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だっぴ

2020_04_12

演劇を2本、
ゆうめい「俺」テレバージョン
範宙遊泳「生まれてないからまだ死ねない2019」
両方とも面白かったが、今日は特に範宙遊泳を。

2015時は原発というコンテクストをよく言われていたが、今、このコロナが大流行して社会が混乱している中で見るこの作品は、コンテクストの感度・が何倍にもなっていて、リアリティというか、入り込んでしまう度合いがとても強かった。そして相当動揺してしまった。ああ、わかる。と。

何がわかる、のかというと、市民は皆真面目に、必死だということ。誰にも悪意も悪気もない。日常では悪意を集中させるゴキブリでさえ、劇中ではとても中立にいる。そのゴキブリの中立さも一つのシワなのだが、そんなシワが寄り集まって行って、いつか壊れてしまう。何度か発せられた「どうしてこうなったの」という言葉が強く心を締め付ける。

そもそもなんでシワが大量発生したかといえば、星の超爆発、そこからの大豪雨によって、⑴つのアパートに住んでいた4つの部屋の住人たちが避難によって出会ってしまったからだ。「私たちこんなに近くにいたのにね」など、それは新たな幸福を発生させながら、死んでいく。

物語はこれだけでも成り立つが、劇中には25年前の妊娠したある夫婦が時折時系列を前後させながら出てくる。2011年の25年前というのはチェルノブイリの年、歴史は繰り返すことの隠喩だと勝手に解釈している。

しかしこの夫婦の存在が一番大事なのは1番最後のシーンだろう。皆が死に、赤ちゃんも死産、絶望の空気が流れる。その後とってつけたようにその後二人の子供を授かって、その後つつがなく夫婦2人とも亡くなる、命を繋ぎながら、と。最後に救いで終わりたかったのかな、と思いつつ、その未来では生き物たちは死に絶えている。いや、絶望じゃん、と。この救いと絶望が入り混じった状態、喜劇であり、悲劇でもある状態で終わらせたかったのかなと思った。

その後、そのことを考えていたらふと終わった後について思いが至った。
絶望と救いが共存した状態で終わったけど、どっちかというとやっぱ絶望だ、、、
でもふと思うと全生物がこれからすぐの未来で死ぬなんてことはないな。コロナで全人類が死ぬわけでもないし。
そうすると最後のセリフ「それから、あなた、、は、今生まれる」という言葉は、劇にのめり込んで感情が揺さぶられている状態から、フッと現実世界に戻ってきた今の状態をいうのでは、と思った。そうすると、最後のセリフ後、照明の変化等もなくすぐに他の役者が動き出して、ころっと劇が終わってしまってアレっと現実世界に戻ってきた感覚があったのは、劇中の状態と今の日本社会を重ねて憂えたりしてどっぷり劇と同化してた状態からスッと離されたことによって。そうゆう現実そのものも自分から乖離した状態となったような気がした。
何か自分の今いる位置を感じたような、そうゆう、観客に新たに生まれ定点を与える、そうゆう演劇だった。

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