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心のサボテンに水をやる、的ななにか。

お気付きの方ももしかしたらいるかもしれないけれど、先週から僕は平日毎日noteを更新しています。そのことを会った人に話すと、「すごいねぇ」と言われるのだけど、本人としては無理をしている感じもなく、毎日猫に餌をやったり花に水をあげたりするのと同じくらいの感覚で文章を書いているのです。こんなふうに書くと、なんだかかっこつけてる感じがしてムズムズするけれど。

どの本だったかは忘れてしまったのですが、村上春樹さんが「文章を書くことが苦痛だったことは一度もない」と書いていました。その感覚は僕にもわかるところがあります(僕の場合、自分の内側から湧き出てくるものを文章というかたちに落とし込む場合は、という留保つきですが。インタビューなどの文章はくるしい)。

ちょっと前に散歩をしながら、「もし自分に5億円くらいお金があって、もうお金を稼ぐために仕事をする必要がない、となったらなにをするか」という思考実験をしてみたことがあります。そうなったときに、僕は働くのか。結論としては、イエス。通勤も営業もエクセルでの仕事もしないだろうけれど、文章を書くということは誰に頼まれるでもなくやり続けるだろうな、と思いました。

僕たちの心がひとつのサボテンのようなものだとして、そのサボテンに水をやるような営みが誰にでもあるのではないかと思います。ある人にとっては走ることだったり、ある人にとっては友達とお酒を飲むことだったり、またある人にとっては本を読むことだったり。それが僕にとっては書くことだった、ということなのです。

どうしたらnoteを書きつづけることができるか、ということを聞かれることがありますが、僕の答えは「文章を書くのが好きだから」となってしまい、あまり参考にならないかも。たしかにnoteを書くこともとても素敵なことなのですが、それよりも、「自分にとって、心のサボテンに水をやる営みはなにか」を知って、それをちゃんとすることが大切な気がします。

そのことに気づくのって意外とむずかしいし、気づいても忙しさにかまけてその営みを放棄してしまったりする。そうすると、心のサボテンは枯れてしまいます。(僕も、サボテンは水をやらなくても枯れないだろう、と思って枯らしてしまった思い出があるんです。あれは少し凹んだな)

ただし水のやりすぎもよくない。僕も楽しさがあまって、このnoteを書くのに時間をかけすぎてしまいました。サボテンを愛ですぎると棘が刺さる、というわけで、なににつけてもほどほどに、がいいみたいです。


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