未来が過去の延長線上にある、は当たり前じゃない。「前のめりの時間意識」について
ひきつづき、「自分の中心には、どのようにしたらつながれるのか?」ということについて。
(過去のnoteは以下です)
前回のnoteでは、「自分という地図の座標軸」について書いた。
自分の中心をピン留めする座標軸は、心理学ジャーナリストの佐々木 正悟さんが「マインドフルネス」について説明した際に用いていたように、「他者-自己」を縦軸、「未来-過去」を横軸にとったものだと考えると、わかりやすい。
(自分という地図の座標軸。)
書いておいて、「ちょっとこれは単純化しすぎているな」、とも思う。「他者-自己」を縦軸、「未来-過去」を横軸にとった地図では、「身体-心」は抜け落ちてしまっているし。そもそも縦軸横軸で区切られる四象限では把握できないのかもしれない。
とはいえ、考えるための補助線にはなるはずなので、このまま思考をひろげていきます。
「軸」のなかでも、時間感覚の存在はどうやら欠かせない。
僕らが「自分の中心にいない」と感じるとき、それは「今この瞬間にいない」感覚がともなう。(そんなことないかな?少なくとも僕はそうなのだけど。)
そして、現代にいきる僕らがは「今この瞬間にいない」感覚を持つことを、哲学者の鷲田清一さんは著書『だれのための仕事』のなかで、「前のめりの時間意識」という言葉で説明している。
「前のめりの時間意識」とは、時間を過去から未来に進む線として捉えたうえで、現在を未来のためにあるものと捉える時間意識のこと。
たとえば、「10年後デザイナーとして独立して一人前になるために、今は修行するんだ」という言葉は、まさに「前のめりの時間意識」から来ている。
こうした時間意識は、もはや当たり前のこととして僕らの身体と脳みそに染み付いている気がする。
でも実はこうした時間意識は当たり前のものでは決してないのだ。
文化人類学者の小川さやかさんは、タンザニアのマチンガといわれる零細商人たちの生活のフィールドワークをとおして、未来や過去ではなく「今この瞬間」を生きる、「その日暮らし、Living for Today」を実践する人々がいること、そしてその生き方は独自の社会関係や戦術の上に成り立っていることを明らかにしている。
また、哲学者の内山節さんは「実態的時間(時計の時間)」(前のめりの時間意識に近い)にたいして、人や自然との関わりのなかで生まれる「関係的時間」があるという。
「関係的時間」とは、自分と自然や、自分と他者といった関係性の中で生まれる時間。それは直線的というよりも循環的で、客観的というよりも主観的で、等速というよりも時にゆらぎ、時に流れをはやくする時間だ。
(くわしくは以下のnoteで。)
「前のめりの時間意識」の時間感覚を持つ僕たちと、「その日暮らしの時間感覚」を持つマチンガの人々や、「関係的時間感覚」を持つ人々と、どちらが幸福なのかは単純に比較はできない。
けれど、少なくとも僕個人は、「前のめりの時間意識」を持ちながら生きることに息苦しさを感じて、「その日暮らしの時間感覚」や「関係的時間感覚」に憧れを持つ。皆さんはどうでしょう?
さしあたりここでは、僕らがあたりまえだと思っている「前のめりの時間意識」は、あたりまえじゃない、ということを覚えておきたいと思う。
「前のめりの時間意識」がどうして息苦しいか、ということは引き続き考えていきます。
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