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自伝的小説 『バンザイ』 第九章 ぼくたちの失敗


  9

 誕生日はタマと過ごした。いつものように横浜でデートをし、ホテルに行った。そういうことをする気にもならなかったけど、なんとなく流れで一度した。そのあとはずっと横になっていた。


「元気ないですね」

「そんなことないよ」

「だって、今にも死んじゃいそうな顔してる」

「そう?」

「うちと一緒にいても楽しくないですか?」

「……そんなことないって」

「じゃあ、はい。ギューってしてあげます」

 タマは僕に手を伸ばし、そのまま抱きしめた。

「うちはどこにもいきませんから、安心してください。本当にあなたのこと、大切にしたいって思ってるんですよ?」

「……うん」

 タマの声は、空気を振動させただけで、僕の耳にはもう届かなかった。

 彼女を家まで送った。上がっていくことを勧められたけど、断って電車に乗った。彼女に纏わる全てをもう見たくなかった。全てを吸い尽くされていた。


 そのまま電車に乗り、生まれ育った街目黒に来た。重い足取りで坂をしばらく降っていき、大きな交差点を左に曲がる。昔よく行っていたラーメン屋で最後の晩餐をすることにした。

 ガラガラっと扉を開け、カウンターに座った。メニューを見ていると、水を握った店員の手が伸びてきたので、ふとその人物の顔を見ると、小学生の頃にいた店員で驚いた。過ぎた年月分だけきっちり老けていたその人は、今、麺が茹で上がるのをじっと待っている様子だった。ずっとここで変わらずに同じことをやり続けていたのか。素直にすごいと思った。味は当時のから何一つも変わっていない、素朴な醤油ラーメンだった。器を空にし会計をすると、その店員は僕を一瞥し、ありがとうございました、とあの頃の記憶と同じ声で言った。

 近くコンビニで適当に酒を買い、飲みながら公園まで歩いた。一本目を公園ベンチでゆっくりと飲み干した。二本目を開けながら、車椅子用のトイレに足を運び、横開きのドアをスライドさせると、六畳ほどのスペースにトイレと洗面台があった。少し傾いた鏡で顔を見てみると、今にも死にそうな顔をした僕がいた。早く楽にしてやらなければ、と思った。

 家で書いてきた遺書を取り出し、目に付きやすそうな床に広げて置いた。八の字巻になったマイクケーブルを鞄から取り出し、長さを調節し大きな黒い輪っかを作り、胸元あたりにあるトイレのパイプに引っかけた。高さは足りなかったが、座ったままの状態で吊っても死ねる、という話はネットなどでよく目にしていた。輪っかを引っ張り強度を確認すると、ギシギシとゴムが軋む音がした。おそらくこれで準備は整った。

 便座に座り一息付く。あまりにも冷静な自分に少し驚いていた。これから死のうとしているというにも関わらず、恐怖心はまるでなかった。なによりも安堵が強く、早いところケリをつけてしまおう、と思った。二本目の酒を飲み干すと、酔いも回ってきた。このままなら楽にいけるかもしれない。

 ——まさか本当にこんなことになるとは。

 昔から死にたいとはよく思っていた。長生きをするつもりもなかったし、三十才あたりで終わるだろうとは予想していた。しかしいざその時が来ると、なんだか不可思議だった。目で映像は見えているけど、その場に自分がいない感覚だった。まるで映画のワンシーンをダイレクトに見ているようだ。現実感も恐怖心も全くなくなっていた。本当に現実なんだよな? これ。

 ケーブルを首に括り、少し体重を乗せてみた。ギシギシと音を立てたケーブルが食い込んでいく。喉が締めつられ、呼吸ができなくなりそうになる。

 なんとなくいけそうな気がした。思い切り体重を預ければきっと意識は飛ぶだろう。意識さえ無くなってしまえば、あとはもう時間経過とともに脳と心臓が止まるだけだ。これで終わる。もう何も考えなくていい。

「先立つ不幸をお許しください」
 
 不自然とも言えるほど自然にその言葉が出てきた。手を合わせ、両親と神様らしき存在に心の内で懺悔した。もう余計な感情はない。これで終わりだ。僕が消えればきっとみんな清々するだろう。音楽も恋愛も、ハナから手を出さなければよかったんだ。そもそも生まれてしまったことが、もう間違っていたんだ。

 ——さようなら。本当に一瞬だったけど、気が触れてしまうほど幸せでした。

 ふーっと息を吐き、今度は倒れ込むように、全体重を乗せた。首元のケーブルが僕を持ち上げるように食い込んだ。苦しさに顔が歪み、気道が塞がれ呼吸ができなった。さっきの何倍もキツい。もう少しの辛抱だと思い、さらに体重を乗せていく。苦しさが増すのと反比例するように、意識が遠のいていき、視界が暗くなっていった。

 これでオサラバできる。さようならだ。もし生まれ変わったら、次はこそは——。

 意識が、消える——。

 その瞬間、これまでに感じたことのない恐怖が全身を駆け抜けた。
 そのあまりの恐ろしさに、思わず横にあった手すりに捕まり、身体を持ち上げてしまった。

「……はぁ、……はぁ、……なんだ、今の」

 呼吸が乱れ、視界はボヤけ、頭がクラクラしていた。喉と首がひどく痛む。何が起こったんだ。呆然としているとポケットの携帯が震えた。
 タマからのメールだった。

「無事に帰れましたか?」

 こちらの事態を知る由もない、あまりにも平穏で日常的な連絡。こちらの苦しみは一切届いちゃいない。もしこの扉を開けた先にタマがいたら、彼女は僕に何と言うのだろう。

 先程の恐怖が拭えなかった。この世から居なくなる瞬間は、あんなにも暗く恐ろしいのか。もう二度と覚めない真っ暗闇。遠ざかっていく現実。意識が途切れようとした刹那に現れた、全身を駆け巡るどす黒い恐怖。今まで死ぬことを怖いと思ったことはなかった。実際にケーブルで首を括っても何も怖くなかった。
 しかし今、耐え難い恐怖心が目の前に現れてしまった。これに比べたら今までの怖い思いなんて、ただの平凡な日常の一ページだ。死を最後の希望だと思っていたのに、希望すらも裏を返せばただの絶望だったのか。

 その後は、何度やってもうまくいかなかった。恐怖心でうまく体重が乗せられなかったのかもしれない。何度も繰り返しているうちに、喉の痛みが耐え難いものになった。個室の鏡で見てみると、首には引っ掻き傷のような赤い線が、何本も入っていた。もうこれ以上は続けられないかもしれない。

 その時、突然ドアをノックする音が響いた。真夜中だというのに人が来てしまった。もしかしたら警察かもしれない。誰かに見られて、通報されたのかもしれない。急いで荷物をまとめ慌てて外に出ると、ホームレスらしき人が少し離れたところに立っていた。

「なんだー、人がいたのかあ。足悪いから俺いつもここ使ってるんだよ」

 と言いながら、僕の横をのそのそ通り過ぎ、個室に入っていった。もうダメだと思い、その場を離れることにした。

 唾を飲む度に痛みが走る。頭に血液が上手く回っていないのか、立ちくらみがひどい。体力もかなり消耗していた。
 首吊りは簡単で意識を失う時は気持ちがいい、なんて聞いたことがあったけれど、あれは全くの嘘っぱちだった。あんなものは息をしている人間が、何の決意も絶望もなくほざいた戯言だ。耳障りのいい詐欺師の宣伝文句と一緒だ。

