。

途中、水場となる「冷水ノ沢」を越え、「馬の背」と合流する前岳の西尾根へと出る。

本来ならここで視界は開けるはずなのだが、尾根上はガスがかかり展望はゼロ。

霧雨だったので、最初から展望は期待していなかったが、何にも見えないとがっかりする。

しかし、夕張岳の魅力はここから。

体力的に消耗する登りはここまでで、前岳をトラバースするようにもう少しだけ進むと、やがて本峰が霧の先遠くにその姿を現した。


登山道は「前岳湿原」に出ると木道が多くなり、景色は一変。

広い湿原と花々を楽しみながらのんびりと歩くのは、気分爽快である。

固有種ユウバリソウや、ユキバヒゴタイ、ナンブイヌナズナなどの群落が見られ、さすが花の名山だと感心させられる。


頂上直下の窪地に出たときだった。祠の陰から、

「こんにちは」
「一人?若いねぇ」

と声をかけてくれた2人のおばさん。

この山行で初めて会った人間だ。

熟練した山ノボラーなのだろう。

小さいながらもがっちりとした茶色い手足がたくましかった。

頂上はすぐだから、ここで休んでいきなさいと言われるがまま、腰を下ろすと、おもむろに手渡されたあるもの。

それは、まぎれもなく「メロン」だった。

「このメロン、夕張メロンなの。美味しいわよ、食べなさい」

おいおい、夕張岳で夕張メロンって・・・。

満面の笑みで、食べなさいと無言で訴えかけてくるおばさんたち。


普通ならば、嬉しい頂き物であるが、私にとっては究極の拷問だった。

なぜなら、私はウリ科のアレルギー持ちだから。


3時間以上、ほぼノンストップで登り続け、ようやくたどり着いた頂上手前で、前代未聞の難所が待ち構えていた。

アイガー北壁か、グランドジョラス・ウォーカー側稜か、いやいやマッターホルン北壁か、これらヨーロッパ三大北壁が霞むほどの破壊力を持った壁。

「The 夕張メロン north face」。

頂上前の超難所をどうやって切り抜けるか、まさに絶体絶命のピンチだった。

今更「ウリ科アレルギーなので・・・」などと言える空気ではなく、私が嬉しそうに頬張る姿を、今か今かと心待ちにしているおばさまたちを目の前に、私が見つけた唯一のトラヴァースルートがこちら。

「せっかく頂いたので、頂上で食べたいと思います(満面の笑みで)」

これが限界だった。

少し残念そうな彼女たちを横目に、片手に果肉が零れ落ちそうなメロンを持ち、そそくさとその場を立ち去った。

片手からは、常にウリ科特有の青臭い毒香が漂ってくる。

胃の内容物が、駆けあがってくる。

もはや、お花畑などは目に入って来ず、どうやってこのメロンを処理するかで頭は一杯だった。

でも、夕張岳でもらった夕張メロンを無碍にするわけにもいかず、結局頂上まで持っていく羽目になった。

頂上にたどり着きメロンを置いたが、相変わらず手からはメロン臭がしていた。

嘔吐を抑えるため、持ってきた500mlのペットボトルを一気に飲み干す。

これが、また大間違いだった。

大体、この日に限って私は水分をこのペットボトル1本しか持ってきていなかった。

そんな杜撰な私に対して、山の神様が怒ったのだろう。

そこからの下山は、苦行のようであった。

蒸し暑さが増した登山道を、行き場を失った夕張メロンを片手に降りる。

喉はカラカラだが、手元に残る唯一の水分は自分の天敵。

先ほど一気に飲み干した自分を激しく恨んだ。

おばさんたちと出くわすとマズイので、メロンはビニール袋に収め、ザックに突っ込んだ。

「最初からこうすれば良かったじゃん」

再び自分に腹立ちつつ、喉の渇きと戦いながらひたすら降りる。

途中、人の良さそうなおじさんと合流し、そこから2人で麓を目指した。

おじさん曰く、麓の山荘にある湧き水がとんでもない美味さだということで、その話を聞いてからは、全神経を湧き水に集中させ降りた。

「水、水、水、みずーーーっ」

心の叫びである。

人間を形成する6割が水分であるという話を思い出した。

今、体内から何%ぐらい水分が失われているのだろうか。

海の水は飲めないから、海で漂流した人たちもさぞかし苦しかっただろうなぁ、などと水が飲みたくても飲めない状況下にある人々の妄想までし始める。

脱水症状ギリギリの状態であった。

辺りが薄暗くなり始めた頃、なんとか麓にたどり着いた。


そこには念願の光景が広がっていた。

山荘の外に設置された蛇口から光輝く湧き水が溢れている。

人目を憚らず蛇口に顔面を突っ込んだ。

ひんやりとした命の源が喉元を過ぎ、全身に巡る感覚は忘れもしない。

この夕張岳で私は、改めて登山における水の大切さを知った。

そしてザックに残る瓜科独特の残臭から、山で出会う人たちの優しさを感じたのだった。

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