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自伝的小説 『バンザイ』 第八章 罪と罰



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「こうやって普通にデートするの久しぶりだよね」

「そうですね。御茶ノ水の時以来ですかね?」

 横浜の赤レンガ倉庫に来ていた。僕の左腕はタマの右腕と組まれている。

「なんか、すげー恥ずかしいんですけど」

「うちもですよ。お酒飲んでないとやってられないです」

 ショッピングモールを歩いて回る、ごくごく普通のデート。お互い空いている手には酎ハイの缶を持っていた。

「彼女できるの、結構久しぶりなんだよね」

 僕がそう言うと、タマは不思議そうな顔をした。

「最後にいたのはいつなんですか?」

「うーん、四年前くらいかな?」

「へぇー、うちは初めて付き合ってから、一年も空いたことないです」

 なんだか嬉しそうにそう言ったので、僕はわざと冷たく返した。

「ふーん、モテるんすね」

「そんなことないですよ。たまたまです」

 彼女はそう言うと、僕の腕を強く握りしめた。嬉しさと恥ずかしさでおかしくなりそうだ。

 あまりにも平和でありきたりな日常。アルコールで脳を麻痺させなければ、耐えられないほどの平穏。

「こんな普通のデートいいのかなあ」

 僕は独り言のように呟いた。

「いいんですよ。こういうのが幸せなんじゃないですか」

 タマは嬉しそうに言った。

「俺、幸せなったことないからわかんないや」

「ふふ、じゃあうちが教えてあげます」

 彼女はそう言いながら、僕の肩に頭を乗せた。

 タマと二人でいる時間はとても穏やかで、純粋に楽しかった。ただ会って話すだけでドキドキして、フラフラと散歩をしているだけで心が躍った。無理矢理遠ざけていた人が今は触れられる距離にいて、僕に愛の言葉のようなをもの囁いてくれる。全てが夢のようで、彼女が幸せの源泉だと思えた。絶対にこの人を逃してはいけないと、本当に心からそう思った。

 僕は腹をくくった。音楽も恋愛も、全てうまくやってやると胸に誓った。絶対に上手くやってやる。音楽も恋愛も人生も、全部ひっくるめて、全て丸ごと抱え込んで。
 

「最近なんか頑張ってるね」

 久しぶりに職場でエノさんと顔を合わせた。

「そうっすね、なんかやる気満々ですよ」

 僕はレジの売り上げを数えながら答えた。

「なんか顔が変わったよ、シュッとしたっていうか」

「そうですかね?」

 確かに最近、鏡に映る眼孔が鋭くなったような気がする。

「例の彼女とはどうなったの?」

 僕が色々と恋愛で苦しんでいることは、職場のみんなに知れ渡っていた。

「それがあの、付き合うことになったんですよ」

「おー、まじかあ、じゃあ本当に頑張んないとな」

「はい。頑張りたいです」

「コジなら大丈夫だよきっと。なんかそう思うよ」

 エノさんの言葉は重みがある。この人を裏切ってはいけない。期待してもらっているのだから、それなりの結果を出さないといけない。そんなプレッシャーもありがたかった。どんなものでもガソリンにしてやる。どんな人間でも教師にしてやる。
 

 バンド活動はどんどん熱を帯びていった。もうカメがいた頃とは何もかもが違っていた。そんなある日のスタジオで、「今年中に売れる兆しが見えなかったら解散する」とクボタは言った。これまでどんなにぶつかっても『解散』というワードが出ることはなかった。いよいよ僕らは瀬戸際まできたみたいだ。望むところだと思った。もう結果を出す為の手段は選ばない。僕はそこから、感情のブレーキとリミッターを外した。解散なんてさせるものか。絶対に。

 音源を配る準備を始めた。良さそうなレーベルをクボタがいくつかピックアップしてきたので、とりあえず全てに送ることにした。梱包などの事務作業は、ホシくんが積極的にこなしてくれた。彼のバンドに対する姿勢も、あの頃とは別ものと言っていい。そういった単純でも前向きな行動を見ると、嬉しくなってしまう。その分こっちもやってやろうという気持ちになる。

「ネットを使って宣伝活動をしていこう」

 と提案したのはお兄ちゃんだった。僕らの周りには、そういった活動に力を入れているバンドはいなかった。これはなかなか目から鱗だった。基本的にみんな、月のライブの本数が多いのがステータスだと思っている、現場至上主義だ。ライバルはほとんどいないと言っていい。今までは僕らは、SNSで軽くライブ告知するくらいにしかネットを使っていなかったので、伸び代はいくらでもありそうだと思った。新しくやることをみんなで考え、とりあえず練習終わりに生配信をしてみよう、ということになった。
 店員の権力を行使して、ヒノーズの空いている部屋を無料で使わせてもらい、ホシくんの部屋に転がっていたノートパソコンを持ち込み、マイク付きのカメラをそこに設置し、配信のスタートボタンをクリックした。

 配信画面には僕ら四人が映った。なんだかヘンテコな四人組だなあと、それを見て思った。来場者の数字が書いてあり、それは今『0』となっている。誰も見ていないことだろう。ソワソワしながらテキトーな会話をし、しばらくすると来場者の数字が『1』になった。そして僕らは、画面の向こうの誰かに向けて話しかけた。

 一度の配信は三十分で終了する仕組みだった。僕らはひたすら喋り続けて、一つの枠が終了した。あっという間だった。人生で一番早く感じた三十分だったかもしれない。なんだこれは? と驚いた。とんでもなくおもしろい。何かに似ているなと思い、頭の中で考えると、答えはすぐに見つかった。そうだ、ライブだ。
 高校生の頃から、飽きることなく繰り返しやっているいつものあれ。それをやる為に生きているようなもんだし、それをやっている時は死んでもいいと思える。そういえば、生配信のことを英語では『ライブ』という。なるほどそうか、と合点がいった。これもまたライブなのだ。

 画面の向こう側には、機械ではない誰かが確実に存在しており、そんな血の通っている反応が僕はとても嬉しかった。物珍しいかったせいなのか、予想以上にコメントが流れる数は多かった。それと比例するように来場者の数も増えていった。僕は積極的に喋って、一生懸命流れるコメント拾っていった。少しでも自分たちを知ってもらおうと必死にアピールした。「ライブ観に行きたい」というコメントをもらった時は、後頭部がビリビリと痺れるくらい嬉しかった。僕は新しい世界を見つけたような気がした。お金もかからないし、わざわざどこかに来てもらう必要もない。なんという世界なんだ。ここでなら、毎日いくらでもライブができる。

 僕らは対バンの人たちとあまり仲良くできない。友達も少ないから、お客さんだってほとんどいない。人間性に問題があるのだろう。でも、そんな人間だからこそバンドをやっているのだ。
 インターネットの世界では、本当に気軽に他人とコミニュケーションが取ることができた。姿が見えないからお互いに全く気を遣わない。しかし、その画面の向こうには絶対に機械には生み出せない、明らかな生の人間の匂いを感じた。
 僕らが力を一番力を入れるべき場所は、もしかしたらここなのかもしれない。ライブハウスに来ないような人々が、きっとたくさんいるはずだ。むしろ来る人の方が圧倒的に少数派だろう。例えばロックが好きじゃなくてもいい。アニメオタクでも引きこもりでも障害者でも犯罪者でもなんでもいい。僕らはきっと、人と繋がりたいだけ。音楽という拡声器で、自分たちの存在を証明したいだけなのだ。僕はワクワクが止まらなかった。