 まるで死刑を望んだ殺人者が、無期懲役を宣告された時と同じような気持ちになりながら、最終電車に乗り家路についた。

 布団に横になり、目を閉じると涙が溢れてきた。死ぬことすらできないなんて、考えたこともなかった。そんな話聞いたこともない。テレビのニュースではいつも成功した人だけが報道されていた。その裏には、どれほどの悲しい未遂が存在していたのだろう。僕と同じように、死ねない現実に絶望したのだろうか。
 喉の痛みでその日はなかなか寝付けなかった。部屋の闇に存在ごと溶け込んでしまいたかった。

 

 そこからはあまり覚えていない。毎日死ぬことを考えた。もう一度同じ公園に行き、同じように首を絞めたけれど、結果は同じだった。人は簡単には死ねない。眠るように死ぬことなんてできない。信じられなかった。

 次に決行しようと思ったのはバイト日だった。その二日前、鬱々とした気持ちで全く仕事が手につかず、スタジオ予約をミスってしまった。交代でハルさんが現れた時、彼は呆れたような顔で僕を詰った。普段なら笑って終わるようなやりとりも、今の僕にはとってはかなりキツく、致命傷のようなダメージをもらってしまい、もう彼と会いたくないと思ってしまった。殺されてしまうような気がした。

 そして二日後、自転車で職場に向かっていた。バイクは集中力を用するので、乗ることが困難になっていた。その日もハルさんと交代の時間に顔を合わせる予定だった。しかし、会いたくない気持ちが店に近付くにつれて高まっていき、ピークを迎えたころ突然、「今から死ななきゃ」という考えが頭に浮かんだ。そしてそのままコンビニに立ち寄り酒を買い、蓋を開けながら進路を変え、導かれるように目黒に向かった。自転車で行くにはなかなかの距離だった。途中で携帯が震えたが、こんな物はもうどうでもいいやと、そのまま地面に叩きつけて破壊した。画面が割れてもまだ光っていたそれを、息の根を断つように何度も踏み付けた。その行為をしている自分に狂気を感じ、思わず笑ってしまいながらペダルを漕いだ。これで邪魔になる物は無くなった。

 公園に着く頃には、酔いと長時間の運動が重なりフラフラになっていた。

 僕は以前と同じように首にケーブルを掛け、そこに体重を乗せて意識が無くなるのを待った。よく回ったアルコールは、トラウマとも呼べる恐怖心を虚ろなものにしていた。僕は泥酔して眠る時のような気持ちで、目を閉じてケーブルに身を預けた。

 ふと目が覚めた。意識が飛んでいたようだ。しかし視界が多少点滅しているような感覚があるだけで、しっかり生きていた。綺麗に意識が飛んだのは初めてだった。僕は先程と同じやり方でまた体重を乗せた。 

 意識は——飛ばなかった。何度も同じように、たまに角度を調節しながら、体を預ける。しかし、どれだけやってもうまくいかず、一瞬意識を失いかけるも、さっきのように飛ぶことはなかった。何度も何度も意地になって繰り返す。しかし、やはりうまくいかない。やがて喉の痛みが激しくなり、体重を掛けることができなくなり、また同じ結果になった。

 バイトも飛ばした。携帯も壊した。全てを捨てる覚悟を決めたのに、またダメだった。どうしようもない。こんなに難しいなんて、死にたいのに死ねないなんて、何で誰も教えてくれなかったんだ。もうどうすればいいのかわからない。途方に暮れる他なかった。

 もう電車に飛び込んで死んでしまおう。家族に迷惑が掛かっても関係ない。死ねば何もかも忘れられる。確実なものを選べば一発だ。そう思い、トイレから出た。そして駅に向かって歩き始めた——。

 その時、一台の車が音を立てて僕の目の前に停まった。中から勢いよく飛び出して来たのは、兄と姉だった。事態が飲み込めずに呆然としていると、兄が近付いてきて「頼むからやめてくれ。な? 頼むよ」と言った。何年も会話をしていないのに、泣きそうな顔をしながら僕の腕を掴んでいた。僕は無言のまま俯き、何も言い返せなかった。そしてそのまま車に乗せられた。

 そこから家に着くまでの間、目が見えなくなったような感覚があった。ドアにもたれかかり、窓を眺めていても、何も見えない。車の移動する音と、兄と姉がたまに発する声が、暗闇の中で脳内に響いていた。

 家に帰ると母親が泣いていた。僕は涙すら出なかった。私を悲しませたいの? と訊かれたが、何も答えなかった。彼女の手には僕が書いた遺書があった。部屋に置いたままにしていた物を見られたらしい。何を書いたかはよく覚えていない。

「私のことが好きなら、お願いだから悲しませるようなことしないで……」

 と言いながら、彼女は泣いた。それを見ていたら、僕も一筋だけ涙が出た。

 兄と姉が現れたのは、いつまで経っても職場にやってこない僕のことを心配したアキさんが、家に連絡をしてくれたからしい。その後母親が僕の部屋を調べると遺書が見つかり、そこに死に場所が書いてあり、同じ家に住む兄と別の場所に住む姉が集合し、一緒になって駆けつけてきた。もし遺書に死に場所を記していなかったら、もし会えずにすれ違っていたら、僕は電車に飛び込んでいたはずだった。


 バイトをしばらく休ませてもらうことになった。ハルさんは当日、僕が発見される前に家まで駆けつけてれたらしい。何事にもあっけらかんとしている彼からは想像し難い行為で、泣けてしまった。しかし、真逆のような反応もあった。エノさんが怒っているそうだ。そんな話を聞き、胸がずきりと痛んだ。現実から逃げるような奴はとっとと死ね。そんな風に思ってるのかもしれない。

 謝らなくては。でもバイトはしばらく休まなきゃならない。クビになったらどうしよう。他に働き口なんて見つかるのか? あんな最高の職場もう他には絶対にない。嫌だ。でもバックれてしまった。死ねないなんて思わなかった。こんなに死ぬのが難しいなんて、知らなかった。誰もそんなこと教えてくれなかったんだ。
 現実から遠ざかろうとすればするほど、逆にどんどん追い詰められていく。もうこれ以上、どの方向にも逃げ道がない。


 病院に行くことにした。もう全てが限界だった。病院に行くなんてダサいかもしれないけど、専門家や薬に頼るということ以外に、この苦しみから解放される術を見つけられなかった。助けて欲しかった。親に付き添ってもらい、大きな大学病院に来た。 

 まずは待合室で紙とペンを渡された。アンケートのように丸罰で問いに答える形式で、それぞれに点数があり、その合計点で心理状態を判別するというものだった。最低の気分で答えていくと、全てがネガティブになり、点数は限りなく満点に近い鬱だった。そうか、今こんなに辛いのかと、自分事ながら思った。
 そしてその紙を提出し、しばらく待つと、部屋に呼ばれたので、一人で入った。そこには白衣を身に纏った、若々しく爽やかそうな先生がいた。

「今日はどうされました?」

 とてもやさしい声で質問された。

「いや、あの、なんていうか……」

 僕は口籠もりながらも、なんとか今この状況に至るまでの経緯を話した。一度話出すと止まらなくなってしまい、二十分以上は話し続けたと思う。その間、ずっと先生は優しく相槌を打ってくれていた。なんとなく、この人に任せれば大丈夫だ、という安心感を持つことができた。

