『あなたはなにがしたいの?』って問われると、居心地がわるくなるんです。
「『あなたはなにがしたいの?』って問われると居心地がわるくなるんですよね」
と、友人が言っていた。
あぁ、わかる。わかるよー!とさけびたくなった。
かくいう僕も、
「『なぜ?』と自分で問うことが、文章や写真や映像や絵や舞台をつよくする」
と先日書いた。けどたしかに、自分の意志を問われることがしんどいときもあるんだよなあ。「意志を持つべし」的なフンイキがある環境は、なんだか生きづらくもあるのだ。
なんてことを考えたのは、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んだから。
『中動態の世界』では、《する》と《される》の外側にある、自分の中でその過程が進む「中動態」で説明されるようなありようがある、ということが説明されている。
「中動態」について、ちょっとわかりにくいので記事から引用。
(筆者註:インド=ヨーロッパ語という言語のグループでは、かつて能動態と受動態の対立はなく)能動態はたしかにあったのですが、これが中動態と呼ばれる態と対立していたんです。「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという対立です。
動詞が名指している過程が僕の外で終わるときには能動態を使って、僕がその過程の場所になっていたり、僕の中でその過程が進む場合には中動態を使う。
たとえば、“I want it”って言ったら「僕はこれを欲しい」ですから能動態を使いますよね。だから僕らは“I want it”を能動的なものと捉えます。でも、そうでしょうか。
これは僕の中で「何かを欲する」という過程が起きているということです。僕が能動的に何かを欲しているというより、僕の中で何かを欲するということが起こっている。これをかつては中動態で説明していたのです。
(引用:『第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎』)
(けっきょくわかりにくいじゃん!ってつっこみもあるかと思いますが、ごめんなさい、僕もわかりやすく説明できるように勉強します…)
そして、「能動と受動の対立は意志の概念と強く結びついているのではないか」と国分さんは指摘する。というのも、「能動というのは自分が自分の意志で行うこと、受動とは意志とは無関係に強制されることを意味するから」だそう。
つまり、いま僕らが生きている世の中は「能動態と受動態」で説明される世界で、そこでは「意志」が大事にされる。なにかをする背景にはその人の意思があるのでしょう、と。だから「自己責任」なんていう言葉も生まれる。
だけれども、“I want it”について説明されていたみたいに、そんなに簡単な話じゃないのだ。加賀 乙彦さんが『悪魔のささやき』って本で書いてるように、自殺や他殺といったエクストリームな行動ですら、明確な意志がなくてもやってしまうことがあるのだ。人間、おくぶかい。
「あなたはなにがしたいの?」って問いの背後には、「受け身ではなく、自分の意志で人生を選択しようぜ!」という価値観がすけてみえる。
この価値観を否定するわけじゃないけれど、息苦しさを感じてしまう人もいるのだ。だって僕らは、「なんとなく」昼にラーメンを食べ、「なんとなく」仕事を選び、「なんとなく」恋に落ちることってあるのだし。
「生きる」とか「はたらく」も、中動態であらわされるようなものなんじゃないか、と考えてみると、ちょっと楽になる人もいる気がする。「キャリアデザイン」なんていうと、明確な意志のもとビジョンを立てて計画を練って、みたいなイメージがあるけれど、もうちょっと「意志」をてばなした生き方もあると思うのだ。
意志がなくても不安にならなくていい。意志があって「生きる」「はたらく」のではなくて、僕のなかで「生きる」とか「はたらく」ということが起こっている、と。植物が光合成するように、カモが春を前にシベリアにわたっていくように、それは自然なことなのだ、と。
そう考えてみると、ちょっと呼吸がふかくなるような気がする。
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