見出し画像

そば

2020_04_09

“誰のものでもないところに自分のものを置いて、自分のものを自分のものと言わない”
これはtomitoへの真鶴出版でのインタビューで富永さんが言っていたこと。
さらっと実は言語化できていなかったことを言ってくる人だなあ。

すごく共感した。割と僕の今までの生き方のスタンスとしていたことを言い当ててくれたような感動があった。
YGSAやシェアハウスをしている中で、基本的に共用の場所に置いてあるものと同等のものはどんどん出していた。
別に誰に使われてもいいし、最大公約数で置かれているものよりも確実により良いものを提供できていると思っていた。(調理器具とか)
自分の部屋だってスタンスとしては開放だったしね。

でもその行いは、他人から見たら個人のコモンへの侵食だと捉えられないだろうかと怯えながらでもあった。(マーキングのような)
全てのものに所有者がいるというのは資本主義を前提とした考え方だ。
全てのものは共有資産だというのは共産主義の考え方だ。極端に言ってしまえば。
そのどちらもが違和感や限界とともに現状最善としてまたはノスタルジックに現在を漂っている。

“誰のものでもないところに自分のものを置いて、自分のものを自分のものと言わない”
この言葉にはそのどちらでもない状態を感じた。
何だろう、仏教的な状態、と言える、かも、しれない。

何だろう、前提としてまず個を捨てている。個を世界に投げ出しているような感じがある。
圧倒的な個の開放、所有の放棄。
その時にでも完全にコントロールを渡せないものとして肉体が残る。

そして生き続けるには肉体を維持しなければならない。
その時に木になっているリンゴを食べた。
このリンゴは僕のものか。
木になっているいくつものリンゴの中から僕はそれを偶然選んだのか、
リンゴの運命として僕に選ばれるのが決まっていたのか、
何か運命論的な話になってしまうが、戯曲だったらそのリンゴが選ばれるのは必然だ。
銃が出てきたらその銃の引き金は引かれなければならないように。
例えばスーパーで食材を選ぶ時、僕は何かを基準に選ぶ。大きさや色や形で。
または僕の身長や視力、嗅覚なんかも関係しているかもしれない。
それは必然と呼べるかもしれない。だから、歴史的にそのリンゴは僕のものとしてそこにあったのだ。
なんかこれに近い概念の話聞いたことあるな、思い出せないけど。思い出したい。

一瞬話は変わるけど、スーパーで何か食材を選んだ時、
それは僕の今までの経験というバイアス(コンテクスト)によってそれを選んでいる。
カップラーメンを手前から取っていくのとは違うのだ。
そこには超ローカルの差異がある。

“誰のものでもないところに自分のものを置いて、自分のものを自分のものと言わない”
つまり、何だろう、
意識的に所有を放棄しているものと、無意識に所有が決定づけられているものがある。

いや、自分のものと言わない≠所有の放棄、か。
あ、占有の放棄かな。

なんか問いで終わりたい。
資本主義でもなく共産主義でもない、ものの集まりかた、(街における)はなんだろう。


まあ、今日はいいや
30分と決めてやると集中できていいし、時間としてもちょうどよかった。
今のところ日記の三日坊主率は100%だけど、一月くらい続いたらなんかご褒美買おう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?