「はい、ありがとうございます。ではですね、今の話をまとめてプロの専門の先生にお伝えしますので、少々お待ちください」

「あ、そうなんですか」

 この人よりすごい人がいるのなら、本当になんとかなるかもしれない。

「大丈夫ですよ。その先生に全てお任せすれば必ず良くなりますから」

 そう言うと、彼はカルテのような物をまとめ始めた。僕は、ありがとうございました、と小さく言い、部屋を後にした。

「随分時間かかったね」

 母親は困ったような顔をして言った。

「ああ、なんか色々話してた」

 僕は椅子に腰掛け、壁にもたれ掛かり、目を閉じて呼ばれるのを待った。しばらくすると名前を呼ばれたので、今度は別の部屋の扉をノックした。

 中に入ると、いかにも医者らしい見た目をした、真面目でメガネの無愛想そうな男が座っていた。僕は一瞬で嫌な予感がした。

「どうぞ、座ってください」

 その男に言われるがまま、僕は腰を下ろした。

「えー、とりあえず話読ませてもらいましたけど、症状としては、特に異常はありません」

 男は表情一つ変えず、ハッキリとそう言った。

「……は?」

 何を言ってるのかわからなかった。

「内容もまぁ、普通の悩み事のようですし、幻覚や幻聴も見受けられませんので、特にお薬もお出しできません」

 段々と語られるその言葉の音だけを聞いていた。少し遅れて、段々と怒りが込み上げてきた。

「いや、あの……今めちゃくちゃ辛くて、死にたくて死にたくて、どうしようもないんですけど……」

 声を震わせながら答えた。

「ええ。その死にたい気持ちっていうのは希死念慮と言います。特に病気ではないです。もしその気持ちが抑えられないんでしたら、一ヶ月ほど入院してもらうしかありませんね」

 入院——。それはしたくなかった。一ヶ月も入院したらバイト先に多大な迷惑がかかる。そんなことしたらいよいよクビになってしまう。そもそも家以外の場所に寝泊まりすること自体に抵抗があった。
 そんなことよりも、顔色ひとつ変えずにこんな言葉を発している目の前の男を、ぶん殴りたくて堪らなくなった。

「あの……、さっき若い先生に色々話聞いてもらって、少し楽になったんですけど、あとは全部プロの先生がなくとかしてくれるって……」

「先ほども言いましたが、私は異常なしという判断をしました。入院しますか?」

 僕は返事をしなかった。怒りで身体が震えた。黙っていると母親が部屋に入ってきた。目の前の男はさっきと同じ説明を再びした。

「——なのでお薬は出せません。あとは入院するかどうかなのですが」

「入院はちょっと避けたいんですけれど、ほかに何か方法はありませんでしょうか?」

 と母親は質問した。

 うーん、とカルテを見ながら男は言った。

「これだと病気ではないのでねえ。幻聴もないので、統合失調症というわけでもないですし」

 ——紙切れ一枚で何がわかるんだよ、このゴミが。

「……他に先生いないんすか?」

 僕は俯きながら言った。男は少し間を置き、答えた。

「ええ、いませんね。今日は私だけですが」

「さっきの若い人でいいよ」

 僕は男の言葉を制すよう食い気味に言った。

「あれは研修医なので、先生じゃないです」

 男は鼻で笑ったように答えた。

「お前よりは何百倍もマシだったけど?」

「……はい?」

 と言う男その声には、少なくない怒りの色が含まれていた。

 僕は湧いてくる怒りの感情を、そのままの純度で吐き出した。

「お前みたいに紙一枚で適当に判断するんじゃなくて、さっきの人は親身になって話を聞いてくれたんだよ!」

「その話をまとめた物を読んで判断しているんですが?」
 
 僕が叫ぶと、男も声を荒げた。

「もういいよお前。話になんねえわ。このくそヤブが!」

 僕は席を立ちドアを乱暴に開けて待合室に出た。怒りで身体中侵食され、来た時より何倍も最悪な気分になった。結局なんの処置もされずに、金だけ払って病院を後にした。

 ——なんだこのクソ病院。潰れろ。消えてなくなれ。

 帰りの車で母親と二人、一言も口を聞かなかった。

 せっかく力を振り絞って病院に行っても、とんでもないはずれくじを引いてしまった。怒りがなかなか治らず、落ち込んでいるのに感情が昂り、自分が今どんな感情なのかがわからなくなってしまった。


 家に着くとタマが来ていた。母親が連絡していたらしい。以前家に来たときに連絡先を交換していたらしく、自殺未遂のことも伝わっている。

 先程の愚痴を聞いてもらおうかと思ったけど、うまく話すことが全くできなかった。何を言ってもきっと伝わらない。伝えられる自信がない。

 この頃彼女は本当に忙しくしていた。学校にバイト、ジッピーのライブ、弾き語り、ヒデさんとの轟音祭関連の集まり、更に着付け教室にも通っていた。何もない日はほとんどなく、予定の前後に僕と会うことが多かった。彼女は毎月スケジュールを送ってくれていたが、最近はもらってもほとんど確認せずにいた。
 そんな彼女に、何を話しても伝わる気がしなかった。
 僕の現状はかわらないし、彼女も何も変わってくれない。バンドがうまくいっていることも知ってる。言葉を交わせば何かしら傷付くことになる。どうせこの後には、別の予定がある場所に出かけていく。
 タマと一緒にいる時の方が、より孤独を感じるようになってきていた。


 残りの全て力を振り絞り、家の近くの小さなメンタルクリニックへ一人で行った。数人の患者が座っている待合室の雰囲気は、驚くほど暗く、負の感情が淀んでいるように思えた。老人の先生にかなり簡潔に症状を話した結果、「一時的な鬱状態」という文字が書かれた紙と、二種類の安定剤を数週間分もらった。普通に薬がもらえたことにほっとしつつも、ワナワナと怒りが湧いた。なにが「薬は出せません」だ、あのヤブ医者が。

 結局僕は病気ではないらしく、薬で気持ちを落ち着かせて様子を見ましょう、とのことだった。こんなちっぽけな薬で治るわけがないと思った。それほど頼りなく見える無機質な薬品だった。


 そんな時は、クボタからメールが来た。

「おっす。バンドやるかは置いといて一度会って話すか」

 読みながら僕は泣いた。もしかしたら、また出来るかもしれない。もうこれしか残ってない。

「会おう。会ってれ。俺はいつでもいいから、会いに行くから、空いてる日教えてくれ」
 
 返事をした。
 頼む、なんとかなってくれ——。


 しかし、そこからもう返事は来なかった。一時の気の迷いだったらしい。仕事中心の生活する中で、退屈凌ぎ的に魔が差したのかもれしない。
 一度期待してしまった分、地面に思い切り叩きつけられたような痛みが走った。
 やっぱりどうしても無理なのか。どうしても元には戻れないのだろうか……。
 


 またバイトを入れてもらえるようになった。
 朝から働いて、なんとか普段通り仕事をした。心は真っ暗で、ざわついたままだった。学生たちが騒ぐ声が、拡声器で増幅されたもののように喧しく聞こえた。なんとか力を振り絞るように働いた。
 交代の時間になるとエノさんが現れた。しかし、受付に近付いてきた彼の顔には表情が無かった。全くの無表情で受付の横に立ち、何の音も発さなかった。

