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タバコ



いい加減やめよう。


もう数えて25回目にもなる禁煙の誓い。
18の頃カッコつけて吸い始めてから、じつに20年近くの月日が流れていた。
最初は女の子にモテたいとか連れに尊敬されたいとかそんな軽い理由で吸い出したものが、いつしか手から離れなくなって久しい。

今度の誓いこそ本物だ、俺はタバコをやめて健康で豊かな生活を送るんだ…

ポケットに入れていたマルボロの箱をまるで最愛の女との別れの如くじっ…と眺めてからコンビニのゴミ箱に投げ捨てる。そうだ。俺は変わるのだ。
決意を心に固めた時特有の、澄んだ気持ちで日曜、昼下がりのコンビニを出る。公園にでも行ってのんびり空でも眺めよう。


昨今は空前の嫌煙ブームである。
まず飲食店での喫煙席撤去から始まり、コンビニの前からも、道路の脇からも喫煙所のブースなんて一気に消えて、まだあそこは潰されてないよな、なんてソワソワしながら索煙行脚の毎日だ。

ようやく喫煙所を見つけて、ホッとしながら火を点ける瞬間。無神経な俺でもわかる、通行人の視線のその鋭さ。流石の俺も心が抉られる。
街を行く若人も中年も子供から老人まで、揃いも揃ってまるで浮浪者に向けるそれと全く同等の目で、俺たちが収納されている小さなブースを見やる。
いや、実際見やりもしない。
有害物質を吐き出すこの世の有害物質である我々を、ほんの少したりとも視線に入れるものかととんでもなく嫌な顔をして思い切り顔を背けるのである。
昨日のオバハンは酷いもんだった、ゴミ捨て場の生ゴミよろしく俺たちにチラリと目をやると、何故そんなものを常備しているのかトイレ用消臭スプレーをこれ見よがしにそこたら中に巻き散らかして、満足そうにドスドスと歩いていった。
くそばばぁ、追いかけてって思いっきり顔に煙吹きかけたろか。


ほとんど毎日こんな仕打ちを受けているのだからとっととやめてしまえばいいものの、ズルズルと喫煙歴は長くなっていく一方だった。

巷では何とか屋内で吸えるようにと電子タバコなるものが喫煙家の間を席巻し、彼らはみな「ほらほら!全然嫌な臭いじゃないよ!」なんて一生懸命周りに訴えかけているのだが、吸わない奴らにとっては変わりなく臭いに決まっている。そんな事は俺でもわかる。

電子タバコを買ってまでしがみつく事は無かったものの、ふと気付けば咥えたタバコに火を点けてふうっと息をついてしまっている。大抵の場合火を点けてから気付くのだ、禁煙してたな、なんて大事な事は。


タバコを捨てたコンビニで代わりにと缶コーヒーを買って、ふらふらと公園へ歩く。
タバコを持たずに公園に行くなんてそれこそ20年ぶりくらいなんじゃないか?

「ストレス軽減の為」

「酒を飲んだ時にも平静を保つ為」

「日常生活でふぅとひと息意識して深呼吸をするのに最適だ」

この手のタバコがやめられない理由、俺から言わせてもらえれば本当に小賢しい戯言だ。
目的のベンチに座ってプルタブを持ち上げながら苦笑する。
タバコで実際にストレスを軽減出来ている奴など見たこともないし、ただ酒と一緒に楽しみたいだけだし、最後に至ってはいったいなんだそれは。深呼吸したいならそこらで勝手にやれ。煙を伴う深呼吸なぞ聞いたこともない。肺に謝れ。
結局のところ、どんなに高尚な理由を並べ立てようが、とどのつまり俺たちはニコチン中毒者でしかないのだ。アル中が酒を飲まないと手の震えが逆に止まらないように、俺たちも吸わないとそわそわしていかんのだ。いかん「かった」のだ。危ない危ない。

子供の笑い声が甲高く響く公園に、日曜の午後がゆったりと流れていく。ブラックコーヒーが喉越し良く喉を通り抜けていく。
そうか、タバコを吸わないってだけで、こんなにも世界と扱いは変わるのか…。

普段俺をゴミを見る目で見ている世間様も、今日ばかりはベンチに座っている俺を見咎める事はない。
砂場で遊ぶ子供たちも、あまり遠くない距離でそれを見守りながら井戸端会議に熱心な奥様たちも、誰一人嫌な目を俺に向けなかった。

