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あの頃の少し後

夏の入口だから秋の話を書く。
9月に入ると百貨店やスーパーの鮮魚売り場には生のイクラが並び始める。
出始めのそれは、値段が高く、粒も小さく未成熟な場合が多い。
反対に10月の下旬になると卵の皮が厚くなってしまう。

その間の期間、つまり9月下旬から10月上旬までが
イクラの醤油漬けをつくるベストシーズン。
もっともこれはボクの好みで、他の人の意見は知らない。
そんな理由で、秋になるとマルエツの地下食品売り場へ
足を運ぶ機会が増えてくる。
上馬で過ごした7年はそれが秋のルーティーンワークだった。

自分で醤油漬けをつくることは難しくない。
ルビーのような色合いと表現されることが多いが、
それはイクラのオレンジに、醤油の赤黒い色合いがブレンドされた結果。
そう上質な生イクラは透明感のある鮮やかなライトオレンジをしている。
それこそが夏好きな僕の、秋を嫌がらない理由の一つだ。

「あっこれ好きかも」
そりゃそうでしょうとも、素材はベストシーズンの
しかも暴挙とも言うべきお値段に震えながら手に入れた
某高級スーパーの極上品(マルエツじゃない!)。
しかもだよ、控えめに言って自分でも上手にできたランキングの
ベスト3入り間違いなし、我ながら評価すべき自信作なのだから。

「ところでコレなんて言うの?」
「どういうこと」思いがけないセリフ。
「もしかして初めて」まさかそれはないよな。
「うう〜ん初めての味…かな」
「イクラの醤油漬けっていうんだけどね」
「それは聞いたことがある。でも食べるのは初めて」

『これがそうなんだ』でもなければ、『こんなの初めて』でもなく。あまりにもシンプル、そして明確な回答。どう答えたらいいんだろう。
「そうなんだ」と間抜けな返事のあとに珍しいねと言いかけて
言葉を飲み込んだ。

「回転寿司とかは行かないの」
「ないなぁ、そういうとこ」
よっぽどのお嬢様か、下界と隔絶された山奥の民?まぁそんなことはどうでもよく、好きな味と言われたことは素直に嬉しかった。

「一応ね、自家製。ボクが作ったんだ」
「あぁそうなんだ。いいね、美味しいよすごく。でも」
そう言って彼女は急に笑い出した。
えっどうした?ウケるところ。
しばらく笑い転げた彼女は、涙を浮かべながら
ペットボトルのお茶に手を伸ばした。

「作ったんだ。えっどこの魚類と」
「エッ!ハッ?」
虚を突かれたってこんなときに使うのが正しいんだろな。
そう思った、それにしても彼女の笑いのツボがわからない。

かろうじて返した。
「シャケに決まってるでしょ。チョウザメとするほど変態じゃないから」
今度は、少し呆れたような笑い声が返ってきた。

ボクはといえば、自分で言っておきながらそのバカバカしさに気づいて、やっぱり呆れてしまった。
笑う代わりに、冷蔵庫から2本のビールを取り出し、1本を彼女に手渡した。
「午後から仕事じゃなかったのかな」
あざといほどの首の傾け具合がとてもいい感じだった。
返事の代わりに隣に座り、プルトップを開けた。
とりあえず、大切なのは今だ。言い訳は明日考えればいい。

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