 ドラムという楽器には言葉がない。伝えたいことがあっても身体で表現するしかなく、一時的にスッキリはするものの、根本的な歯痒さみたいなものは解消されなかった。ドラムが心の底から好きで、叩けているだけで嬉しくて、機材を買い漁るようなマニアもいる。僕は全くそういうタイプではない。ドラムはあくまでも表現の手段の一つだった。ギターでもベースでもドラムでも、物は別なんでもいい。僕はたまたま目の前にあったスティックを握っただけ。とにかくすごいことがやりたかっただけだ。
 インターネットでの表現は、言葉を持つことができた。それは僕にとって、喜ばしい発見だった。喋ることで誰かが喜ぶなら、僕はいくらだって喋る。それが表現になるなら、こんなに楽しい事はない。高校時代は、友達を笑わせることに生き甲斐を感じていたくらいだ。これからは言葉を持つことができる。ということは、人生を全て反映できるんだ。今まで無駄に思えたことも無駄じゃなくなる。恋愛だって立派な武器になる。生きること全てに意味が生まれる。言葉を持つというのは、つまりはそういうことだろう。
 本当は自分の言葉で何か表現者することを、一番望んでいたのかもしれない。自分にクボタのような才能がないことはわかっていた。だから言葉を捨てて、音を鳴らすことに専念した。しかし、こうなってしまえば話が変わる。言葉は武器になる。これ大きな革命だ。

 練習後に配信をするのが日課になった。僕らは練習の疲れも忘れて、喋ることに夢中になった。驚くほどポンポンと登録者は増えていき、僕らの心は満たされていき、ライブハウスとの違いを痛感した。演奏もしていないし、ステージにも立っていない、お金も払っていなけば、死ぬ思いをしているわけでもない。こんなに楽で楽しいことで普通人が集まってきていた。これはすごいことだった。今まで僕らはどれだけ狭い世界にいたのだろう。配信以外にも、ライブ映像のアップロードやミュージックビデオの撮影など、やれることはまだまだ沢山ある。とりあえず思いつく限りのことを、全てやってやろうということになった。僕らの気合は十二分に入っていた。

 いける、いけるぞ。このままこのペースを続けていれば、たくさんの人の目に止まる。その中にはきっと、音楽関係者やすごい人がいるはずだ。そんな人の目に止まれば、絶対に僕らはすごくなれる。いける。絶対にいける。僕は自分に言い聞かせるように唱え続けた。

 最強のバンドと最愛の彼女。最適な音楽環境。そして、新しい表現の世界。僕は全てを手に入れたのかもしれない。持て余したエネルギーが全身から噴き出てくる。怖いものなんて、もう何も一つとしてない。

 絶対にこのまま、どこまでも高く飛んでやる。


 タマとは相変わらず、毎日のように長文のメールをやりとりをしていた。会ったら必ずくっ付いてしまうので、会えない距離にいる時は、その分たくさんの言葉を交わした。今まで言えなかった恥ずかしげな言葉も、僕は躊躇することなく送りまくった。彼女も付き合う前には見せることのなかった、デレデレとした文章を返してくれた。
 距離が近くなってから、彼女は僕に『普通』を見せてくれるようになった。だから僕も惜しみなくそれを曝け出した。タマの前ではカッコいいバンドマンでありたい。彼女に見合うような、芸術家でいたい。たぶん向こうも同じような気持ちを持っていたと思う。だから僕は、タマの『普通』を見れることが一番嬉しかった。ステージ上での彼女とは一番かけ離れた『普通』。カッコつけたい音楽家が、恥ずかしくて一番見せたくないであろう『普通』。ここまで近付かなければ、絶対に見ることができなかった『普通』。僕はそんなタマの姿を知ることが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 彼女の全てを知りたかった。過去も今も未来も。
 読んできた本も、聴いてきた音楽も、観てきた映画も、交わしてきた言葉も、会ってきた人たちも、全部。
 
 彼女は今、確かに存在している。目も指も髪も顔も身体もあるのに、会えない時間がある。少しずつ減っていく命が勿体ない。いつかは必ず消えてしまう。ずっと見ていたい。飽きるまで喋りたい。怒られるまで触れ続けていたい。そして、このまま死ぬまで一緒にいたい。今確かに、彼女は存在しているのだから。

 会いたい、見たい、聞きたい、触りたい。
 そしてできることなら、僕の存在を認識してほしい。

 好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだ。
 そんな気持ちが、まるで鼓動のように、身体を巡って止まらない。


 仕事中もずっと、舞い上がった気持ちだった。普段はあまりやらない仕事も積極的にやった。何か手を動かしていないと落ち着かなかった。身体の中から大事なパーツが飛び出ないように、必死に耐えているロボットになった気がした。気を抜くとバネやらネジやらが飛び出して、バラバラになってしまうような。そうならないように、色々と手を動かして働きなんとか誤魔化していた。
 深夜になり、掃除を終わらせても、そのまま激しくドラムを叩いても、ソワソワして仕方がなかった。僕は携帯を持ったままトイレに篭り、タマに送ってもらった顔写真を見ながら、一人でした。気持ちの昂りを抑えるには、この方法しか思い浮かばなかった。そうすることでしばらく落ち着くことはできた。なんだか危険なことしているようで、罪悪感とスリルで気が触れそうになった。バラバラになってしまわないように、とにかく必死だった。


 そんなある日、タマのお邪魔することになった。ここに来るのは、蒲田でのライブ後に大学へ着いて行った時以来二度目だ。以前とは違い、コソコソする必要はなく、二人で堂々と玄関のドアを開けると、そのままリビングに通され、座ってテレビを見ていたお母さんを紹介してもらった。

「はじめまして、コジマと言います」

 僕は緊張しながら頭を下げた。

「連れてきちゃった」とタマは言った。

「あー、どうもー。話は聞いてるよ。とりあえず座ってよ」

 お母さんは少し低い声をしていたが、ハキハキとした口調でそう言うと、真っ直ぐ立ち上がった。

「失礼します」

 お母さんがいた場所にタマが座ったので、そのすぐ横に腰を下ろした。

「何飲むー? お茶か紅茶かコーヒーか」

 キッチンに移動したお母さんが訊いてきた。

「あ、じゃあお茶でお願いします」

 僕は声を張って答えた。

「お茶ねー、はーい。あんたはー?」

「うちミルクティー」

 タマはテレビ見ながら、視線を外さずに言った。

「はいよー」

 お母さんはどこか少年のような雰囲気を持っていて、それはタマの持つものとそっくりだった。輪郭や雰囲気がなんとなく同じで、遠くから見ると明らかに親子という感じだ。どこかぶっきらぼうで、男くさくて、それでいて優しくて、愛を与えてくれるような接し方。

 少しソワソワしながらタマの隣でテレビを眺めていると、突然リビングのドアが勢いよく開き、短く刈られた白髪の男性が現れた。
 猫のような大きな瞳、端正な顔立ち、引き締まった身体。彼の周りからはオーラのような、目には見えない何かしらのパワーが発せられていた。この人の遺伝子を受け継いでいるのだと瞬時にわかった。誰がどう見てもタマのお父さんだ。