「あ、おはようございます……」

 と僕は言った。しかしエノさんは何も言わず、何も見ていないかの様に僕を見ていた。荷物を持ち受付を出ると、彼はそのまま僕の座っていた椅子に座り、売上を数え始めた。

 これは一体、なんなんだろう……。

 現実が輪郭を失い濁っていく。その中でただ一つ認識できたのは、色の無い孤独感だけだった。完璧に嫌われてしまった。もう人間としてすら扱ってもらえないのか。エノさんそのあと黙々とお金を数え、本当に小さく「お金オーケーです」と言った。僕は伝達事項を無表情の彼に伝えた。彼は変わらない表情でスタジオの予約表を眺め、顔や眉などをピクリと動かすだけの相槌を打った。

「えっと、引き継ぎは以上です。……じゃあお疲れ様でした。……あの、本当に、……すみませんでした」

 僕が涙を流さないように、震えながら声を絞り出した。エノさんは目を合わさずに、ほんの僅かに頷いた。

 店の扉を開けると同時に涙が溢れ出た。階段を下りる振動で涙の粒があちこちに飛んでいった。本当に心から慕っていた、唯一尊敬していた人に嫌われてしまった。僕はどれだけ悪いことをしてしまったんだろう。本当に取り返しのつかないことをやってしまったんだ。もう絶対にやり直すことはできないんだ。
 悲しかった。泣いても泣いても涙が止まらなかった。死んで償うしかないんだ。もう罪を償う為にはそれしかない。それ以外の解決法なんてあるわけがない。
 あの頃に戻りたい。戻れるわけがない。逃げれば逃げるほど追いつめられる。だから命を絶つしかない。そして死にきれずに、また現実を疎かにし、迷惑をかける。そんなループから抜け出せない。逃げても逃げても追いかけられ、終わらせることも許されない無限地獄。生きながらにしてこんな所にやって来てしまった。


 どう頑張っても、死にたい気持ちを消せなかった。飲んでもちっとも効かない薬を、一つずつチビチビと噛み砕いていた。一個飲んでも全部飲んでも変わらないだろう、そんな風に思っていたら、途中から記憶が飛んだ。気が付くと僕は、リビングで寝ていて驚いた。何をしていたのか覚えていない。数時間ほどの記憶が欠落していた。これを使えば死ねるかもしれないと思った。首に縄をかけたまま、薬で意識を飛ばせば眠るように死ねるのではないか? 僕はそんなことを思った。

 薬を飲み切ってしまったので、ネットで外国産の睡眠薬を注文してみた。それは本当に驚くほど簡単に購入することができた。
 数日後に届いた物はラベルが英語だらけで、怪しげな紫の入れ物に入っていた。これを酒と一緒に飲めば、おそらく気を失える。そうすれば何の痛みも恐怖も感じることがなくなる。もう公園まで行く気力すらなかったので、家のクローゼットに死に場所を変更した。



 薬が届いた翌日、タマと会っていた。テキトーに身体を重ね、ロクに会話もしなかったような気がする。何かの拍子で睡眠薬を見られてしまった。

「なんですか、これ?」

 タマはカラカラとそれを振りながら、英字を読んでいた。

「いや、なんでもないよ」 

 僕が取り上げようとすると、彼女はそれを高く上げ、

「これは持って帰りますね」と言った。

「いやいや、大丈夫大丈夫」

 僕は無理矢理奪い返そうとした。

「ダメです」

 タマは強い力で抵抗した。

「……返せよ。頼むから返してくれ」

 僕が顔を歪ませながら懇願すると、ベットに突き飛ばされ、頬を張られた。

「いい加減にしてください」とタマは僕を睨んだ。

 何もいい返せなかった。

 そのまま彼女を車で送った。
 ほとんど会話がなかった。

「来月のスケジュール、こんな感じです」

 僕はそれを見て、意識を失いそうになった。ビッシリと詰めこまれたスケジュール。一日に複数ある予定。ライブと弾き語り合わせて十数本。それに比べて僕は、本当にまっさらだった。

 何もかもが終わった。そんな気がした。
 運転が出来なくなり、車を路肩に停めた。


「大丈夫ですか?」

「……」

「うちが忙しかったり、バンド上手くいってるの辛いですか?」

「……」

「嫌なら辞めますよ、全部」

「……」

「うちはあなたと生きていくって決めたんです」

「……」

「このままあなたが死んだら、うち、生きていけないです。追いかけちゃいますよ?」


 なんとか家まで送って別れた。僕は動けなっていたので断ったけれど、タマは、少しでいいからと、僕を家にあげた。

 タマの両親にも、僕が死のうとしたことがバレていた。色々と心配してくれて、お父さんもお母さんも話聞いてくれようとしたが、僕は何を話すべきかわからなかった。軟弱金魚のことをどう伝えればいいのだろう。そして、タマの存在が苦しくなっているなんて、伝えられるわけがない。
 お父さんと二人で話した。彼はスピリチュアルな話をたくさんしてくれて、僕も興味深くそれを聞くことができた。途中まではできていた。しかし「次同じことをしたら、もう会わせられない」とハッキリと言われ、その言葉がずっと僕の頭の中で響き続けた。重かった。今の僕には受け流すことのできない、五十メートルプール一杯分の水ほどの重さだった。強すぎる愛は時に膨張し、そばにいる弱い人間を虫ケラのように潰そうとする。


 その後タマは、本当にバンドを辞める方向で動き始めた。一瞬僕は安堵したが、すぐにジッピーのバンドメンバーのことが頭をよぎり。ますます僕を苦しめることとなった。一体何人の人生を狂わせればいいのだろうか。どれだけの人に恨まれなければならないのだろうか。頭の中の声は、徐々にうるさく、激しくなっていった。


 バイト先にもとんでもなく迷惑をかけた。ハルさんも、マツも、マーシーさんも、ナグラさんも、会話はしてくれるものの、みんな異質なものを見るような目をしていた。僕はその目が怖くて、誰とも喋れなくなりそうになった。
 二度目にあったエノさんは、僕が帰りがけにこう言った。

「人に迷惑かけて死のうとする奴なんて、普通にただシンプルにめんどくさいだけだよ」

 バンドがあった頃は、僕もそんなことを思っていた様な気がする。ぐずぐずしてないで死ぬなら今すぐ死ね、なんて、たぶん誰かに対して思っていただろう。しかし、いざそれが自分に向けられると、本当に心から応えてしまった。

 もう涙は出なかった。湿度のない悲しさがただただそこにあった。涙が出ない代わりに、心が抉られていく。出血もなく、傷だけが生々しく残っていく。あんなこと言われちゃって、あーあ、かわいそうな奴だねえ、と自分で自分を憐れんだ。

 これ以上傷付いたら、僕はもう首なんか括らなくても、自然に死ぬだろう。

 クボタ、ホシくん、お兄ちゃん、カメ、ハルさん、マーシーさん、エノさん、マツ、ヒデさん、シノさん、マコトさん、タマのお父さんとお母さん、兄、姉、父親、母親、そしてタマ。
 
 みんなが僕を恨んでいる。もしくは厄介、迷惑だと思っている。邪魔だ、消えろ、いなくなれ、死ね、別れろ、返せ、くたばれ。みんながそう思っている。

『もういいよ、買いに行かなくていい。もう終わりだ。機材も捨てた。お前に全部壊された』

 全部お前に壊された。

 全部、僕が、壊した——。


 フラフラと近所を彷徨い、薬を求めた。風邪薬を飲むと眠くなるということを知り、適当なものを二つ選んで買った。意識が朦朧とするものならなんだって構わなかった。タマがよく飲んでいたグレープフルーツの酎ハイを買い、家に着いてから、薬をチューハイで流し込んだ。量が多くて大変だったけど、なんとか時間をかけて全て飲んだ。

