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ミャンマーと民主主義

2021年も12月もう終わりますね.

今年も一年中ウイルスに振り回されましたが,世界はウイルスだけでなく様々なリスクを抱えて生きています.2021年の夏休み...東南アジアの政治をきっかけにクーデターとは何か,民主主義とは何かを考えた時期がありました.

ふとパソコンのメモ帳を見ると,それら民主主義に関する夏の読書感想文が残っていました.当時は満足のいく文章が書けていなかったので,そのままにしていました.ですが,改めて読んでみて,これ以上続きを書くこともないと思ったので,ここに供養させてください...

結局生きてるのは今(2021/9/10)

最近はミャンマー政治に興味があって、ハマって自分なりに色々考えたので、吐き出させてください。

ミャンマーの現状は、今もなおアウンサンスーチーを含む数名が、軍によって軟禁され、ミャンマーの国家権力は軍が掌握しています。これは、憲法で決められていて、軍は諸外国の目も特にきにするようすはないので、制裁の効果が出るまでは時間がかかりそうです。

軍によるクーデターや軟禁は今回が初めてではありません。1948年のミャンマーが独立して以降、幾度となく繰り返されてきました。

現在の状況は民主主義とは呼べません。前回の選挙で勝利したのは、スーチーが代表を勤めるNLD側であり、スーチーは国家顧問と呼ばれる、元首の立場にいたのです。歴史的な経緯から、ミャンマーの憲法では、軍が主権を握られるように、うまく設計されていました。それは民主主義的な国家でないときにです。スーチーに言わせれば、ミャンマー的な民主主義の時代の出来事です。

現在日本では、議会が存在し、国民が間接的に国家元首を決定できます。さらに世論により、内閣を監視し、選挙によって議会と、裁判所を監視します。いわゆる国民主権です。

民主主義が起こる起源は、古代ギリシアにあります。それまで、小さな社会を形成していた人間が、続々と集まり集団を形成するようになり、集団をコントロールする必要性に迫られました。よって、代表を決め、代表が統治するということがはじまったのです。ところが、民主主義を語る、独裁が始まると、時代は絶対王政や封建的な政治が始まるのです。その後、個人主義や自由主義と民主主義が結びつき、現在は多くの国で、自由民主主義と呼ばれる体制が取られるようになりました。

では、民主主義とはどのようにして果たされるのでしょうか?これは非常に議論の余地のある問題で、多くの考えが主張されてきました。それぞれの民主主義があり、それぞれの集団の形があります。もちろん民主主義自体も、ネガティブなポイントを持ち、それを根拠に、民主主義が絶対正しいと言い切ることはできません。

ここでは、アウンサンスーチーの言葉を借りて、民主主義を考えたいと思います。スーチーは、民主主義には、良き指導者と良き支持者が必要だと言いました。そして、ミャンマーにおいて、その民主化運動の中で遊説を行い、その民主主義を広めようとしました。それは、単に政権を奪取するためではなく、尊厳のあるミャンマーの国民として、国家を形成できるように、「民主主義の精神」を伝えようとしていると感じます。伊野憲治先生が著書の中で書かれておられますが、「精神革命」(*1)という意味があると思われます。

さて、ここから私の考えですが、良き指導者と良き支持者による適切な監視体制こそが民主主義であると思います。直接なのか、間接なのか、立憲なのか、議会なのか、監視の仕方やコンプライアンスの作り方はさまざまな方法が試されるべきですが、適切な監視体制が必要なのでしょう。

もう一度ミャンマーの現状に戻ります。2021/8/19日付でAAPP のホームページでは、クーデターに関して殺された人々は1007人、逮捕された合計は7355人、勾留されているのは5747人です。(*2)

クーデターが起きた2月当初から、日本のテレビで放送される僅かな映像資料を見ても、デモを行う人々や、軍に抵抗を続ける人々が虐げられているのはわかりました。このような公な暴力は許されてしまうのでしょうか?

「いや、これは看過できない」なんていうつぶやいていますか?では、もっと身近な例を挙げれば、街頭で環境問題、人権問題、、、など声をあげている人々にも同様の目を向けてあげられるでしょうか。

私は、いままでこのような交差点での演説活動をうるさいなーと思っていました。どうせ、たった一冊やそこらのビジネス本に影響を受けて、ひまつぶしにでもやってるんだろうなと思っていました。そんな小さな声で本気で世界が変えられると思っているのか。そんなに世界を、国を変えたいなら勉強して権力を握ればいいじゃないかそう思ってきました。

この意見は一部正しいと、今でも思っています。一方で、国民が社会を監視するということは、浅はかな知識しか持っていなかったとしても、意見を主張することであるかもしれないと思いました。

もちろん過激な活動は現代では許されませんが、正当な手順を踏んで(その法整備がそもそも必要だが)主張することを、蔑ろにはできないなと思いました。たとえ荒唐無稽なことを言っていても、主張は受け入れ、議論すべきであるのです。(正当な根拠に基づいてなされた議論を受け入れない人間は、相手にはしませんが)


とここまで書いて、考えがまとまらなくなりました。京大で声をあげている人らのやっているままごとが、邪魔なものだとは思わなくなりました。主張はよくわからないが、行動としては、ウザがられるようなものではないのだろうと考えを改めました。一方で、意識の高い人々と同じような思考回路になってしまったのが少し、嫌な感じもします。その小さな声をあげる必要はあるのか、少しは正当な手順を踏めば良いのにと思う自分もいます。やはり、僕も平和ボケをしているのか、現実主義なのかわかりませんが、僕が世界が変えるだなんて思っていません。同様に変わって欲しいとも思いません。今まで通り、誰かがやってくれるのを見てるくらいで、十分な気がします。そう考えると、こう言った思想、宗教、政治、哲学は難しいなと思います。そんなことより、理系の科学や工学の方が、スッキリして面白いなと思います。結局生きているのは今なので、今がよければ良いのかな。結局生きているのは自分の人生なので、自分に関係する人だけが幸せになればいいのかなとか思ったりして。確かに正しくありたいけど、全員分の幸せは考えなくて良いかなと思ったりして。正しく生きた先に、全ての人の幸せがあるなら、それが一番良い道です。

(*1)ミャンマー民主化運動: 学生たちの苦悩、アウンサンスーチーの理想、民のこころ ,伊野憲治

読んでいただいてありがとうございました.


**書いた人**
光苔太蔵:京都大学生3年目。ライブハウスと居酒屋とブックオフをこよなく愛する。人生で一番楽しい時間は、ライブハウス行って居酒屋行って、余韻に浸る瞬間。二番目はブックオフでビビッとくる本を見つけた瞬間。帰りはいつもスタバでコーヒーを買います。休日は物理と哲学と学生が主人公の小説。

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