「おー、どうもどうも。……どちらさん?」

 大きな瞳で僕を見て言った。

「あ、はじめまして」

 と言いながら、僕は立ち上がった。

「コジマさん。彼氏だよ」

 タマはミルクティーを頼んだ時と同じトーンで、僕を紹介した。

「おー、そうかそうか」

 お父さんは風呂上がりだったのか、上半身裸でタオルを肩にかけ、胸元には金のネックレスをしており、昔悪いことしてました、というような圧力にも似た何かがあった。

「よろしくお願いします」

 僕は頭を下げ言った。

「よろしくよろしく。おーい、お母さーん、なんか飲み物出してあげてよ」

 お父さんはキョロキョロとあたりを見回し、忙しなくキッチンに向かった。

「今用意してるのー」

 とお母さんは不機嫌そうに言った。

「おーそうか、ごめんごめん」

 そう言いながら、キッチンから戻ると、彼はいきなりシャドーボクシングを始めた。よく見るとその身体は見事に鍛えられて、とてもしなやかな動きをしていた。

「お父さんいつもこんななんです。怒ってるわけじゃないですから、気にしないでくださいね」

 タマがヒソヒソと僕に言った。僕は無言で頷きながら、正座でお父さんのシャドーボクシングを見ていた。

「はい、どうぞー」

 と言いながら、お母さんはリクエストした飲み物を僕らの前に置いてくれた。

「ありがとうございます」

 僕は氷の入ったそれを飲むと、緊張が少し解れたような気がした。

「コジマさんは、何やってる人なの? バンドの繋がりかい?」

 シャドーの手を止めたお父さんが言った。

「普段は音楽スタジオで働いてるんですけど、一応バンドでドラムも叩いてます」

「先生の企画で知り合ったの」

 ミルクティーを啜りながら、タマがフォローを入れてくれた。

「へえー、そうなのかい」

 またシャドーが始まった。
 ワンツー、ワンツースリー、と小気味良く拳が空を切る。今度は手を動かしたまま言った。

「バンドで食べていけてるの?」

「いやー、全然です。まだデビューもしてないんで、これからというか……」

「俺はたまにギャラもらってライブしてるんだよ」

「へぇー、すごいですね」

 僕は素直に驚いた。

「お父さん怪しい仕事してるんです。講演会とかそういう感じの」

 またヒソヒソとタマが言った。

 しばらくシャドーを眺めていると、お父さんは突然、あっそうだそうだ、と言いながら忙しなくリビングを出ていった。おそらくタマとはタイプの違う不思議な人だ。

「ご飯食べて行く?」

 とお母さんが僕らに訊いた。僕は一瞬遠慮しそうになったけど、タマが、食べるー、と子供のように言ったので、それに従うことにした。

 その時「ただいまー」と、また別の人物がリビングに入ってきた。デジャブかと思えるくらい、誰がどう見てもこの家族のDNAが含まれている青年だった。たぶん、いや絶対と言っていい、タマの弟だ。

「おかえりー」

 タマとお母さん二人の声が重なり、リビングにこだました。

 なんだかとても賑やかしい家だった。僕の家とはまるで違う、和気藹々とした雰囲気。僕はこう言う空気がくすぐったくて、ムズムズしてしまう。彼女の実家なら尚更だ。タマはこの場所で、この家族に囲まれて育ったらしい。きっと愛されてきたのだろう。

 僕はその後お父さんに、タマが子供の頃の写真と映像をたくさん見せられた。子供の頃からタマはタマのままで、まさしく玉のように可愛らしかった。お父さんはひとしきり写真を見せると、満足そうにギターを弾き、歌い始めた。何をするにも忙しなく動きまわっており、やっぱりちょっと変わっているなと思ったけど、そんなところがまさにタマのお父さんという感じだった。
 しばらくすると、今度はお母さんが飲み物や食べ物をたくさん食卓に出してくれた。正座をしていた僕に「そんな疲れる座り方してないで足崩しな」と、やさしい言葉をぶっきらぼうに言った。気恥ずかしくてなかなか箸は進まなかったけど、お母さんの料理は美味しかったし、彼女の家族の中に混ざっていることが、なんだか純粋に嬉しかった。


「ごめんなさい。なんかバタバタしちゃって。うちのお父さん変わり者なんです。疲れたでしょう?」

 タマはベットに腰掛けながら言った。

「いや、全然平気だよ。おもしろいお父さんだね」

 僕はタマの隣に座り、答えた。

「本当にヘンテコな人なんです、昔から。この前なんてうちがちょっと風邪引いたら、コンビニで食べきれないほどのデザート買ってきて、そんな量食べれないし、こんなに買ってどうすんの? って聞いたら、何が? って不思議そうな顔してました」

 コンビニで忙しなく動いているお父さんが、ありありと目に浮かんだ。

「いいお父さんじゃん。なんかあなたとそっくりだよ」

 僕が笑いながら言うと、彼女拗ねた顔をした。

「……あんまり嬉しくないよお」

 タマの家族には血の繋がりみたいなものを強く感じた。きっとみんながお互いを大切にしているのだろう。シンプルに優しくて、快くもてなしてくれて、低俗なものは何もなく、ありのままだけどどこかに品を感じられる、そんな人達。そのすべてがタマらしいなと思った。

「羨ましいなあ、なんか」 

 僕は彼女をそっと抱きしめた。

「そうですか?」

 彼女は僕の背中に手を回した。

「うちの家は全然あんな雰囲気じゃないからさ」

「へぇー。うちは家族も親戚もとっても仲良しなんです」

「うん、なんか想像できるよ」

 僕はそう言って、タマにキスをした。そのままベットに倒れこむと、反動で唇が離れた。

「もしうちと結婚したら大変ですよ? 親戚多いんで、一気に増えちゃいますから。毎年みんなで集まってるんです」

 思わず顔を顰めてしまう。

「うわー、俺そういうの苦手だったから、小学生までしか行ってなかったな」

 ふふふ、と笑いながら彼女は言った。

「じゃあまずはうちの家族で慣れていきましょ」

「うーん、頑張ってみるよ」

 僕はタマを強く抱きしめ、再びキスをした。

 幸せを感じながらも、胸がずきりと痛んだ。家族や親戚と仲良くするなんて、僕が一番苦手とするところだった。タマのそんな姿を目の当たりにすると、コンプレックスをまざまざと見せつけられているような気がして、思わず目を覆いたくなってしまう。僕らは似ているようで、そうでない部分も少なくない。結婚なんていうものは、人生で一度も考えたことがなかった。売れないバンドには一番縁のないものだ。

 結婚――。安定した普通の家庭で、子供を作り育てていく。そんなの想像することすらおこがましいけど、もしかしたらそんな未来も、ありえなくはないのだろうか。タマとはずっと一緒にいたいとは思うけれど、それはなんだか現実というよりも、おとぎ話に近いようなもな気がした。

 先のことはわからない。とにかくタマを離したはくない。やっぱりその為には、バンドですごくなるしかない。そうすれば、奇跡が起これば、普通の幸せを手に入れられるのかもしれない。彼女を幸せにする為に、捨てていたはずの未来をゴミ箱から拾い集めて、今まで想像すらできなかった現実を、捕まえにいくしかない。


 目まぐるしく日々は進む。様々なことがありすぎて、休む暇もない。時計はすごい速さで回るのに、一日一日は長く感じ、一週間前が遠い昔のように思える。一年前のことは、もう夢だったとしか思えないほど朧げだ。間違いなく今が人生で一番充実している。
 練習も、ライブも、生放送も、仕事も、一人で部屋にいても、ただ息をしているだけでも、常に楽しさを感じた。それは間違いなくタマがいるおかげだった。
 彼女とのメールはなくてはならない日課で、彼女との電話は頑張った自分へのご褒美のような時間。一緒にいる時は頭がおかしくなりそうほど幸せで、触れ合っているのが嬉しくて楽しくてしょうがない。

 いつまでもこれが続けばいい。いつまでもこれが続いてほしい。もうすごくなるとかならないとかは、どうでもいいのかもしれない。状況はどうあれ、僕は目の前のことをただガムシャラにやるだけだ。クボタという才能に、いつか世間は気が付くだろう。初めてライブを見た瞬間からそうなることはわかっていた。確信があった。すごい音源も作った。準備は整った。あとはそれを世の中に広める作業をしていくだけ。目指す場所も足並みも、今は綺麗に揃っている。あとはこれを、できるだけ継続できるように努めればいい。

 大丈夫。絶対に上手くいく。軟弱金魚のドラムで、タマの彼氏なんだ。こんな最強且つ幸せな人間、他にはいないだろう。誰にも負けないし、誰にも渡さない。クボタとタマに認められ、彼らに囲まれているのだ。大丈夫。あとはもうぶっ壊れないよう進むだけ。あまりの幸せに、バラバラになっていまわないように。



 そんな時だった。僕らは高円寺をすることになった。最近仲良くなったばかりのバンドマンが、ブッキングをやっているライブハウスだった。元々はもう無くなってしまった、高円寺ギアというライブハウスで働いていたらしい。そこは軟弱金魚の前身バンドが解散ライブを行った場所であり、その企画には僕もお兄ちゃんも別々のバンドで参加していた。つまりはこの四人が初めて揃った場所だった。
 なんだかその日は不思議な雰囲気だった。お兄ちゃんが昔やっていたバンドの知り合いがいたり、懐かしい顔が客席にあったりと、とてもノスタルジックな空間で、高円寺ギアと同じような匂いがした。もう入ることのできない、アーケード内にひっそりと佇んでいた、場違いと言えなくもない汚れた地下空間を思い出した。ライブハウスに特有の匂いはどのハコよりも強烈で、今でも鮮明に思い出すことができる。

