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祈るように言葉をつむぐ。

共感より、共鳴、といいたくなるような瞬間がある。

たとえば、何人かで焚き火をかこみながら、だれかがぽつりと語りだす。
誰にもいうことができず、ひとり抱えてきた悩みだったり、将来これをやりたいんだ、という胸に秘めた想いだったり。

すると、また別のだれかも、ぽつりぽつりと語り出す。
あの時間に起きていることは、共感より共鳴としかいえない気がするのだ。


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今読んでいる『河合隼雄の幸福論』のなかで、「共鳴するたましい」という言葉に出合い、共感、いや、共鳴してしまうような気持ちで読みすすめた。

そこでは教育学者・佐藤学さんのエピソードとして、学校に馴染めず、高校を中退しようとしていたとき、ある音楽教師が聴かせてくれたバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番「シャコンヌ」に衝撃を受け、脈絡もなく「ゆくゆくは教育の仕事に携わりたい」と決意したこと、

そして25年後、その教師が退官するというので手紙を送ると、実は当時その教師自身が音楽を教育することの意味を見失いかけ、祈るような気持ちで生徒と音楽を共有する道を模索していたと明かされた、ということが紹介されている。

佐藤さんの著書『学び その死と再生』からの孫引きになるけれど、その経験をふりかえって佐藤さんは、

「象徴的経験は祈りを共有する人と人との出会いに置いて準備される」

とかたっている。

むずかしい言葉だけれど、つまりはこういうことだと思う。

自らが抱えた傷から癒されるために、ある経験を誰かと共有してほしいと、祈りを込めて願う人がいる。
そしてもうひとり、癒しを祈るように願う人がいる。

そんなふたりが出会い、ある経験を共有することで、たましいが響き合うような時間が生まれ、おたがいにとっての癒しとなる。


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共鳴と共感の違いは、この「祈りの共有」があるか、どうかなのかもしれない。

たとえばトークイベントを開いて、共鳴としかいえない空気が流れていたとき、語る側の祈りにも似た語りと、聴く側のなにか人生を変えるきっかけがほしいという祈りが共有されていたはずだ。

逆に、どんなに素晴らしいプレゼンテーションでも、話す側にも聴く側にも祈りがなければ、それは「いい話だなぁ」と共感は生めど、あの身体が内側から震えるような共鳴の体験とはならない気がする。


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ふりかえってみれば、僕はインタビュー記事の多くを「祈り」をこめてつくってるなぁ、と思う。かつて新卒でニートになり「自分は生きてる価値がない」と思ってた自分に「こんな生き方もあるよ」と伝わるように祈って。

自分への癒しが、結果的に誰かを癒していればいいな、と思う。



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