 クローゼットにマイクケーブルを結び、衣装ケース座りながら首に括り、意識が飛ぶように体重を乗せた。もう何の躊躇もなかった。うまく首に食い込み、一瞬気を失ったかと思ったが、またすぐに戻ってしまった。しっかりと締め付けられるように、何度も何度も体重を乗せた。容赦なく自分を殺しにかかった。ひたすら繰り返していると、また喉が痛み出してきた。こうなるとうまく体重を乗せられなくなる。

 死ねない。どんなに頑張っても、死ぬことができない。何の躊躇いもないのに。どうしても。

 次の瞬間、ものすごい吐き気に襲われた。すぐ側にあったゴミ箱に抱え込み、胃の中のものを一気に吐き出した。吐いても吐いても吐き気が止まらなかった。何も出なくなるまで吐いて、胃液を絞り出すまで吐いて、それでもずっと気持ち悪く、水を飲んでもその場で即吐き戻してしまった。

 なんだこれは、風邪薬のせいか? 胃が気持ちすぎる。体験したことのない強烈な吐き気だった。

 水を飲む度に胃が痙攣するようにそれを拒否し、全て吐き戻してしまい、何も摂取できなくなった。ものすごい吐き気と、何かを飲み込んだ時の激しい拒絶反応。固形物は考えるまでもなく食べられなかった。

 ただ息をする以外は何もできなくなった。

 頭の中では、色んな人の声がぐるぐると、ディレイやリバーブをかけたギターの音の様に、木霊し続けた。

『全部壊された、もう会わせることはできない、めんどくさいだけだよ、いい加減にしてください、私を悲しませたいの? 聞きたくねえよそんな話、もういいよ、全部辞めますから、別に潰してないだろ! 次同じことしたら、終わりだ、追いかけちゃいますよ? 全部お前に、何やってんだよ! 全部——』


 壊れた。


 

 飲み食いできなくなって二週間が経った。ネットで調べると、グレープフルーツと風邪薬は、化学反応が起こる飲み合わせらしく、絶対に同時に接種してはいけないらしい。そんなことは頭の片隅にも浮かばなかった。みるみるうちに痩せていき、体重はもうすぐ四十キロ台になろうとしてた。身体がミイラのように痩せ細り、髪の毛が抜けやすくなり、勃起もしなくなった。その間に何度か働くものの、足取りがおぼつき身体に力が入らなかった。更には頭も働かず、白昼夢を見ているような感覚になり、ほとんど何も覚えていない。ひたすら紙にペンを走らせたような気がする。
 
 これはまず過ぎると思い、親の付き添ってもらいながら病院を数件周ったが、異常なしと判断され喚き散らした。精神科に回されると、そこは例のヤブ医者がいる場所で、僕は個室のような待合室に通され身体の不調を訴え続けた。ヤブ医者がそこへ現れ、僕を駅のホームのゲロを見るような目で見た。「まぁ精神は問題ないでしょう」とクソみたいなセリフを吐いて去っていった。その後、精密検査も受けた。結果は同じだった。こんなに身体のおかしいのに、何も診断してくれない。そのことで頭がおかしくなりそうになった。もう精神も肉体もボロボロのぐしゃぐしゃだった。まともに何も考えられずに、混沌の中に落ちていった。


 ふと部屋あった時計を見ると、時計の針がぐにゃり歪み、時を刻んでいく様が脳内にありありと、五感すべてを支配するほど鮮明に見えた。それは『絶対に戻ることができない』という摂理の、強烈な実感によって作られた幻だった。

 走馬灯のように過去のイメージが次々と現れ、それら全てが今に繋がっているということを瞬時に悟った。そして震えるほどの恐怖を覚えた。絶対に取り返しのつかない、とんでもないことをしてしまったんだ、と。

 何故風邪薬なんか飲んだんだ? 何故しっかり心を治そうとしなかった? 何故バイトをばっくれてまで死のうとした? 何故ロクに謝りもせずバンドを終わらせた? 何故あの時ギターなんて壊した? 何故あの子と付き合えるなんて思った? 何故彼氏がいる人を奪うようなことをした? 何故あの子と出会った? 何故バンドだけを真剣にやらなかった? 何故バンドなんてやり始めた? 何故ロックなんて聴き始めた? そもそも何故、この世に生まれてきてしまったんだ?

 視界に入るもの全てが歪み、そのまま大きく渦巻いていく。

 戻れ、と僕は心の中で強く念じた。

 ——戻れ、戻れ、戻れ、戻れ、……戻れっ!

 何度唱えても、渦は右回りのままだった。僕はパニックと過呼吸になり、涎を垂らしながらベッドでのたうちまわった。
 しばらく経ち、身体が疲れ、部屋の隅で体育座りをしていたら、母親が部屋にやってきた。

「……大丈夫?」

 僕は訳の分からない説明をし、気付いた時には救急車に乗っていた。母親は泣いていた。身体を検査をするもまた異常なしの判断。僕は病院で叫び、喚き、暴れた。手が付けられないという事で、入院を宣告された。措置入院というやつだった。
 車輪付きのベッドで運ばれながら、流れゆく動く天井を見ていたら、ついに本物の狂人になったんだ、と思えて、笑いが込み上げた。

 もうなにもかもどうにでもなれ。もう何も知らない。モラルも責任も常識もルールもすべて放棄する。 

 目的の部屋に到着すると、複数の大人に持ち上げられベッドに縛り付けられた。手足と胴を固定され、身動きが取れなくなった。ベット以外は大きな窓しかない無機質な空間だった。母親が医者の説明を受けているのが見えた。

 しばらくすると下半身を裸にされ、オムツをはめられた。屈辱的なはずなのにほとんど何も感じなかった。もう僕は人間ではなくなっていた。 
 
 誰も望んでいない、何の望みもない、何一つ希望のない入院生活が始まった。
 

 

 まずは身体をいじくりまわされた。血を抜かれ、訳のわからない機械で何かを調べられ、それをいくつか続け、またベッドに戻された。水すら飲んでいなかったので、脱水症状が酷いとのことで、ひとまず点滴を打つことになった。

 そしてそこから、——何も起こらなかった。ただひたすらに無の時間。何かをされるわけでも、何をしていいわけでもない。首から上と手足の先が動かせるだけ。テレビもラジオも携帯も本も音楽も何もない。苦痛を感じても何もできない。訴える相手もいない。人権なんて一欠片もない。こんなことが普通に罷り通っているなんて狂ってる。しかし狂っているのはこちらも同じことか。


 そのうち食事の時間になったが、手足を拘束されているので、看護師に食べさせてもらうことになった。しかし僕は食べることを拒否した。どうせまた吐いてしまうのでいらないと言った。男は僕を蔑んだ目で一瞥し、部屋からいなくなった。

 しばらくすると点滴のせいか尿意を催してきた。水を飲めなくなってから、全く出なくなっていた。思い切ってしてみると少しだけ出た。身体がおかしい。明らかに壊れている。以前とはまるで感覚が違っていた。