 どんなライブであろうと、命懸けてやって全てを出し切る。それはいつも思うこと。その日も例外ではなかった。

 何故か出番はトリだった。僕は不思議な感覚のままライブをしていた。いつもはあっという間に終わるライブが、その日まるで走馬灯のように、時間がスローモーションで流れた。初めてやったライブや、ロックを体験した瞬間を何故か思い出した。僕はライブ中に無我夢中で喋り、そのまま涙を流していた。そのことは微かにしか覚えていない。目の前にいる人たちに何か伝えたくて、もっと高く上がって行きたくて、とんでもなくカッコいいライブがしたくて、全てがうまくいってほしくて、堪らなかった。

 僕はクラッシュシンバルを延々と力強く鳴らしていた。大きく振りかぶりそのまま全力で打ち抜くと、前の三人はそれに最後の音を合わせ、演奏が終了した。そのまま勢いで僕以外の三人は、楽屋の中に吸い込まれていった。

 一人遅れてステージから捌けようとした時、足元に落ちているギターを見つけた。クボタが彼女に金を借りて買ったという、黒いダンエレクトロのギターだった。僕は導かれるようにそれに手を伸ばし、持ち上げた。

「ありがとうございました」

 目の前にあったマイクにそう言い放ち、僕はギターをステージの真ん中に投げた。

 弧を描きながら舞っていったそれは、地面に当たった瞬間轟音を鳴らし、辺りに木屑が飛んで行くのと同時に、真っ二つとなった。

 予想外の事態に驚きつつも、ライブを終えたばかりの頭では、目の前で起こった現象の意味を理解することができなかった。頭の中は真っ白だった。少しの静寂の後、店内にBGMが流れた。

 音を聞きつけた三人がが楽屋から出てきた。僕は入れ替わりで楽屋に入り、ボロボロのソファーに身を預けた。全身がずぶ濡れで、心臓は壊れそうなほど激しく脈打っていた。
 楽屋のドアが激しく開き、お兄ちゃんが出てきた。そして頭を思い切り叩かれた。

「お前何やってんだよ!」

 アドレナリンが出ているせいか、頭は感じなかった。こんな感情的になった彼は初めて見た。

「いや、別に……なんとなく」

 僕はそう答えた。本当に素直にそう思った。こんなに激昂している彼を理解できずにいた。

「なんとなくじゃねえだろ!」

 楽屋にはお兄ちゃんの声響いた。衝撃で頭が冷静になったのか、僕は少なからず怒りを覚え、言い返した。

「なんでそんな怒ってるんすか? 別に弁償すればいいでしょ? 俺があげたギターをクボタに壊されたこともあったし、今までに似たようなこと、何度もあったじゃないですか」

「あ、そっか」

 お兄ちゃんはそう言うと、すっと表情がなくなり、またステージへと戻っていった。僕は楽屋に一人きりになり、今起こったことを振り返りながら、静かに心拍数を整えてた。しかしやっぱり事態をうまく飲み込むことができなかった。

 楽屋の扉を開けステージに出ると、僕以外の三人がギターを囲んで項垂れていて、クボタは嗚咽を上げながら泣いていた。僕はそんな三人の姿を見て、無性に腹が立った。

「ステージでこんなことしてないで楽屋戻れば? こんなダセえとこ客に見せるなよ」

 フロアには対バンの人たちやお客さんが、酒を片手にワラワラとしていた。そんな中、このステージ上だけが明らかに異質な空気だった。僕は彼らを残したまま楽屋に戻り、ソファーに座り彼らが来るのを待った。

 わからなかった。たかが一本のギターが壊れただけで、何故あそこまで怒り、悲しめるのだろうか? 高いギターならまだしも、あれはおそらく五万円程度の物だろう。弁償すればいいだけの話だ。壊れた物に執着したところで何一つ生まれるものはない。彼女に金を借りて買ったから? そんなに大切な物だったら端からこんな所に持って来くるなよ。家で平和に女と酒でも飲んで、好き勝手弾いていればいい。そもそもロックバンドなんて、衝動的に物を壊すのが普通じゃないか。ライブハウスって元々そういう場所なんじゃないのか? 僕が今まで観てきたロックは、一体なんだったんだ? そんな想いでいっぱいだった。

 僕以外の三人は、いつまで経っても楽屋に戻る気配がなかった。僕は業を煮やし、楽屋を飛び出した。もう勝手にしやがれ。

 バーカウンターでビールを頼み、対バンの人たちと楽しく会話をした。少し心配されたりもしたけど、「別に大丈夫ですよ」と軽いノリで答えた。他の三人はいつの間にかステージから消えており、どこにいるのかわからなくなった。僕は気にせずにその場を楽しんだ。メソメソしたって何も解決しない。また新しく買えばいいだけの話だ。僕はアルコールで気分が良くなり、ギターを壊したことすら忘れ、その場を楽しく過ごした。

 
 翌日。
 ギターを買いに渋谷に来た。同じ物を買ってそのまま渡せば文句ないだろう。出費は痛いが、壊してしまったのは僕なのだから仕方ない。もうこれ以上ガタガタ言わせない。僕は駅近くの楽器屋に入り、店内を見渡しながら歩いた。しかし、店内を探し回っても同じ物が見当たらなかった。僕はムキになりながら、渋谷中の楽器屋を練り歩いた。お茶の水ほどではないが、ここにも何軒かの楽器屋があるのは知っていた。しかし、どれだけ探し回っても、クボタが使っていたギターと同じ物は売っていなかった。僕は肩透かしを食らった気分で立ち止まり、携帯を取り出し文章を打ち込んだ。

「昨日はごめん。頭が真っ白だった。とりあえずギター買いに渋谷来たけど、探しても売ってなかったから近いうちにどっかで買うわ。今日のスタジオは代わりのギター持ってくよ」

 メンバー全員のグループに送信した。ふう、と一呼吸置き、駅まで戻ろうとしたその時、携帯が震え出した。

「もういいよ、買いに行かなくていい。もう終わりだ。機材も捨てた。お前に全部壊された」

 クボタからだった。僕は送られてきた文書を何度か読み直し、頭に血が上っていくのを必死に抑えながら返事を書いた。

「もういいんだな? こんなことで終わるんだな? こんなしょうもない事で本当に終わっていいんだな? ふざけんな。俺はお前にギターも機材もあげたよな? 金も貸してたよな? ギター壊されても金が返ってこなくても俺は何も言わなかったよな? バンドの為になるならなんでもよかったんだよ。金もいらねえよ。そんなもんは死ぬほどどうでもいいことなんだよ。本当にギターが壊れたくらいのことで終わるんだな? そんなクソしょうもないことで諦められるんだな? 今まで頑張ってきたのはなんだったんだよ。何の為にここまでやってきたんだよ。全部無駄にすんのかよ? もういいわ。解散だわ。こんなことで終わるくらいなら最初っから無理だったんだよ。俺はいけると思ってたけどな。まじでふざけんな。死ね。死ね」

 送信したボタンを押した。読んだから読んでないかわからなかったけど、クボタとお兄ちゃんは会話のグループから抜けていた。僕のメッセージだけが残り、ホシくんからはなんの返事もなかった。

 僕はその場でホームページとSNSを開き、バンドが解散したこと告げた。何人かの知り合いが困惑していた様子だったが、無視することしかできなかった。
 世界で一番くだらない理由でバンドが終わった。今まで頑張ってきたのが本当にバカみたいだ。お世話になった全ての人に申し訳なかった。本当にクソだ。こんな理由でバンドができなくなるなんて、ダサいしバカらしいし情けないしアホらしい。軟弱な奴らにもほどがある。ここまで続いたことが逆に奇跡だ。

