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の上で、出町座で四回見た。同じ映画を上映中に二回見るのだってまれなのに、四回見た、見たんです。なんかもう「好き」とか通り越して「あたりまえ」だった。出町座で、好きなときに、ふらっと下北沢に遊びに行けるのが。あの愛しい空気にふれて、あの街で呼吸できるのが。


好きすぎて語れないということ、見た人としか共有できないんじゃないかってもどかしいこと、諸々の理由で文章にできなかった。己の心の内はいとも簡単に言葉にできるのに、この映画に関してはできない、というかしてしまいたくなかった。酔っ払っているときにこれほどまで筆が乗らないことがこれまであったでしょうか。いつも何も考えてないわたしが、言葉を選ぶことに右往左往している。


好きだなーと思うんです、色味、におい、空気、言葉、表情、場所、空白、もどかしさ、ひとり、ひとり。こんなご時世に映画を見てるみんなで笑い合うこと、その非日常な日常が愛しかった。今後DVDが発売されるのかもしれないけど、家で好きに見られるようになるのかもしれないけど、やっぱりさみしくて喉の奥がきゅっとなります。わたしにとっての街ってここ京都の街で、街の人ってここ京都の人たちです。この映画はだれかと見たいなあ。親しい友人、はじめて顔を合わせた人、もう会うことのないすれ違うだけの人。公開最終日が辛くてこんなに引きずってしまうの、これがはじめてです。



この映画はハッピーエンドではないと思う。よくある「これからも二人は幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」では絶対ない。最後の(笑)にかき消されそうになるけど、ちょっとした引っかかりがずっと残ってしまう。イハや田辺さんや風俗嬢に惹かれる青はきっといるし、これからも雪は事あるごとに間宮さんのことを考えるし、ふたりはきっとまた喧嘩をしたり間違えたりするのだろうし。はたからはハッピーエンドとして見えてしまう物語にも必ずしこりがあって、みんなそれを見ないように遠ざけて生きている。


これはきっと彼ら彼女らの一部始終ではなくて、ただのその瞬間の切り取りにしか過ぎないのだと思う。でも嘘なんかじゃ決してなくて、その瞬間の紛れもない「本当」で、儚くて脆くて一瞬で、幸せってそれだから愛おしい。それ「以前」があるし、それ「以降」がある。わたしたちの日常ってそういうふうに流れてゆくもので、別ルートとして青をはじめとする下北沢の街の人たちがいるのだと思う。決して100%正しくも綺麗でもない一人一人が、どうしようもなくリアルで、きらきらしていて、羨ましい。


ずっと違和感がつきまとう。これで良いのかなあ、こうした方が良いんじゃないかなあ。たいていの人の頭の中に常につきまとっているであろう漠然とした不安や恐怖、これらに蓋をしてなんでもない顔で生きてゆく。今目の前に伸びる道を正しいと信じて、過去と無理やりこじつけて、不安で霞む未来に目をつむって、生きてゆく。誰もが思い通りにならないもどかしさを抱えている、孤独に押しつぶされる夜がある、「自分の外の人」であるから見えづらいそれらをスクリーン越しに浮き彫りにしている。見覚えのある感情と他人だからわからない部分。それらが純度100%で映し出されていて、紛れもなく自分だってこの街の人だと安心する。


「エンドロールに名前がなかった」


なかったけど、きっと目を凝らせばあったはずで、なくたって付け加えていいはずで、それを確かめにわたしは出町座に通ったのだろうと思う。もっとふわりと生きていたいよなあ、でもきっとたいていの人が「なんか違う」って首をひねりながら生きてる。その集合体が「街」で、時に泣いたりぶつかったり知らん人の言葉に救われたりしながらふらふら生をしている。わたしは人が好きだし、いろんな人でつくられる街が好きだなあと思う。わたし以外の人間がいるから人生って楽しいしつまんないし逃げ出したいし美しいのだと思う。



街ってすごいんだよ変わっていくからすごいんだよ、変わっていくのにそこにあるんだから。変わらない人間なんていない、変わらない風景なんてない。すくったと思えばすり抜けていく今だから、きっとわたしが死んでも続いてゆく未来だから、こんなにも愛おしいよ。街がそんな「わたし」の集合体である限り、すべて変わってゆくしなにも変わらないのだと思う。


「街の上で」が好きだーーー。まとめたらこんだけのことなんだけど、いちいち記しておかないと怖い。いつか忘れてしまったら?でもこの愛しさがやがて風化してしまったとして、今このわたしがいることは紛れもなく「本当」です。遠い未来、ふんわりと断片的に思い返せる淡い記憶として、この温度や空気が浮かんでこればいい。今このわたしで「街の上で」に出会えてよかったと心から思う。


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