 一日三度の食事。それ以外は何もできない。こんな生活に、こんな命に、意味などない。拘束を外し窓をぶち破って飛び降りる想像ばかりしていた。


 深夜——。
 どこかの部屋から声が聞こえて来た。

「……開けてください。……開けてください。……開けてください」

 言葉の間にはドアを叩く音。一時間以上それは続いた。手足を拘束されている為、耳を塞ぐことすらできない。僕はそれを延々と聞かされていた。

 ドンドンドン……開けてください。
 ドンドンドン……開けてください。
 ドンドンドン……開けてください。



 腕をつねられた。理由は覚えていないけど、僕は痛くてたくさん泣いた。すぐに右腕にアザができた。それを母親に見せると、彼女は困った顔をしていた。僕はただ泣くばかりだった。
 今度は塗り絵をしていた。ヒーローと怪獣に、色鉛筆で自分なりの色を塗った。それが終わると、僕は側にいた父親にそれを自慢げに見せた。すると彼は「下手くそ」と僕に言った。僕は悲しくて涙が出た。それに気付いた母親は「褒めてあげてよ」と言った。父親から上手く塗るアドバイスを受けて、僕は上から色を塗り直した。新しく完成したそれを「上手いじゃん」と言われた。僕はちっとも嬉しくなかった。
 リビングのソファーに座る母親に僕は甘えていた。僕は昔からこの人のことが大好きだった。父親が帰ってくると母親の隣に座り、僕から奪い取ってしまった。僕は泣きながら返してもらおうと必死になったけど、父親は母親の肩を抱いて離れなかった。僕は泣きながら布団に入り、悔しくてしばらく眠ることがでになかった。

 僕はそこで目を覚ました。
 昔からよく思い出す光景だった。
 ボーッとしながら、今の映像を頭に巡らせ。
 また別のものを、記憶の中から手繰り寄せた。

 高校を卒業する直前に、家を引っ越すことを母親から告げられた。そんなギリギリになって言われても、僕はどうしたらいいのかわからなかった。父親が帰ってきて、僕の進路の話になった。「どうせ引っ越すんだからいいじゃん」と、父親に言われた。何がいいのかよくわならなかったけど、僕は言われるがまま引越し、学校も行かずに父親の仕事を手伝うことになった。心の準備をする間もないまま変わっていく現実を、受け入れることができなかった。僕は知らない土地で泣きながら新聞を配った。大好きな家が無くなって、周り友達にも会えなくなって、心には大きな穴が空いた。
 そんなことを思い出していた。

 何不自由なく育てられたと思う。綺麗に片付けられた一軒家で暮らし、毎日手料理が食卓に並び、ゲームも漫画もおもちゃもなんでもあった。父親はあまり家にいなかったけど、その分贅沢をさせてくれた。母親はこれでもかというほど僕の身の回りの世話をし、自分で部屋の片付けができなくなったほどだった。これ以上ないほどしっかりと、そして何不自由育てられた。

 しかし、ある時気付いてしまった。僕の家には『教え』のようなものが何もなかった。どう生きるべきか、何を大切にするべきか、何を学ぶべきか、友達とどう接するべきか、人をどう愛すべきか、そういった類のことはなにも教わらなかった。小さい頃はケンカっ早く、トラブルが絶えなかった。しかし悪いことをしてもただ怒られるだけだった。その行為そのものだけを怒られ、植え付けられる新しい価値観はなかった。教えてくれないから、根本の部分が理解できなかった。

 基本的に生き方は音楽と本、そして友達との会話の中から見つけた。親の影響で好きになったものは、カーステで流れていたいくつか音楽くらいで、兄弟からの影響の方がよっぽど大きかった。他は全部自分で見つけ、バンドをやりたいという夢も、中学を卒業する頃には自然と決まっていた。
 そんな環境だったせいか、僕は親を尊敬するという気持ちを持つことができなかった。好きな母親と、あまり好きになれない父親がいる、というだけだった。大切な何かがカラッポのままだった。

 人や物を大切にする方法が、僕にはわからなかった。人を傷付けてばかりいたし、お金は人並みかそれ以上にもらっていた。壊れたおもちゃは、もう一度買ってもらえるのが当たり前だった。
 人を愛する方法なんてわかるはずもなく、捨て身でぶつかってはいつも大怪我をしていた。大事な人はいつかいなくなってしまうということと、失った時の悲しみを身を持って学んだ。そして僕は人を愛することを諦め、普通の人が望むような幸せな日々を捨て、どんなに茨の道でも獣道でも構わないと、バンドで生きる道を選んだ。

 音楽だけが救いだった。その場で聴く音楽と、いつかやってやろうと思う音楽。現在と未来から同時に僕を救ってくれた。空いてしまっている穴を埋めるように音楽を聴き続けた。たくさんの歌詞やメロディを少しずつ詰め込んでいった。音楽は僕の人生そのものだった。十四才の頃から十年以上、かけがえのない夢だった。音楽を一生続けていくと神様に誓っていた。

 しかし、その誓いを僕は破ってしまった。そのせいで、今このベットの上にいるのだろう。きっとそういうことなんだろう。

 人生が無くなったらどうすればいい? 音楽のない人生なんて想像すらしたことがなかったんだ。じゃあもう消えるしかないだろう? でも神様は許してはくれなかった。死ぬことは人生において最大の希望だと、そう思っていたのに。ボロボロのまま生き続けろと、ここに僕を残した。

 

 三日ほどが経ち。少し空腹を覚えるようになった。看護士が口に運ぶ物を試しに受け入れたら、なんとか吐き戻さずに食べることができた。思わず驚きの声を上げた。もうこのまま、何も食えずに一生を終えるような気がしていたからだ。
 また数日が経ち母親が見舞いに来た。こんな姿見られて、一体何を思えばいいのだろうか? 話すことなんて何もあるわけがない。こんな自分に生きる価値なんてあるわけがない。言葉少なげに病室を後にした。

 おむつが外され、代わりにカテーテルを尿道にぶち込まれた。彼女以外の女に初めてあそこを触られながら、グリグリとローションをつけた長い管を入れられる屈辱。もういっそ殺せよと思った。そんな僕の気持ちを知る由もなく、黙々と事務的に作業をこなす看護師。たぶん向こうは僕のことを人間だとは思っていないだろう。誰よりも僕がそう感じているのだから。

 また数日が経ち、拘束が解かれることになった。久しぶりに肉体的な自由を得た。そして食事も自分で取ることになった。人間に戻れたことと普通に食事ができるようになったことには、多少なりとも安心した。
 しかし三度の食事以外特に楽しみはなく、何も考えずに眠り続けていた。日中ずっと寝ていると夜は眠れなくなるので、毎日睡眠薬をもらって無理矢理眠った。部屋の鍵はまだ内側から閉まっていて、簡易トイレで用を足した。
 そうこうするうちに、部屋のガキが開けられた。食事は基本的に共同スペースで取ることになった。食事が盛られた皿が揃ったお盆を配膳台から取り、空いている席に持ってきて食べるという、学校の給食と似たようなシステムだった。四十人ほどの患者と相席になる為、なるべく端の席を選びコソコソと食らった。食事をしている姿を人に見られるのはあまり得意ではなかった。
 トイレにも普通にいけるようになった。そこあった大きな洗面鏡を覗いてみると、髪の長い髭を生やした顔色の悪い男がいた。髭を剃る道具は悪さをする危険性がある為、与えてもらえなかった。
 食事とトイレ以外は相変わらずずっと眠り続けていた。眠れなくても目を閉じて寝転んだ。消灯時間になったら目が冴えていて、毎日睡眠薬をもらいに行った。
 
 一度四十キロ台まで落ちた体重はみるみるうちに増えていき、減る前と比べても十キロほど増えていた。吸収力がおかしい。代謝も完全に悪くなっていた。確実に内臓がイカれているのがわかる。まぁでもそんなことはもう、どうでもいいことだ。