 バンドが終わっても、止まってはいられない。すごくなりたい気持ちは変わらない。僕は自分の音楽をやることにした。元々曲は作れるし、弾き語りを遊びでたまにやっていたので、いけるだろうと思った。言葉を持つことはもう覚えていた。この言葉で音楽を作って、言いたいこと喋って、自分が全て表現してしまてばいい。誰かの後ろで支えるじゃなくて、これからは自分が前に立つ。これは逆にチャンスなのかもしれない。今のこの気持ちがあればいける。あんな弱い奴らはもうどうでもいい。僕一人で次に進むんだ。軟弱金魚よりもすごいことをやればいいだけだ。

 タマがいる。タマがいればいい。彼女がいてくれるなら僕は幸せだ。だから大丈夫。何だってやってやる。彼女を幸せにする為に生きていくんだ。
 
 こうして軟弱金魚は解散した。タマと付き合ってからまだ一ヶ月の出来事だった。


 数日後、タマと会った。メールで解散したことは伝えていた。そんなに深くは聞いてこなかったけれど、とてもショックを受けている様子だった。僕らは横浜のホテルに行き、セックスをした。何度も繰り返しした。自分の中にある衝動と鬱憤がコントロールできず、全て彼女に向かってしまった、タマはそんな気持ちを汲んでくれていたのか、ただただやさしく僕を受け入れてくれた。

「あーあ」

 そう言いながら、タマはドサッと枕に頭を預けた。

「どうしたの?」と僕は尋ねた。

「なんか、うちのせいなんじゃないかって思っちゃいました。まだ付き合ったばかりなのに、こんなことになっちゃって」

 布団を被り、天井を見上げながら彼女は言った。

「そんなことないよ。遅かれ早かれこういうことにはなってたんだと思う。クボタは弱すぎたし、俺はもっと上を目指してガンガン行きたかった。音楽的にもそんなに長く続けられるとも思ってなかったし、みんなかなり無理もしてたし、たぶんここが限界だったのかな。仕方ないよ」

 僕はやけに冷静な頭でそう言った。そして彼女の頭と枕の間に腕を通し、抱き寄せた。

「……本当に終わっちゃうんですかね」と彼女小さく言った。

「終わりだよ、あいつがそう言ってたし」

「でもまだライブが残ってるんですよね?」

「それは俺一人で出るかな。弾き語りでテキトーにやって、色々話そうかなって」

「そうですか。……なんだか残念です」

 そう言ってしょんぼりとするタマに、かける言葉が見つからなかった。黙って髪を撫でていると、彼女は静かに口を開いた。

「……本当に、すごくカッコよかったんですよ? あなたたち。自分じゃわからないかもしれないですけど、本当にうちは、崇拝してたって言っても嘘にならないくらい、熱心なファンでした。軟弱金魚のメンバーなんかと付き合っちゃって、大丈夫かなって思ってたんですよ。あんなにカッコいい憧れバンドの、あんなにカッコいドラム叩く人と付き合ったら、嫉妬で頭おかしくなっちゃうんじゃないかなって」

 崇拝、憧れ、嫉妬――。自分たちの音楽なんて、自分ではよくわからない。ライブ中は必死すぎて、誰かに届いるという実感はない。見えない誰かに向かって、見えない銃をただ闇雲に打っているようなものだ。

「そんなに好きだったの?」

「好きっていうよりも、カッコよかったんですよ。周りの他のバンドよりも圧倒的に。だから売れちゃうと思ってたし、すごく遠いところにいっちゃうんだろうなって、覚悟してました」

「……そっか」

 そんな風に思ってくれてた人がいるなんて、誰が想像するだろうか。

「だから、残念ではあるんですけど、ほんの少しだけホッとしました。これで安心して普通に付き合えるなって」

「……軟弱金魚がなくなった俺でも大丈夫?」

 僕は恐る恐る訊いた。

「ふふ、大丈夫ですよ。うちはあなたと生きていくって決めましたから。バンドが無くなってもあなたはあなたです。バンドだけじゃなくて、あなたのファンでもあるんですよ?」

「そっか、……ありがとう」

 僕は涙が出そうになった。こんな言葉をくれる人は他にどこにもいない。彼女を強く抱きしめた。

「でも、一つだけわがまま言わせてもらってもいいですか?」

「うん、いいよ。何でも聞くよ」

 彼女はニコッと笑みを浮かべ、まっすぐ僕を見て言った。

「うちをしっかり愛してください。望むのはそれだけです」

 タマいてくれなかったら、どうなっていたのだろう。僕はこのまま、どこへ向かっていくのだろう。あのステージで輝いていた女の子と、絶対に交わることがないと思っていた人生が、色濃く混ざり合っている。

「幸せです、とっても」

 僕の胸の中でタマは言った。

「俺もだよ。幸せにしたい」

「心配いりませんよ。うちはいつでも幸せです。これからも勝手に幸せになりますから。あなたは好きに生きてください」

 本当に幸せだった。今までの人生では感じたことのない、生々しく痛みを伴うほどに強烈なもの。こんな気持ちにしてくれるのなら、もう他の事はどうだっていい。これさえあればいい。タマさえいてくれればそれでいい。ただこの幸せが、いつまでも続けばいい。今わかっているのはそれだけだ。本当にそれだけだった。

 あらゆるものを犠牲にして、この関係は成り立っていた。軟弱金魚の三人も、マコトさんも、僕は間違いなく傷付けてしまった。今頃どんな思いで生きているのか見当もつかない。でも、この抗いようのない強い流れは、自分ではもうどうすることもできなかった。

 素晴らしいものを体験すると、他のものが霞んで見えてしまう。一歩間違えると全てが霞んで、周りが何も見えなくなる。この時僕はそんなこと、知る由もなかった。

 
 立川のライブ当日。僕は一人で白いテレキャスターを背負いながら、ライブハウスに入った。エレキギターを背負って入り口を通るのは始めて、なんだが妙な違和感があった。それでもここはいつものあの匂いがした。

 僕は前日にこんなメールをメンバーに送っていた。

「本当に色々とすみませんでした。明日の立川のライブは一人で出ることにします。でも、もし万が一気が向いたら、立川まで来てくれませんか? クボタのギターは用意しておきます。これが最後のチャンスだと思ってます。俺はまだ全然諦め切れません。もし来てくれるならまた軟弱金魚で頑張りたいです。もし来なかったら、その時はキッパリと諦めます。本当に俺は売れたくて、上に行きたくて、必死すぎて、頭がどうかしていたんだと思います。待っています。最後に一度だけチャンスをください」

 ほんの少しの希望を託してみた。

 僕は一人でどうしたらいいのかよくわからず、ギター膝に抱るように持ち、楽屋の外で一人で弾き続けていた。オープンの時間を過ぎた頃、ホシくんがやってきた。

「おっす、ホシくん。……クボタたちは?」と僕は言った。

「わからない。とりあえず一人で来た。急にあんなことになって、俺どうしたらいいかわからなくて……」

 俯きながらベースを背負っている彼が、なんだか痛々しく見えた。

 その日のライブはフロアで行うという特殊なものだった。いつもとは違う雰囲気のセッティングに、なんだか周りもざわついている様子だった。ステージに誰でも上がっていいシステムらしく、十数人が壇上でお酒を飲んでいるのが見えた。一組目のバンドがそろそろスタートしようとしている。僕はトイレの前にある階段でテレキャスターを小さく弾きながら、クボタ兄弟が来るのを待った。僕らは二番手の予定だ。出演時間は、刻一刻と迫っていた。

 ――なにやってんだよ。馬鹿野郎。

 そうこうしているうちに、あっという間に出番が来た。クボタたちはまだ来ていない。セッティングしてくれているスタッフに「今日は他のメンバーはいません」と告げた。「どうしますか?」と訊かれたので、「ギターアンプとマイクだけください」と答えた。僕はギターをアンプに挿し、ドラムの椅子を客席の真ん中あたりに持ってきて、そこに座った。
 辺りが暗くなり始め、一度うるさくなったBGMが徐々に小さくなり、照明が僕を照らした。頭の中には伝えるべき言葉が見当たらなかったが、僕はそのまま口を開いた。

