見出し画像

働くってなんだろう

私は20です。さらに言えば、大学生です。働くってなんだろう。そもそも仕事ってなんだろう。バイトしかしたことのない私にとって、それは未知の領域です。一方で、死ぬまでには経験しないといけない、大人の姿でもあります。

私は過去に労働に関する悟りとして、「バイトしたくなくてたどり着いた結論』にて、noteを書いています。まずは、そこで書いたことから、お話させていただきます。私が、その記事を書いたのは、大学に入学したての頃でした。周囲の大学の友人はバイトを始め、地元の友達は立派にいち会社員として働いている、そんな現実を見た時でした。

この調子で行けば、いつまでも社会に出ていけない。というか、すでに自分だけ、置いていかれている。そう感じました。そして、初めて、求人広告掲載アプリというものをインストールして、いろいろ見てみるわけです。しかし、掲載されている広告をみると、どれもこれも胡散臭い物ばかり。決して企業広告を馬鹿にしているわけではありませんが、ブラックバイトなんて話もよく聞きますし、バイトはしっかりしたところを選ばないとと、尖っていた私はそう感じました。

迷った挙句、インターネットで、「ブラックバイト」「バイトするべき」なんて項目で検索しました。そうすると、死ぬほど記事が出てきました。人々が気になる人気コンテンツであるので、でたらめな記事も多いですが、とりあえずたくさんの記事が書いてありました。

学生のバイトに関する賛否は驚くほど二つに分かれていましたが、結局私は「バイトなんてするな」という方の意見に納得して、その時の結論としては、「バイトで得られるものはほぼない」そう考えて、バイトは始めませんでした。

多くの人々にとって、今、働くことは生きることに等しいのではないかと思います。しかし、これまで私が話してきたようなことは、働かなくても生きていける人が、初めて働こうとする時に感じたことです。もちろん、私という特別な場合で、普遍的なこととは限りません。

さて、その時の私の感情を少し奥まで覗いてみることにしましょう。私が、バイトをはじめようとおもったのは何故だったでしょうか。私はここに働くってなんだろうの一つ目のアンサーがあるように思います。私は、周りと比べて、自分の地位を固め、自分が生きていることを肯定するために働くことに対して駆り出されました。

私は働くことは、社会の構成員として認められることであると感じていたようです。

実際、働いている人々の中にも社会貢献をしたい(認められるために)、人助けをしたい(感謝してもらうために)そういうモチベーションで働いている人は少なからずいるのではないでしょうか。働くということは、自己承認欲求を満たすための活動の一つとして、とらえることができるでしょう。

さて、このような考えの人々がいることは、周りをみわたしていただければ、または自分を見つめ直していただいたら理解いただけるのではないでしょうか。一方で、そのような方々の真反対にいる人と出会ったことがあります。

眼科医の服部匡志先生をご紹介しましょう。ベトナムや日本で神の手を持つ男として、何度もテレビに取り上げられています。医療もままならない、ベトナムで医学を現地に伝えながら、多くの人の目に光を取り戻しておられます。さらに驚くことに、現地での治療を無償で行っていらっしゃいます。

高校の講演会だったでしょうか、その時はじめて人のために働く方がいることを知りました。高校生といえば、身近な大人は親か教師です。そして、親や教師は、我々子供のために汗を流しています。もちろん生徒である私たちは、自分自身に向けられた情熱に関心を寄せることなどありません。

一方で、服部先生のベトナムの人のため…という、全く新しい方向の情熱を聞いた時、私は、文字通り「ハッ」としました。

そういう人がいるんだ。医者ってかっこいい。。

素直にそう思いました。教室に戻って、「俺医者目指そうかな」なんて冗談まじりに、照れ臭さを隠しながら、宣言していると、「太蔵も医者目指すの?さっきの話聞いて、僕も医者になろうとおもって、今から先生に進路変更の相談してこようと思うけど、一緒に行く?」なんて言われた記憶があります。(結局彼は医学の道に進みました)

おそらく同じことを感じた生徒はもっといたでしょう。たった、数時間の講演で、人の人生を変えてしまうほどの人物でした。さて、テーマを働くことに戻すことにしましょう。先生は働いていたのでしょうか?大抵、働くと対価として、何かを得ます。その何かは、働いた人が必要とするものでないといけません。先生は、報酬(お金のこと)をもらっていません。むしろ、移動費や、機材代でマイナスのはずです。

おそらく、講演会の中で『何故その生き方をするのか』そんな話も出てきたはずですが、残念なことに私にはその話の記憶がありません。本当に情けない。

先生は何故、人のためにしかも海外の言語も違う国の人々のために働いたのでしょうか。

もちろん、最初にあげた生の肯定、承認欲求を満たすためかもしれませんが、そのような理由とは異なるようにも思います。先生にとっては、人が救われること自体が、報酬だったのではないかと私は感じます。

働くことと、報酬を得ることをセットにして考えると、その報酬に私の考えでは思いもよらぬものを選ぶ人がいるかもしれないということです。お金、時間、名誉、自由…など、ある意味では、自分本位、もしくは自分の見えている世界本位な報酬ではない報酬のために人生をかけるひとがいるということです。

先生の生き方を知ることは、働くことに新たな意味や価値を見出すことになるでしょう。うまく書けませんでしたが、読んでいるあなたが、先生の生き方を聞いて感じたことが、働くことへの2つ目のアンサーです。

こんなに長く一つのテーマについて書いたのは、ずいぶん久しぶりです。ですが、もう少し続けましょう。次は、私の高校時代の友人の話をしましょう。彼はとっても頭が良かった。きっと、いい大学に行って、高収入の職について、私なんかより、ずっとずっといい生活をするんだと思っていました。

ある時彼に尋ねたことがあります。

「将来は何になるの?」

彼は答えてくれました。「地元で給料もらって、生きていく。」

「頭いいのに…?」つい聞いてしまいました。

それでも彼はいいました。「働かないのが一番いいじゃん。」

これが3つ目のアンサーです。

できれば働くなんてことはしたくない。生きるために、お金を稼ぐという意味での働くことが必要なだけである。

私にはそう聞こえました。極論ではありますが、彼は彼の生き方を持っていました。

これまで3つのアンサーを私の経験から述べてきましたが、それぞれ働くことへの意味づけは異なるようです。

私は将来、理系の研究者になりたいと思っています。それは、功績を残して認められたい気持ちや、純粋に世界をより便利にしていきたい気持ちもあります。さらにいえば、私が今大学で学ばせてもらっている以上、世界に何かしらの還元をしなければならないという責任感もあります。

高校入学前の’給料主義’の仕事観から、高校、大学進学を経てずいぶんとましな仕事観を手にしたと思っています。

働くことに対するモチベーションは世代や社会的立場によって大きく異なることはその通りです。私が述べた3つのアンサーも全く異なります。だからこそ、常に自らに問うていくし、こうやって議題に上がるわけです。私も、これから、社会に出て、社会にもまれ、結婚して、子供が生まれて、身近な人の死を経験して‥様々な転機に、

「何やってるんだろう」

そう悩むと思います。今から考えても容易に予想がつきます。

しかし、その頃に私が働くことをどんなふうに捉えているか、全く見当もつきません。考えてもむだです。

ただ、今の20の私にとって、

働くことは、数年後の楽しみです。

最後まで読んでくださってありがとうございます。皆様の明日が少しでも明るくなれば幸いです。

サポートよろしくお願いいたします。あなたのサポートが世界を変えることは明確です。なぜなら、私は世界を変える人物だから。変革の時代に、変革を起こすものだから。