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大文字のサステナビリティ、小文字のサステナビリティ

「これこれしなきゃだ」という気持ちではじめたことが続いたためしがない。

ジム通いも英会話も、恋愛だってそうだ。ガソリンがないのに車を走らせようとしているような感じで、走り出したはいいものの、エンジンはプスンプスンと音を立て、ちっちゃい石ころにぶつかっただけで止まる。

プスンプスン…ガタン。

やっぱり、「これこれしたい!」っていう、おさえてもむらむらと湧いてくるような気持ちがないと走り続けることはできないのだ。僕の意志が弱いのかな。いやいや、たぶんきっとそうじゃない。ガンジーだってキング牧師だってイチローだって、「これこれしたい!」がないとあれだけの偉業は成し遂げられなかったんじゃないかしら。


「サステナブルに生きなきゃだ」と思っていた。

本で「サステナビリティ」のことを勉強したり、記事を読んだり。でも、ジム通いも英会話もそうだったように、続かない。プスンプスン…ガタン。どうやら「サステナビリティ」なるものに対して、むらむらと湧いてくるような気持ちがないらしい。

僕は「サステナビリティ」という言葉には、「大文字のサステナビリティ」と「小文字のサステナビリティ」がある気がしてる。

政府や大企業がすすめるような、大きい規模の「大文字のサステナビリティ」では、SDGsについての取り組みや、持続可能なビジネスづくりなどがある。

それに対して、「小文字のサステナビリティ」は、個人や地域規模の小さな取り組みだ。たとえば、家の庭をエディブルガーデン(食べられる庭)にする、エコバックを持ち歩く、などの個人の習慣も、「小文字のサステナビリティ」にふくまれる。

どうやら、僕がこれまで学ぼうとしていたのは「大文字のサステナビリティ」で、僕はそれよりも「小文字のサステナビリティ」に惹かれてるらしい。

ちょうど花森安治さんが「暮らしの手帖」で、日々の暮らしの知恵を伝えることをとおして、おおきな社会のあり方を守ろうとしていたように、「小文字のサステナビリティ」を積み重ねが、自然環境やみんなが豊かに暮らせる社会を守ることにつながるはず。

なにより、「小文字のサステナビリティ」の営みはたのしそうなのだ。

「アーバンパーマカルチャー」というあたらしい考え方を紹介した、ソーヤー海さんの『都会からはじまる新しい生き方のデザイン』をひらくと、エディブルガーデンやDIY、シティリペア、ギフトエコノミーなどの取り組みが、たのしそうな人々の笑顔とともに紹介されていて、わくわくしている自分がいる。

本のタイトルになっているように、「生き方のデザイン」というのがいい。「2050年までに温室効果ガスを80%削減しましょう!」と言われてもピンとこなくても、「自然や人とともに生きる生き方をデザインしていきましょう」と言われたら、いきましょう!ってなるのだよね。


僕はグレタ・トゥンベリさんのようにもアルゴアさんのようにもなれないけれど、庭でセロリを育てて、ご近所さんにおすそわけすることはできる。そんな小文字のサステナビリティにつながる営みを、やれるだけ、がんばってみるよ〜、という所存である。






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