「あー、どうも、軟弱金魚でドラムを叩いているものです。今日は僕一人でここにいます。なんでこうなってしまったのかを、まずは説明します」

 ヘンテコなライブ始まり方をしたせいか、すぐに辺りはしんと静まり返った。

「つい先日、高円寺の方でライブがあったんです。僕はいつも通りにライブハウスに行き、いつも通り一生懸命演奏しました。なかなかいいライブだったような気がします。そして演奏が終わり、ステージを降りようとしたその時に、ボーカルのギターがステージに転がっていました。僕は何も考えずにそのギターを拾い、ステージの真ん中にポイッと投げました。そのギターは地面に着くと同時に、真っ二つに折れてしまいました。僕はそれを見てもあまり何も感じず、客席にお礼を行ってステージを降りました。しばらくするとメンバーがそのギターを囲って悲しんでいました。僕は無性に腹が立ち、こんなところでメソメソしてないでステージを降りろ、と言いました。彼らは僕を無視して、その場に留まり続けました。僕はそのままステージを降りました。それ以来、四人で顔を合わせていません」

 僕を囲んでいる数十人の人々は、黙り込んでこちらに目を向けていた。

「僕はギターを弁償して、また普通に活動しようと思っていました。翌日に買いに行ったのですが、同じものが売っていなかったので、その旨を連絡したところ、『もういい、終わりだ。お前に全部壊された』とボーカルから返事が来ました。僕は腹が立ってこう返しました」

 ポケットから携帯を取り出し、送った文章をそのまま読み上げた。

「返事はありませんでした。怒りのままに僕は解散を周囲に告げました。そこからはもう一人で進んでいこうと決心しました。あんな軟弱な奴ら、もうどうでもいいとやと。……でも、昨日ふと思ったんです。もしかしたら、なにか奇跡みたいなことが起これば、まだやるチャンスはあるんじゃないかって。あれだけ必死にやってきたメンバーなんだから、そういうことがあってもいいじゃないかって、最後の望みを掛けて連絡をしました。ギター用意して待ってるから、もし気が向いたら来てくれ、これで来なかったらもうきっぱり諦める、と。……来ませんでした。ベースのだけが一人やって来て、ボーカルと彼の兄であるギターはここにいません。僕らは二人では何もできません。だからこうしてここに一人でいます」

 涙が溢れた。

「バンドってこんなことで終わるんですね。こんなしょうもないことで、壊れてしまうんですね。僕は命をかけて音楽をやっていました。絶対に売れたくて、何がなんでも上に行きたくて、頑張って必死にガムシャラに続けていました。機材が壊れようが、身体がおかしくなろうが、頭がイカれようが、全く気にしませんでした。これしか生き方を知らないからです。僕は生きるなら本気で生きたかったんです。それなのに、ギターが折れた瞬間に、僕らの関係も壊れてしまいました。ロックってギターとか壊すものじゃないんですかね? 有名なレコードのジャケットで、思いっ切り地面に叩きつけてるあれは嘘だったんですかね? 僕にはわかりません。そんなに物が大切なら、うるさい音楽なんて始めからやるんじゃねえよって」

 流れてくる鼻水を啜り、唾を飲み込んだ。

「ボーカルの彼は天才でした。今まで色んな人のライブを見てきましたけど、一緒にやりたいと強く思ったのは彼だけでした。あんなに汚くてカッコいい男はたぶんもう現れない気がします。長くはできないだろうとは予想していましたが、こんなに早く終わるとも思いませんでした。僕はアルバム一枚だけでも残したいと常日頃から思っていましたが、それも叶いませんでした。バンドってもしかしたら、存在しているだけで奇跡なのかもしれないです。ましてやそれで成功しようなんて、夢のまた夢なのかもしれません」

 僕はEコードをゆっくりと強く鳴らした。

「なんで来ないんだよ、馬鹿野郎。今までの三年間はなんだったんだよ。何の為に練習してライブをしてきたんだよ。こんなところで終わってどうするだよ……。今後はどうなるのかわかりません。歌ってみようとは思っていますが、全然まだ何も見えていません。まさにノーフューチャーです。遊びで弾き語りをたまにやっていたので、それ用に作った曲を一曲だけやります。今日はありがとうございました。こんなところで終わってしまい、本当にすみません。軟弱金魚は、今この瞬間をもって解散ということにします」

 そう言い終えて、僕はそのまま曲を歌った。
 上手く歌えたかはわからないけど、歌い終わると拍手が起こり、なんとか一人でステージをやり切ることができた。ひどく重たい肩の荷がおりた。

 ライブが終わると何人かの人に話しかけられた。ドラムで出演した時にはほとんどないことだったので、不思議な気分だった。「絶対に歌った方がいい」と言われたけれど、僕はあまりピンとこなかった。

 ホシくんはいつの間にかいなくなっていた。今後彼はどうしていくのか、僕には想像することすらできない。

 僕らは四人はもう、二度と集まることはないだろう。思い返せばたった三年間の短い旅だった。あまりにも呆気ない歪な幕切れ。

 全ての準備が整い、まさにいざ飛び立たんという時だった。大事な一本の柱を、僕は折ってしまった。
 そのまま僕らは、バラバラになっていった。 
 もう直すことはできなかった。


「どうでした? ライブの方は」

 大和という街をタマと二人で歩いていた。

「なんとか一人でやり切ったよ。ひたすら喋って、最後に一曲だけ歌って、それでおしまい」

「へぇー、頑張りましたね。うち、あなたの歌好きですよ」

 タマはいつものようにニコッと笑った。

「うーん、声がいいとかたまに言われるけど、自分ではよくわからないんだ。曲も作れるけど、なんか売れようとか上に行こうとかは、全然思えないっていうか」

「いいじゃないですか。ゆっくり少しずつやっていきましょう。うちも側にいますし、ね?」

 彼女はそう言うと、繋いでいた手を大きく振った。

「そうっすね」

 と僕は答えた。

 手を繋いで街中を歩いているだけで、身体中から気体となった幸せが溢れ出そうになり、必死にそれを抑えながら進む。なんでこんな風になるのかは自分でもよくわからなかった。こんなにまで惹かれてしまうのは自分でもおかしいと思う。「運命の人」なんて恥ずかしくて安っぽいけど、そう思ってしまうのが一番わかりやすく、一番しっくりきた。バンドが無くなってしまったことなんて、タマといる時だけはすっかり忘れてしまえた。 

 僕らはそのまま映画館へ向かった。タマが全てを欠かさずに観ているという監督のアニメーション作品。スクリーンの中から飛び出てきたような彼女の、とてもらしいチョイス。僕も好きな監督だったので、断る理由はなかった。内容は、戦闘機を作る寡黙な男と、身体を患った美しい女の恋物語。僕は食い入るようにスクリーンを眺め、隣にいるタマとずっと手を繋ぎ、時折り何かを確認するかのように、力を込めて握りしめた。

『生きて、あなたは生きて』

 映画のラストシーンにそんなセリフがあった。僕は涙しながら、これは自分の為に作られた映画だ、なんて本気で思ってしまった。

 生きていく。例え大切な人が亡くなっても、例え大切なバンドが無くなっても、生き続けなければならない。生きていく為に、今ここで息をしているのだから。


「いい映画でしたね」

 僕らは近くのコンビニでビールを買い、海が見える橋の上にいた。

「うん、めちゃくちゃ良かった。今まで観た映画の中で一番だったかもしれない」

 僕はビールを飲みながら言った。

「うちもです。今からまた一回観たい気分です」

 アルコールが余韻を増幅させ、全身に熱が帯びていくのを感じながら、僕らは海を眺めていた。

「初めて一緒に観た映画がこんないい作品で、なんか、すげー嬉しいよ」

 僕はそう言いながら、目が潤んでいくのを感じた。

「うちもとっても嬉しいです」

 僕らはそのまま抱き合い、キスをした。通行人に見られても全く気にならなかった。海には船の光、空には大きな月、そして街の灯りとそれを反射した水面がキラキラと輝いていた。