なんだか。少し良い気分だ。

気分が良くなった俺は何故タバコをやめられなかったのかを真剣に考えてみる事にした。
20年間。いったい幾らかかったやら。考えただけで気が遠くなる。それでも。かかったお金と汚れきった肺の為にも。俺にはこの問題の根源を解き明かす必要があると思った。

そもそも俺に関して言えば別に美味いから吸っていたわけでもない。正直なところ8割方クセで吸っていただけである、わかっている。では何故クセになるまでやめられなかったのか。

タバコを吸っている間だけは、何となく全ての毒気が抜けて、素の自分になれるような気がしていた…。などと言ってみようか。
考えてみて少し照れる。
素の自分、なんてありのまま、と同じくらい普段は小馬鹿にしている言葉なのだけど。

こうして考えてみると不思議なものだ。
別に美味くもなんともない。金がかかる。健康に悪い。嫌われる。なんならこのコーヒーの方がよほど美味いよ。それでも…

コーヒーを側に置いて腕組みしながら目を閉じる。考えろ。もっと深く。もっと根源的な、大元の根っこを。

もしかすると、とふと思う。
もしかすると俺は、タバコを吸う行為そのものではなく、その「時間」が愛しかったのかもしれない。1本吸うのにたったの5分。しかしこの5分間は何か…形容するのが難しい、何か本当に俺にとって…

なんだ。俺にとってこの5分は。

俺にとってのこの5分間は…自分を奮い立たせる為の、本当に大切な5分間だったのかもしれない。

人は弱い。色々なしがらみの中、常に心に葛藤を抱え、それでも踏ん張って世の中に立ち向かわなければならない。人は1人では生きてはいけないが、1人で踏ん張る必要がある場面は絶対にある。
そこで不安になる自分の側に、いつも寄り添っていてくれたのは、もしかするとタバコだったのかもしれない。
大きな仕事の直前。好きな女の子に告白する直前。5分間のその自分と向き合う「時間」こそが、タバコが俺にくれたものだったのかもしれないな…。

自分が出した結論は、思いがけず何だか感慨深くなるものだった。

そうか、タバコの弊害はそりゃあるけどそれでもタバコは俺に安心をくれてたんだな…。
…だったら。

口に持っていきかけたコーヒーが止まる。

だったら…。気付いてしまったから。
何を言われようが、どんな仕打ちを受けようが、本当に吸えなくなるその日まで、俺はタバコを吸っていたい。
たったの5分間だけど、俺にとっては換えの効かない5分間。
俺が俺としてきちんと自分と世間に向き合う為の5分。俺には。

口元で止まっていた缶を一気にグイと傾け、立ち上がる。
コーヒーの苦味が喉に心地よかった。
ふと砂場に目をやると、幼稚園児くらいの年頃の子供達がキャッキャと遊んでいる。トンネルを作り、川を流して。やったやった、その遊び。

子供達よ、俺たちおっさんの仕事は君達に素敵な未来を渡してやる事だ。
でも今の世の中はちょっと複雑で、君らが大人になった頃、どんな未来が待ち受けているのか。俺にはわからない。それでも俺たちが歯を食い縛って、何とか頑張って世の中を良くしていくから。君達のために。未来のために。
だから俺は、今からタバコを買いに行く。かけがえのない5分の為、世間と向き合って世の中を変える為。

そんな事を考えながら、井戸端会議を中断してこちらを訝しむ奥様たちに会釈して意気揚々とコンビニへ戻る俺の足取りは、軽い。
堂々としていればいいのだ、俺は俺の為、そして君らの為にタバコを吸うのだ。
何を卑屈になる必要がある、背筋を伸ばして前を見ろ、俺!


25回目の禁煙記録は35分。


まぁ数字で見ればワーストに近い数字だが俺の心は晴れやかだった。そうだ。俺にはタバコが必要なんだ。
自分自身が立ち上がる為、誰かの為に世間の為に。

「すみません」

コンビニに入った俺は真っ直ぐにレジへと急ぎ、店員さんに声をかける。もう直ぐだ。

「赤マル1つ」

「570円です」

「えっ」

「今月からまた上がったんですよ」

「あー…なるほど…」


26回目の禁煙は近い。

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