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しんしんと、言葉が降り積もっている。

窓の外ではしんしんと雪が降り積もっている。

東京に10年近く住んでいるけれど、ここで目にする雪はコンクリートに舞い降りた瞬間にしゅっと水に変わるか、積もってもすぐにべちゃべちゃになってしまうものが多い気がして、こんなふうに「しんしんと降り積もる」なんていう言葉を使えるのは、なんていうか嬉しい。なので、今のうちにたくさん使っておきたい。しんしん。



偶然かもしれないけれど、今日は「言葉が降り積もる」ということについて考えていた。

「言葉が降り積もる」とは、ちょうど読み進めていた『まとまらない言葉を生きる』のなかで、荒井裕樹さんが書いていた表現だ。

現代社会ではSNSの普及もあって、現実社会やマスコミが発信する情報だけでなく、ネット上も含めて膨大な数の言葉が飛び交い、それらは蓄積され、今を生きる僕らの生に影響を与えている--

といった意味合いで、本の中では使われていたように思う。
(たとえば「自己責任」という言葉があちこちで使われる社会は、荒井さんもいうように、けっこう生きづらいと僕は感じる)

社会に降り積もる言葉が人を生きやすくもし、生きづらくもするというのは本当にそうだと思うし、個人単位で見ても、「言葉って降り積もるよなぁ」と最近実感してるのだ。

たとえば、はじめましての人から、「山中さんの文章、実はnoteで読んでて、共感してたんですよ」なんて言われることがある。書いた本人は、その文章のことを忘れていて、そうやって言われてから「そういえばそんなことを書いていたっけ」なんて思い出すのだけど。

TwitterやFacebookで書く文章は、そのプラットフォームの特性からして、言葉が流れていってしまう。けれどnoteをはじめ、ブログ用のプラットフォームはアーカイブ性が高いから、言葉が降り積もりやすい。そのときそのときで書いた言葉が、しんしんと降り積もって、自分でも忘れた頃に誰かが気づいてくれるのだ。

webで記事をつくる仕事をしていると、たくさんシェアされたとしてもその記事が読まれるのはせいぜい1週間程度。だから、1年前や2年前に書いたnoteに気づいて、共感してもらえるのは、降り積もった言葉のあつみを実感することができてうれしい。


そして願わくば、その降り積もった言葉が誰かを生きづらくするものではなく、生きた心地がすることにすこしでも役立つものとして社会に降り積もるものであったら、なおうれしいなぁと、しんしんと降り積もる雪を眺めながら思うのです。




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