「生きなきゃなあ」

 船が音を立てて走っていく。

「大丈夫ですよ。うちが付いてますから」

 僕らはそのまま、しばらく海を眺め続けてた。
 
 そうだ、タマが側にいてくれるなら、きっと大丈夫。運命の人なのだから。

 
 物語は進んでいく。

 弾き語りで轟音祭に出ることになった。僕はアコースティックギターを持ち、一人でスタジオに入り、何時間も歌をうたい、そして曲作りをした。

 普段生活している中で曲をイメージし、メロディと歌詞を頭の中で作っていく。忘れないように歌詞だけはメモしておき、歌詞を見ても思い出せないようなメロディは捨てていく。そうやって日常的にできる曲の断片は、おもしろいように増えていった。もしかしてこれってすごいのでは? と自惚れつつ、曲をまとめる為にやっとここでギターを持ちスタジオに入る。ノートと睨めっこしながら、一人であーでもないこーでもないと格闘し、なんとか形になる。そこから練習する中でまた少しずつ変化していき、歌詞を見なくても歌えるようになったらようやく完成度いったところ。そうやって少しずつ自分の曲を作っていった。
 歌っている時の方が、今までのドラム練習より時間の流れが早く感じた。なんだか練習というよりも遊んでいるような感覚だった。歌うことは昔から好きで、中高生の頃は遊びと言えば基本カラオケだった。そのせいかもしれない。自分の曲を歌うという行為は恥ずかしいけれど、表現をしているという実感がすごくあった。良くも悪くも、全てをさらけ出している感覚で、開放感がある。

 一人で向かうライブハウスは、バンドでやる時の心境とはまるで別のものだった。目の前にいる人達を殺すくらいの勢いで上がっていたステージは、一人で立つにはとても広く感じた。

「軟弱金魚、残念だったね」

 バーカウンターに座っていたヒデさんが話し掛けてきた。

「そうですね。まぁでも、しょうがないっす。なんとか立て直そうとしましたけど」

「なんかあったの?」

「色々ありましたけど、喧嘩別れみたいなもんですね。しょうもないっすよ」

 僕がそう言うと、ヒデさんは、ふーん、と言いながらタバコの煙を天井に向けて吐き、言葉を続けた。

「クホダはもうバンドやんないのかな?」

「たぶん、やらないと思います。あのメンバーだからやってたようなもんなんで、他の人とやるとかは考えにくいですね」

「そっかあ、勿体ないな」

「そうですね……」

 二人で静まり返ってしまった。

「っていうか俺、彼女できたんすよ」

 話題を変える為に明るいトーンで言った。

「ああ、あいつだろ? ……聞きたくねーよ、今そんな話」

 そう言うと、ヒデさんはスタスタとどこかへ行ってしまった。なんだか様子がおかしかった。タマと付き合ってから、周りの態度が僅かに変化したように思う。
 ヒデさんはタマをとても可愛がっていた。中学生の時から知っている生徒だから当たり前かもしれないが、それ以上の何か強い絆を感じた。タマも口には出さずとも、彼を慕っているのかわかった。僕がタマと付き合うのは、彼女と親しい人にとって、あまり好ましいことではないのかもしれない。恋愛感情ではないにしろ、子を思う親心のようなものがあるのだろう。ヒデさんの言葉には少なくない棘を感じた。
 それはきっと、彼女の人を惹きつける力がそうさせているんだ。良くも悪くも、近くにいる人間を狂わせてしまう、魅惑的な力。今まで音も立てずに規則的にに回っていた歯車が、少しずつ歪んでいくのを肌で感じた。
 
 僕は一人でステージに立ち、自分の曲を演奏した。声とギターだけでは誤魔化しは効かない。どんな曲をやるのかも、何を喋るのもかも、全て自由な三十分間。あまりにも思い通りで、誰に頼ることもできない、吐き気がするほど孤独な時間だった。

 僕は恐怖心を抱いた。一人で舞台に立つということは、逃げ場がないということだ。ドラムを叩いているだけでは絶対に感じることのできない、抱え切れないほどの重圧だった。クボタはいつもこれと戦っていたのだろうか。売れたい売れたいと躍起になっているバンドのプレッシャーは、どれだけ重く苦しいものだったのだろうか。

 ステージに一人で立ってみて、色々なことがわかった。後ろでメンバーのケツを蹴っているのがどれだけ無責任で楽なことか。人に注目され、自分の作ったものを披露することが、どれだけ怖いことか。僕はこれまで何もわかっていなかった。もうステージに立ちたくないと思ってしまった。それはかなり衝撃的なことだった。
 誤魔化しながらその後も何度かステージに立った。しかし恐怖心を拭いさることができなかった。立ちたくて立ちたくて仕方がなかった自由な遊び場が、公開処刑台のように思えてしまった。音楽をやりたくてバンドがやりたくて仕方がなかったのに、そんな気持ちは、まるで通り雨でできた虹のように、一瞬のうちに消え去ろうとしていた。
 なんでこんなことになっているんだろう? ついこの間までは、全てを手に入れたと思っていたのに。怖いものなんて、何一つなかったのに。


 タマとは会う度にセックスをした。シラフではいられず、一緒にいる時は常に酒を飲んでいた。二人で眠る時に「このまま時が止まればいいのに」と、何度も何度も思ったけれど、必ず朝はやってきた。彼女と別れの時間になる度に、心底絶望的な気分になった。

 家にお邪魔すると、やはり家族みんな仲が良く、やはり彼女は両親にとても愛されていた。お母さんはぶっきら棒だけど、全ての言動がとてもやさしい。お父さんは少し変わっているけど、ユーモアとパワーに満ち溢れた人。僕は話していて、なんだか申し訳なさでいっぱいになった。
 バンドもなくなって、就職もしてない自分がなさけなく思えた。両親の彼女を想う強い気持ちが伝わってくる度に、僕の孤独感はくっきりと浮き彫りになった。彼女の人を惹きつける力は、両親にも例外なく働いていた。やさしい言葉をかけられても、その奥にはジェラシーにも似た強固な親心が感じられ、頭では違うわかっていても、僕の心にはそれが重くのしかかってきた。


 ある日、タマの誘いでバーで歌うことになった。彼女は月に数回、ライブハウスとは違う場所で弾き語りをしていた。
 付き合う前に一度、一人で観に行ったことあった。その時僕は「あ、この人は天才なんだ」と素直に思った。バンドでの演奏とはまるで別物で、ギターと歌だけのシンプルなもの。しかし退屈することはなく、気が付くと僕はまた彼女に釘付けになっていた。まるでひらひらと海をたゆたう海月ようなステージだった。

 バーに着くと、タマを観にきたお客さんが何人かいるようだった。固定客みたいな人らしく、素直にすごいと思った。彼女は僕のことを「マイハニーです」と紹介した。「何してる人なの?」と聞かれたけど、「うーん、ドラムやったりしてました、昔」と答えるしかなく、悲しくなった。僕は萎縮しながらも談笑に加わり、アルコールを飲んだ。

 出番が来てステージに立った。酔っぱってまともにギターも弾けず、歌詞も出てこない。そして何よりも、一人でステージにいることが恐ろしくて堪らなく、途中で歌うことすらできなくなってしまった。

「僕は以前バンドをやっていました。でも今の僕には何もないです。ただスタジオで働いてるだけです。大した曲も歌えません。ステージに上がるような人間ではありません。とても大好きで自慢の彼女がいます。しかしいくら彼女が輝いていても、そんなものは僕にはなんの関係もありません。ただただ眩しくて、真っ直ぐ見ることができません。僕には今なにもありません」

 なんとかやり終えて、次にタマの出番になった。相変わらず彼女はステージ上で輝いていた。一人でもバンドでも彼女の魅力は十分に伝わる。完全に負けたと思った。才能が違いすぎる。僕には一人で歌う才能はない。自分がメインになって音楽をやることができない。恐ろしくて仕方がない。ドラムだった時は怖いものなんて、何一つなかったのに。