 定期的に身体を色々調べられた。血もたくさん抜かれた。肘の裏は苦手なので、手の甲あたりにしてくださいとお願いした。これを言うと誰もが少なからずめんどくさそうな顔をした。
 数日待って診察の結果が出たが、相変わらずの異常なし。日本のヘボい医学では、もう真っ当な検査は無理なのだろうと、諦めることにした。

 毎日が同じことの繰り返し。刺激はゼロ。一番したくなかった生活サイクル。三度の食事以外は何も楽しみがない。誰でも参加できるレクリエーションみたいなものも行われていたが、そんなお飯事のようなことに参加するわけがなかった。
 少し前までライブハウスで誰にも負けない演奏をしていた。ステージという名の、人より少し高い位置にある舞台に立っていた。しかし今のこれはなんなんだ? 給食のようなメシを食わされ、お飯事に参加する権利を与えられ、それ以外は何もしないでいる。カテーテルをねじ込まれ、睡眠薬を食らわされ、無理矢理眠らされる。頭が壊れそうになる。絶対にもうあの頃には戻れない。もうバンドも健康な身体も、二度と手に入らない。
 過去に戻れる道具があるなら売ってくれ。そんな方法があるなら教えてくれ。何故時間は先にしか進まないんだ。たまには前に戻ってくれてもいいだろうが、クソッタレ。アホンダラ。
 くだらないことを考え、睡眠薬を飲んで、また眠った。


 しばらく時間が経ち、一週間後に退院ということになった。当たり前だろう。そもそも何のために入院しているのかわからない。頭は普通だ。身体がおかしくなっただけだ。もう誰にも何も説明する気にすらならない。まぁもう俺の人生は終わったんだから、なんでもいい。

 たまに見舞いに来る母親。土産のお菓子を貪るように食らう。そのくらいしかこんな生活に刺激はない。
 食べて眠り、睡眠薬を飲み、また眠る。
 廊下を一日中彷徨く男がいる。夜中にはまた「開けてください」が聞こえてくる。レクリエーションに参加している者の笑い声が響く。

 こんな奴らと同じレベルなのか? 誰がどう見てもその通りだ。
 軟弱金魚の頃の自分どこへ消えた? お前が壊したんだ。
 ギターを壊す前からやり直せないのか? 無理に決まってるだろ。

 何でこんなことになってしまったんだ?

 もう考えることも辞めた。

 退院する日が来た。別にどうでもいい。思い入れも何もない。何の感慨もない。母親が迎えに来た車に乗り込むも、何も話すことはない。

 家に着いて、部屋に入って、布団に潜り目を閉じた。このまま死ぬまで眠り続けようか。もう俺にはそれしかない。

 久しぶりに携帯を触った。連絡して来る者はタマしかいない。僕にはもうバンドも職場も健康な身体もない。ずーっと身体には違和感が残っている。随分と太ってしまった。もう戻らない。

 死ぬことが希望だった。その望みが絶たれて、死ぬのが怖くなってしまった。若いうちにオサラバしたいと思い続けていた。だけど人間の身体はそうやすやすとは壊れない。普通にしていれば八十年も生きてしまうとんでもマシーンなのだ。ぶっ壊すにはそれ相応のパワーと覚悟と運が必要で、僕には何かが足りなかった。そりゃそうだ。電車に突っ込みでもすれば、命なんて簡単に無くなるだろう。高いところから飛び降りるのも確実性が高いはずだ。僕はそれをしなかった。何故か? それはただ単に、怖くてできなかっただけだ。死ぬことなんて怖くないと言いながら、そういった不可逆且つ確実性の高いものは避け、一番楽で中途半端な方法を選び、何の知識もなくオーバードーズをし、結果は身体だけを壊すという、本当に惨めな結果となった。最後の最後まで終わっている。


 家に戻ってきてから、僕は相変わらず何もせず、食って寝てばかりいた。体重は元より十五キロほど増えていた。髭も髪もボーボーだった。タマから連絡が来ていた。母親と連絡を取り合っていたのだろう。僕は無視をした。しばらくすると家に来た。僕はふらふらと、めんどくさいと思う気持ちを隠さずに、玄関に迎えにいった。タマは少し驚いたような顔をした。


「大丈夫ですか?」

「うん」

「入院してたんですよね?」

「うん」

「体重増えました?」

「うん」

「髭、伸びましたね」

「うん」

 何も話す気にはなれなかった。布団で横になっていると、タマも隣にきた。セックスをする気にもならなかった。勃つかどうかもわからなかった。少しだけキスをし、僕は眠った。起きた時にはタマは居なくなっており、置手紙がしてあった。読んでみるといつも通りの彼女の文章だった。大きくて力強い綺麗な字。こんなに変わってしまった僕にとっては、目を覆いたくなるような変わらぬ彼女の言葉。感覚がもうズレてしまっている。もうあの頃とは違う。全く別の意味でのノーフューチャー。この先の希望なんてまるでない。死ぬこともできない。

 それから連絡はほとんど返さなかった。週に一度くらいのペースでタマはやってきた。ロクに会話もせず、二人で眠った。セックスは何度かやってみたけど、あまりうまくいかなかった。


 ——こいつが全て悪いんだ。

 僕はそんな風にを思うようになった。


 タマと付き合ってから全ては狂い始めた。付き合ってすぐにバンドが解散した。付き合う前には散々苦しめられた。それを発散するかのように僕はバンドに当たり散らしていた。タマは変わらなかった。僕がどれだけダメになっても彼女は輝き続けていた。話も聞きたくなかった。会いたくもなかった。セックスするたびに僕の何かは奪われていった。疫病神の蛆虫だ。未だに僕に寄生をし続けている。僕にはもう何もないのに。

 彼女は僕が退院するのと同じタイミングで、音楽活動を辞めていた。しかし、何もかももう遅かった。今更何の意味もない。ただ苦しいだけだった。もう少し早ければきっと身体を壊すこともなかった。嫉妬に狂うこともなかった。ぐずぐずしているからこんなことになったんだ。バンドも仕事も健康な身体も、全てなくなった。全てはあの女のせいだ。そんなことばかり考えるようになった。

 出会わなければ良かった。音楽だけ続けていたら、今頃はすごいことになっていた。軟弱金魚は確実にCDを出していただろうし、ワンマンライブをしたりフェスに呼ばれるレベルにもなれていた。絶対に間違いなく、その辺にいる名前が知れ渡ってるバンドにも、負けないほどの素質があったんだ。
 奪ったのは全部あいつだ。他の男に会いながらも、僕を弄び続けたあいつなんだ。僕はタマだけを見ていた。純粋な気持ちで人を好きになっただけだった。しかしあいつは違う。はっきりせずに二股を掛けて楽しんでいたただのビッチだ。そんなことするなら僕である必要はなかっただろう。僕は人を好きになりたくなんかなかった。でも仕方なく、特別だから、運命だったから、この人しかいないと思ったから、それを受け入れただけなのに、あいつは僕を踏み躙った。

 
 身体に違和感がありながら、タマを恨みながらも外に出かけることがあった。僕はあまり言葉を発せず、タマはそれに習うかのように手だけを繋いでいた。何かを考えるとすぐに昔を思い出し、今を後悔し、目の前にいるタマを憎んでしまっていた。なるべく考えるのをやめて、無心になるように努めた。辞めていたタバコをまた吸い始めた。考えることも喋ることもないとなると、かなり手持ち無沙汰になる。それを解消するには喫煙するしかなかったのだ。そんな僕の隣でタマも一緒になって煙を吸った。酒はもう飲めなくなっていたので、その代わりでもあった。ただ二人で言葉少なげに煙を吸って黄昏ていた。

