見出し画像

湘南にいて北京の息吹を聞く ~【阿佐ヶ谷mogumogu インタビュー】へ寄せる私信~

最近友人になった人の一人に、音楽で文章を書いている人がいる。知り合ったときは、音楽の話を嬉々として話すだけで詳しく何をしている人か聞かなかったので、また会いたいなあ、また話したいなあと思ったときに彼女は多忙で「ごめんなさい」という返事だった。
しばらくして、こういう記事を書きましたという連絡が来て読んでみたら、今の私の興味にどんぴしゃで、「こんなことってあるの😮」という気分だった。

記事を読む少し前にラジオで中国ロックを聞いて、「中国はいまこんなんなってるの?」と新鮮な驚きがあった。まるで初めて東京ロッカーズを聞いたときのような感覚。それまで中国は民族音楽ばかり聴いていたので、中国の「今」に注目するということは、すっかり私の中から脱落していた。

記事を読んで、いろんなことを感じたことを彼女に伝えたいと思った。でも、これは自分のためにも残しておきたいと思ったので、彼女には申し訳ないけれど、公開私信として私のnoteにすることにした。
私のnoteは普段ほったらかしだし、大きな影響はないと信じたい。
ともこさん、承諾もなしに公開私信にしてしまってごめんなさい。

■【阿佐ヶ谷mogumogu インタビュー】記事を読んで

拝啓
こんにちは。記事読みました。
【阿佐ヶ谷mogumogu インタビュー】北京から、東京へ。中国インディー音楽が彩る豊潤な森

長く取材されたことが読み取れて、記事にすることに苦慮されていたのが、そういうことだったのかと腑に落ちました。愛着のある場所だからこその難しさ。

実は、6月15日(16日早朝)のJーwave「TOKYO M.A.A.D SPIN(PART2)」にて、小山田圭吾中華ロックリミックスってのが流れて、それにはまっていた矢先の記事でした。

その中には、あなたの記事内でもおススメのCarsick Carsも入っていて、私はそれがいたく気に入ったのでずっと聞いているわけです。YouTubeで公開されている「3」というアルバムなんか、小田急線であやうく泣き出すところでした。

最初は「あーここはニューオーダー、ここはエコバニ、ジャムがちょっと入ってきたかな」という感じでしたが、よくある模倣バンドと違うのはすんなり入ってくるところ。
細胞が模倣ととらえても“いや”じゃない。“嫌”と思うようなバンドは薄笑いの中で聞くしかないのに、今回聞いた小山田セレクトのバンドたちは自然と入ってこれるのが不思議です。
私はつい先週の木曜日に胆嚢除去のための腹腔鏡手術を受けて、その週の土曜日には病院を追い出され、なんの注意も受けなかったのをいいことに、この水曜日には六本木の「花とゆめ50周年展」に出向き、その道中の小田急線の中で、腹に5つ穴をあけられやっぱり心もとない気持ちの中で聞いていたからちょっとメランコリックになったいた、というわけではないようで、私たちがあの頃聞いた宝物のような曲たちを、初めて聞いたときの旋律と感動が共有されているような気がします。何かを聞いて気持ちが飛んでいくような既視感を久しぶりに感じました。

世界のムーブメントの多くは、世界経済が頂点に達してはじけた1990年代でだいたい極点に達した感覚があるけれど、彼らのムーブメントは中国がGDP世界第二位に達した後にあるようにさえ思える。それとも中国の頂点はまだまだこれからなのか?

記事の中で印象的だったのは、

同じ中国語圏でも台湾のパンクの歌詞が中国語なのに対して、中国のパンクは歌詞が無い、あっても大抵は英語の歌詞なんだそうだ。そして、歌詞に中国語を使う場合でも、台湾のパンクのように直接的に何かを訴えるのではなく、「文学的に」表現するのだという。古い時代の漢詩のように。

https://note.com/midiinc/n/nd0ff3ac036b9

私が聞いた曲たちに思ったのは、70年代後半から90年代のUK、そして日本の東京ロッカーズやその後のエッセンスがふんだんに盛り込まれていて、それが違和感なく調和していること。時代はくりかえしているのか? それとも別な化学式があるのか?

私はそこに、かつて日本で起こった「母国語でロックする意義」という論争は起こらないのか?と能天気に思ったのです。しかし、母国語で歌えない現実があることを記事で知りました。GDP世界第二位に達した後の中国と、世界の現実をつきつけられた気がする。

去年行った台湾で、20年前に行ったときといろんなことが大きく変化していることを肌で感じました。ちょうど台湾映画100年。戒厳令解放から40年。台湾が歩んできた自由への軌跡が、臺北市立美術館のライブラリーに展示されてたのを見て衝撃を受けたのは新しい記憶です。

臺北市立美術館ライブラリー 2023年8月

あなたとお会いしたときに話した、NHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」。

あの時話したのは、東ドイツのニナ・ハーゲンの話でしたが、私は記事を読んでヴェルヴェットアンダーグラウンドとチェコ・スロバキアの回を思い出します。自由をうばわれた日常の中で、ヴェルヴェットの曲をカバーして地下ライブを繰り返す人たち。西側のカセットテープやレコードをレントゲンフィルムに焼き付けて密輸入する人たち。そんなことを思い出しました。コロナ前に一瞬融合した西と東の経済と文化が、また今分断されつつあること。時代が逆行していることに戦慄を覚えます。

そして、コンサートスタッフに参加した、1999年につくばのノバホールで開催されたHuun-Huur-Tu。この日は東海村で臨界事故があった日でもありました。それを知っても、当人たちが「ファッキングッド」と評価したパフォーマンス。
その打ち上げで、みんなで歌ったザ・ピーナッツの「恋のバカンス」。1965年になんでかソ連の映画音楽に使われてソ連全土で大ヒットし、ロシア人も日本人もみんなが歌える日本の歌。そんなことを思い出しました。

フンフルトゥ1999年9月@つくばノバホール ポスター

私たちはなんて平和ですばらしい時期に、一番若く吸収できる年齢で過ごすことができたのか。そして、その時期に培った文化的素地が、今の自分にどれだけ救いになっているのか。
たったそれだけのことが、奇跡のように思えます。

あまりに感動したので、本当はすぐにあなたに会って語り合いたい衝動があるけれど、いまは病み上がりでもあるので、もう少しお待ちください。
また近いうちにお会いして、いろんなことを語り合えたら嬉しいです。
今はなかなかそんなお友達に出会うことも奇跡。

本当に、また近いうちに。
かしこ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?