「今日という日が楽しみで仕方がなかったです。うちを見てくれて、うちと出会ってくれて、ありがとうございます。うちは今、このステージに立つ為だけに生きています」

 この日を最後に、僕は歌うことをやめた。


 新しくドラムでバンドを組んでみようと思った。やはり僕にはそれしないのかもしれない。前に立つのではなく、後ろで支えるべきなんだ。しかし、そんなことを思っても、メンバーすら見つからなかった。SNSを通してドラム募集のバンドに会いに行った。しかし、何度かスタジオに入って辞めてしまった。
 軟弱金魚をやっていた時とは決定的に何かが違った。あのバンドはスタジオの練習でも命を削るように演奏していたけれど、他のバンドはそうではないようだ。熱が全く違っていたし、メンバー同士の目には見えない信頼感のようなものがなく、居心地もあまりよくなかった。

 高校の同級生のホシくんとクボタ。そしてクボタの家族のお兄ちゃん。生まれて初めてのライブで、たまたまクボタ達と対バンした僕。今にして思えば、かなり奇跡的なメンバーだったし、とても濃い繋がりだった。偶然とは思えない、なにか目には見えない力が働いていたようだった。

 戻りたい。でも戻れない。軟弱金魚さえあれば、あの時に戻れれば、ギターなんか壊さずに普通にライブを終えていれば、あの日トリじゃなければ、そもそもあの日のライブがなければ、ギターをちゃんと弁償していれば、直接会いに行って土下座でもしていれば許してくれたかもしれない。悪気はなかった。本当にただなんとなくやっただけだった。
 クボタに連絡をしよう。今からでも謝れば、許してくれるかもしれない。もう無理だ。キツい。苦しい。軟弱金魚が復活すればすべてが元に戻る。
 僕はメールを打った。

「突然ごめん。元気? いきなりなんだけど、もしよかったらまたバンドやらない? あの時は本当に悪かった。頭おかしくなってて、どうかしてた。ギター壊すつもりなんて全然なかったんだ。とりあえず俺今死にたくてさ。なんかどうしようもなくて。とりあえず話すだけでもいいから、一度会ってくれない?」

 送信ボタンを押した。一時間経っても二時間経っても返事はなかった。寝て起きても返事はなかった。一週間経っても、返事はなかった。


 すごい早さで過ぎていった時間。その中で積み上げていった物。それは、いとも簡単に崩れ去っていった。僕はまたすぐに別の物を積み上げたけど、形が気に入らずに壊してしまった。これじゃないこれじゃないと別の物を積み上げてみても、しっくりくる物は何もなく、僕はそれを壊し続けて、もう積み上げる力はなくなってきていた。何もない床を、ただ黙って見つめることしかできなかった。

 どんどん悪くなっていく状況、そして、何一つ変わらないタマ。それどころかどんどん大きくなっているように見えた。バンドでは相変わらず自由にやっていて、一人でも堂々とステージに立つ彼女。周りを大切にし、大切にされている彼女。バンドメンバー、ヒデさん、ライブハウスのスタッフや周りにいる他の人達、タマに関わる全ての人は、少なからず彼女のことを愛していた。更に両親からの愛はとてつもなく大きく、今の僕にはそれが重く鋭利なプレッシャーでしかなく、近寄り難い存在になってしまった。彼女を羨み、寄せられる好意に嫉妬し、自分と比較し、心はズタズタになっていった。

 今の僕には何もなかった。強いと思っていた自分は幻想で、バンドがあったから、クボタという才能があったからあんなに自信を持てていたんだ。それらが無くなって、素っ裸で戦場に放り出されたように、とてもつもない心細さが常にまとわりついて離れなかった。

 だんだんと視界がおぼろげになっていった。僕はもう、音を鳴らすことをやめていた。仕事中も視界に靄がかかっているような感覚があった。仕事が全く手につかなくなり、些細なミスを頻発した。音楽を聴くのもしんどく、うるさい音楽は聴けなくなり、やさしい歌声のバンドのアルバムを繰り返し繰り返し聴いた。それ以外の音楽は受け付けられなくなった。スタジオのロビーで話している客の話しも、全てどうでもよかった。くだらない会話ばかししている。音楽で食うとか食えないとか、そういうような趣旨の話をみんなしていた。それを聞くたびに絶望的な気分になった。そんな世界で勝負するには武器がいる。僕にはもう武器がない。ステージに立つことはもう不可能になっていた。

 ジェットコースターのような目まぐるしい日々が過ぎ、メリーゴーランドのようなゆっくりとした生活になった。ふと乗っている馬を見てみると、ドロドロに腐敗して真っ黒になっていた。臭くて気持ち悪くてスピード感のないメランコリックな乗り物は、僕に苦痛しか与えてはくれなかった。
 すごい速さで落ちていく僕。輝きを増していく君。クボタやお兄ちゃんやホシくん、そしてマコトさんから恨まれているような感覚。そこからくる自己嫌悪、罪悪感、負い目、焦燥。頭の中では、いつしか誰かが僕を責めるような声が聞こえてくるようになった。

「お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ」

 タマとは会う度に会話が少なくった。とりあえず身体を重ね、アルコールで現実逃避をすれば、少なくともその瞬間だけ何もかも忘れることができた。しかし何の生産性もない快楽は、繰り返すほどに虚しさを増していった。シラフに戻り、別れる時には絶望感に苛まれ、それを何度も繰り返し、あれよあれよと泥沼に引きずり込まれていく。身体を重ねる度にエネルギーを吸い取られているような気がした。それほどに僕らは反比例していった。僕の生命力を奪って大きくなっていく、猿や蠍や熊のように攻撃性のある、彼女はそんな怪獣だ。

 彼女に怒りを覚え始めたのは、この頃だった。俺はこんなにボロボロになっているのに、何故こいつは変わらないんだ、と。それどころか、むしろどんどん成長している。ジッピーもフリーペーパーもに載ったり、企画が成功したりと上々だった。僕は彼女のステージを観なくなった。ライブ前に一緒に居ても、ライブ中は別々に過ごし、彼女のライブが終わるのを待った。それは今まで感じたことがないほど侘しく、はっきりと実感できる孤独な時間だった。

 思えばタマと付き合いしてから、全ては変わってしまった。こうなる予感があったから避け続けてきたのに、僕はまんまと彼女の誘いに乗ってしまった。いや、一緒になろうと懇願したのは僕の方だ。彼女はただ受け入れてくれただけ。何も悪いことはしていない。責める理由も資格もない。全部僕が悪いだけ。


 僕はもうすぐ二六才になろうとしていた。気付いたら僕の手には何も残っていなかった。唯一残っていたものは、もう見ることすら苦痛になっていた。僕はここで一体、何をやっているんだ?

 ふと、軟弱金魚のことを思い出し、八王子で録らせてもらった音源を初めて聴いてみた。それは自分がやっていたとは思えないほどエネルギーに満ち溢れており、衝撃的なものだった。
 クボタの汚くも美しい歌と才能、それ最大限に引き立てるお兄ちゃんの轟音とテクニック、ホシくんの不器用だけど誰にも真似できない真っ直ぐなベース、感情的で殺気立った荒々しい僕のドラム。僕は最後まで聴くことができずに停止ボタンを押し、そのままCDをゴミ箱に投げ捨てた。
 
 軟弱金魚はもうない。
 もう絶対に戻ることはできない。
 全部僕が壊したんだ。
 僕にはもう、何も残っていない。

 いらなかったんだ。僕がいなければ、きっとバンドは続いていただろう。最初から生まれていなければ、誰も不幸にならなくて済んだ。存在自体が間違いだったんだ。遅いかもしれないけど、やっと気が付いた。


 死ぬことにした。二六才の誕生日に死ぬ。僕はロックスターなんかじゃない。二七才までなんか待っていられない。公園かどこかで、マイクケーブルを首に巻いて死のう。僕は一人で、そう決めた。

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