 タマと一緒にいたい気持ちは、もうほとんどなくなっていた。僕はそんな気持ちを少しも隠さず、連絡も返さなかった。それでもタマは僕に会いにやってきた。このまま一緒に居ても、先がないのはわかりきっていた。しかしこのまま手放したら、本当に何の為に一緒になったのかわからない。
 僕を弄び、バンドを壊し、エネルギーを吸収し、吸い尽くしたところでおさらばか? あいつはまた次のターゲットを見つけだし、そいつの精液を絞り取るのだろう。それを餌に更に化け物になっていく。想像しただけで、相手の男共々殺してやり気持ちになった。そんなことになるくらいならいっそのこと、手を下してしまうしかないのだろうか。

 タマからメールが来た。

「最後に会いに行きますね」

 と書いてあった。

 チャイムがなって、玄関を開けるとタマがいた。二人で部屋に入り、何も話さずにキスをして、そのままセックスをした。終わるまでほとんど言葉を交わさなかった。久しぶりに普通にできた。季節は夏になっていて、僕らはライブ終わりのように汗だくになっていた。汗をかかなくなってから、いつの間にかもう一年以上が過ぎていた。

 脱いだ服を着ながらタマは口を開いた。

「帰りますね。もう来ませんから」

 胸がズキリと痛んだ。本当にこんな形で、無様に終わるのか。

「……別れんの?」

 と震えながら訊いた。

「ええ」

 はっきりとした口調でタマは答えた。

「あんたのせいでこうなったんだけど」

 そう言うと、タマは少し笑いながら返した。

「違いますよね?」

 僕は沈黙し、彼女を睨んだ

「……またバンドやんの?」

「やりませんよ」

 と澄まし顔で答え、タマは立ち上がった。

「今までありがとうございました」

「おい」

 僕はタマの手を掴んだ。

「お前のせいでこうなったのに逃げんじゃねーよ」

 言ってることがめちゃくちゃなのは、自分でもわかっていた。彼女は僕を見下ろしながら、堰を切るように言った。

「違いますよね? それは自分でもわかってるはずですよ。うちは最後まで一生懸命やりました。バンドも辞めたし、入院してもずっと待ってたし、連絡もし続けました。うちはあなたがどんなことになっても、ずっと側にいるつもりでした。その覚悟があったから一緒になったんです。あなたがちゃん生きようとさえしてくれれば、うちは全てを捨ててあなたを支えるつもりでした。……でも、もう限界です。連絡も返ってこない人に毎回会いに来て、それでもあなたは何も話してくれなくて、一人でとっても寂しく家に帰って、また会いに行って、そんなことの繰り返しで……。うちと付き合うことを選んだのも、バンドめちゃくちゃにしてしまったのも、身体を壊したのも、全部あなたが自分で決めてやったことです。それなのに、俺は悪くないんだ、全部周りが悪いんだー、なんて言われても困ります。……それにあなたは、もううちのことを、愛してないですよね?」

 何も言えなかった。タマは僕の手を振り払い、

「さようなら」

 と言うと、荷物を持ち部屋を出ようとした。

 血の気が引いていく。このままでは全て終わってしまう。そんなの許されない。めちゃくちゃにしたのはこいつなのに。何の罰も受けずに逃げようとしている。引いた血の気が一気にてっぺんまで登った。

「お前が悪いんだよ!」

 タマに掴み掛り、そのまま床に倒した。周りの物が音を立てて散乱する。僕はタマの首を掴み、思い切り両手で絞めた。

「お前のせいだ……、お前が全部悪いんだよ」

 タマの顔が歪んでいく。

 ——殺すのか? このままタマを? 本当に?

 頭は真っ白だった。このまま壊せば、それでもう、何の未練も——。

 その時、室の扉が開いた。

「なにやってるの!」

 と言いながら母親が部屋に入ってきた。僕は引き剥がされそうになった。

「やめて、お願いだから、やめて……」

 僕は無視して力を込め続けた。六本の腕が入り乱れて、そのうちの四本は僕の邪魔をした。首から手が剥がされてしまった。今度は髪の毛を掴んでなんとか壊そうと試みるも、腕を押さえつけられてほとんど動かすことができなかった。もう壊せないのは明らかだった。しばらくそのまま硬直して、疲れてしまい手を離した。体力が完全になくなっていた。

 タマは乱れた頭のまま立ち上がった。

「お前になんか殺されるかよ!」

 初めてステージ以外で叫び声を聞いた。

「早く帰れ! この売女が! 二度と俺に顔見せるな! 早く死ねよ! このくそ女が!」

 叫びながら、何を言ってるのかわからなかった。何でこうなっているのか、これは本当に現実なのか、もう何もわからない。
 母親は困惑しながらタマを玄関まで送っていた。

「すみませんでした。もう二度とお邪魔しませんから、今までありがとうございました」

 という声が微かに聞こえた。早くいなくならないと、このまま包丁か何かを持ってきて、また彼女を襲ってしまうことになる。そんな妄想が止まらない。早く消えてくれ。

「早く帰れよ! くそが!」

 そう叫ぶのが精一杯だった。

 タマはそのまま、外の世界へ消えていった。
 
 僕は息を切らしながら、ベッドに大の字に倒れた。完全に何もなくなった。僕の人生は終わった。何一つ大切にすることができずに、全てをめちゃくちゃに破壊した。

 涙が耳を通り過ぎ、髪の毛を濡らしていった。止まることはなかった。こんな別れ方をするなんて、本当に現実に起こったことなのか、僕にはもう何もわからなかった。天井睨み続け、涙が流れ続けた。


『——ごめんもう別れようって告げたら、彼はおかしくなっちゃいました。よくわからないことを叫んで、壁をガンガン殴って、手が血まみれになって、うちはもう止める気力すらなくて、ぼーっとそれを眺めてました——』

『——なんか羨ましいな、その人』

『最初の人?』

『うん。あなたの初めてを味わえていいなーと思うよ。俺だったらそのままずっと付き合うように、頑張ったと思う』

『彼も頑張ったと思いますよ? でも無理でした。お互い子供だったし、限界でした——』


 結局同じことになった。初めての彼氏を羨んで、彼のようになりたいと願ったら、本当にその通りになった。いや、その何千何百倍も最悪な終わり方だ。彼の苦しみも理解せず、安全な場所から上から目線で都合のいいことを言って、馬鹿にしながら羨んで、それで罰が当たったんだ。
 
 世界で一番クソッタレだ。そう自覚して消えようと思ったのに、死ぬことすらできないなかった。自殺する人なんて大勢いて、年間に何万人も死んでいるのに、その中の一つの数字にすらなれない、世界で一番の愚か者。

 カッコいい音楽を鳴らして、本当に好きな彼女がいて、最高の職場とスタジオとライブハウスにいた自分は、跡形もなく消えた。少し前までそうだったはずなのに、もう遠い遠い遥か昔のことのようだ。僕は何もしないことができなかった。高く高く積み上げた物を僕は全部、自らの手で壊してしまった。更には自分自身を壊し、最愛の人までをも壊そうとした。もう絶対に、二度と戻ることはできない。絶対に。

 僕は考えることをやめ、生きることも死ぬことも諦め、ただそこにいた。ただの肉の塊だけがそこにあった。
 

 僕の人生は終わった。
 

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